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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』36

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪3

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 36

 仏のたまはく、「その二つの悪とは、世間の人民、父子・兄弟・室家・夫婦、すべて義理なくして法度に順はず。奢婬・驕縦にしておのおの意を快くせんと欲へり。心に任せてみづからほしいままにたがひにあひ欺惑す。心口おのおの異にして、言念実なし。佞諂不忠にして、巧言諛媚なり。賢を嫉み善を謗りて、怨枉に陥し入る。主上あきらかならずして、臣下を任用すれば、臣下自在にして機偽多端なり。度を践みよく行ひてその形勢を知る。位にありて正しからざれば、それがために欺かれ、みだりに忠良を損じて天心に当らず。臣はその君を欺き、子はその父を欺く。兄弟・夫婦・中外・知識、たがひにあひ欺誑す。おのおの貪欲・瞋恚・愚痴を懐きて、みづからおのれを厚くせんと欲ひ、多くあることを欲貪す。尊卑・上下、心ともに同じくしかなり。家を破り身を亡ぼし、前後を顧みず、親属内外これによりて滅ぶ。ある時は室家・知識・郷党・市里・愚民・野人、うたたともに事に従ひてたがひにあひ利害し、忿りて怨結をなす。富有なれども慳惜してあへて施与せず。宝を愛して貪ること重く、心労し身苦しむ。かくのごとくして、竟りに至りて恃怙するところなし。独り来り独り去り、ひとりも随ふものなけん。善悪・禍福、命を追ひて生ずるところなり。あるいは楽処にあり、あるいは苦毒に入る。しかる後に、いまし悔ゆともまさにまたなんぞ及ぶべき。世間の人民、心愚かにして智少なし。善を見ては憎み謗りて、慕ひ及ばんことを思はず、ただ悪をなさんと欲ひて、みだりに非法をなす。つねに盗心を懐きて他の利をケ望す。消散し糜尽してしかもまた求索す。邪心にして正しからざれば、人の色ることあらんことを懼る。あらかじめ思ひ計らずして、事至りていまし悔ゆ。今世に現に王法の牢獄あり。罪に随ひて趣向してその殃罰を受く。その前世に道徳を信ぜず、善本を修せざるによりていままた悪をなさば、天神、剋識してその名籍を別つ。寿終り、神逝きて悪道に下り入る。ゆゑに自然の三塗の無量の苦悩あり。そのなかに展転して世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを二つの大悪・二つの痛・二つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを二つの大善とす」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 36

 釈尊が言葉をお続けになる。
「第二の悪とは次のようである。世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家のものも、道義をまったくわきまえず、規則にしたがわず、贅沢[ぜいたく]を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを[あざむ][まど]わしあっている。言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞をいい、賢いものをねたみ、善人を悪くいい、他人をけなしおとしいれるのである。
 もし上に立つものが愚かであり、よく考えずに下のものを用いると、下のものは、思うがままにいろいろな策を弄して巧みに悪事をはたらく。国法を守り世情によく通じたものがいても、上に立つものがその地位にふさわしい力量をそなえていないから、そのために欺かれて、忠義を尽すものはかえって不遇[ふぐう]な目にあうばかりである。これは道理に反している。このように下のものが上のものを欺き、子は親を欺き、兄弟・夫婦・親族・知人に至るまで、互いに欺きあっているのである。それは各自が[むさぼ]りと怒りと[おろ]かさをいだいて、できるだけ自分が得をしようと思うからであって、この心は身分や地位にかかわらず、みな同じである。そのために家を失い身を滅ぼし、先のことも後のこともよく考えないで、親類縁者まで被害にあって破滅してしまう。
 あるときは、親族や知人、町や村のもの、また素姓の知れないものたちが、ともに悪事にたずさわり、互いに利害を争って腹を立て、恨みをいだくこともある。また裕福でありながらも物惜[ものお]しみして人に施し与えようとせず、財産に執着するばかりで身も心もすりへらしてしまう。こうしていよいよ命が終わる時には、何もあてにできるものがなく、結局、独り生れ来て独り世を去るのであって、何も持っていくことはできない。善も悪も禍も福も、すべては因果の道理にしたがうのであり、天人や人間として生れるものもいれば、地獄や餓鬼や畜生の世界に生れるものもいる。そうなってからいくら後悔しても、もはやどうにもならない。
 世間の人々は愚かで智慧も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず、ただ悪事を好んで、道理に背いたことばかりをするのである。他人が得をしていると、それを見ていつもうらやみ、盗んで手に入れようと思い、盗めばすぐに使いはたして、また手に入れようとする。心がよこしまで正しくないから、いつも人の顔色をうかがい恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きてようやく後悔するというありさまである。
 この世には現に法令に定められた牢獄[ろうごく]があるから、罪に応じてその刑罰を受けなければならない。前世においてさとりの徳を信じず、功徳を積まずに、この世でまた悪を犯すなら、天の神がその罪を漏らさず記録しているから、命が終われば悪い世界に落ちなければならないのである。
 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを、第二の大悪、第二の痛、第二の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第二の大善というのである」


 贅沢に溺れる悪

註釈版
 仏のたまはく、「その二つの悪とは、世間の人民[にんみん]父子[ぶし]・兄弟・室家[しっけ]・夫婦、すべて義理なくして法度[ほうど][したが]はず。奢婬[しゃいん]驕縦[きょうじゅう]にしておのおの意を[こころよ]くせんと[おも]へり。心に任せてみづからほしいままにたがひにあひ欺惑[ごわく]す。心口[しんく]おのおの[こと]にして、言念実[ごんねんまこと]なし。佞諂不忠[にょうてんふちゅう]にして、巧言諛媚[きょうごんゆみ]なり。[けん][そね]み善を[そし]りて、怨枉[おんおう][おと]し入る。
現代語版
 釈尊が言葉をお続けになる。
「第二の悪とは次のようである。世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家のものも、道義をまったくわきまえず、規則にしたがわず、贅沢[ぜいたく]を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを[あざむ][まど]わしあっている。言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞をいい、賢いものをねたみ、善人を悪くいい、他人をけなしおとしいれるのである。

 仏教の戒律の中で第二に挙げられているのが「不偸盗戒[ふちゅうとうかい]」です。偸盗というのは一般的に他人のものを盗む≠アとと理解されているようですが、この経典で挙げられている第二悪はそんな単純なものではなく、「奢婬[しゃいん]驕縦[きょうじゅう]にしておのおの意を[こころよ]くせんと[おも]へり」とあります。「奢婬[しゃいん]」は「贅沢[ぜいたく]を好み、みだらなこと」、「驕縦[きょうじゅう]」は「おごりたかぶり、勝手気ままであること」ですから、贅沢[ぜいたく][おご]り高ぶりのために道理を犯す悪≠ェ問題視されています。
 前章の「第一悪」はある意味必要悪で、自分が生き抜くために心ならずも他を犠牲にしなくてはならず、このことを当たり前≠ニ開き直り懺悔がないことを問題としました。しかし第二悪以降は、本来犯す必要がないことをあえて犯す悪であり、人間のみが犯す悪であるといえます。現代社会の様々な問題点もここに見出すことができるのではないでしょうか。

 まず個人的な問題として、「心に任せてみづからほしいままにたがひにあひ欺惑[ごわく]」とあります。確かに世の人々は、自分の贅沢な欲望をかなえようとして、互いに[だま][まど]わしあっているありさまです。本来は、存亡の危機がないのであれば、互いに正直に仲良く分け合って生きていれば良いのですが、安易に甘い汁を吸おうとして相手を出し抜き、騙して利益を得、人々を惑わせ自分は高みの見物を決め込んでいます。そのため平気で本心を偽り、心も言葉も誠実さがありません
 そして、「佞諂不忠[にょうてんふちゅう]」は「こびへつらって誠実さがないこと」であり、「巧言諛媚[きょうごんゆみ]」は「言葉たくみに相手にとりいること」ですから、上司や上層部にはこびへつらい、心ない世辞が上手で相手にとりいってゆく≠アと、こうした行為は客観的に見ると極めて醜く浅ましいことなのですが、組織においては得てしてこういう人間が早く出世してしまうのです。さらにこうした不誠実な人間は、賢い人間には嫉妬し、善をあえて悪く言い、「怨枉[おんおう][おと]し入る」ということですから、「人を怨んで無実の罪におとし入れる」ことばかりするのです。

 組織の中で拡大する第二悪

註釈版
主上[しゅじょう]あきらかならずして、臣下[しんげ]任用[にんよう]すれば、臣下自在[しんげじざい]にして機偽多端[きぎたたん]なり。[][]みよく行ひてその形勢[ぎょうせい]を知る。位にありて正しからざれば、それがために[あざむ]かれ、みだりに忠良[ちゅうりょう]を損じて天心[てんしん]に当らず。[しん]はその[くん][あざむ]き、子はその父を欺く。兄弟・夫婦・中外[ちゅうげ]・知識、たがひにあひ欺誑[ごおう]す。おのおの貪欲[とんよく]瞋恚[しんに]愚痴[ぐち][いだ]きて、みづからおのれを[あつ]くせんと[おも]ひ、多くあることを欲貪[よくとん]す。尊卑[そんぴ]・上下、心ともに同じくしかなり。家を破り身を亡ぼし、前後を顧みず、親属内外[しんぞくないげ]これによりて滅ぶ。
現代語版
 もし上に立つものが愚かであり、よく考えずに下のものを用いると、下のものは、思うがままにいろいろな策を弄して巧みに悪事をはたらく。国法を守り世情によく通じたものがいても、上に立つものがその地位にふさわしい力量をそなえていないから、そのために欺かれて、忠義を尽すものはかえって不遇[ふぐう]な目にあうばかりである。これは道理に反している。このように下のものが上のものを欺き、子は親を欺き、兄弟・夫婦・親族・知人に至るまで、互いに欺きあっているのである。それは各自が[むさぼ]りと怒りと[おろ]かさをいだいて、できるだけ自分が得をしようと思うからであって、この心は身分や地位にかかわらず、みな同じである。そのために家を失い身を滅ぼし、先のことも後のこともよく考えないで、親類縁者まで被害にあって破滅してしまう。

 前節のように不誠実な[][へつら]い人間≠ェ重用されれば、その組織でどのようなことが起こるかは想像がつくでしょう。実際、古今東西様々な国家や地方においてどのような官僚が重用されたのか、会社や団体においてどのような人間が出世していったのか、そしてその結果がどうであったのか、検証して頂ければその重要性は解ると思います。
 現代社会においても人事は大きな課題です。「主上[しゅじょう]あきらかならずして、臣下[しんげ]任用[にんよう]すれば」とは人事の失敗をいいます。第二悪は、個人的な問題に留まっているうちはまだ傷も浅いのですが、組織や国家的な問題に拡大すれば、いわゆる伏魔殿[ふくまでん]が形成され巨悪に成長してしまいます。具体的には、「臣下自在[しんげじざい]にして機偽多端[きぎたたん]なり」(下のものは、思うがままにいろいろな策を弄して巧みに悪事をはたらく)とありますが、これはたとえば、日本においても官僚の腐敗や政治家の汚職問題が取り沙汰されてきましたし、世界的に見ても、銀行や証券会社の人間が利益を貪って制度を破綻させ、自分たちは責任を負わず公金で贅沢三昧の生活を楽しむというような強欲ぶりが露呈しましたが、こうした底なしの闇を生む要因を第二悪として挙げているのでしょう。

 もちろん中には、公平無私で誠意をもって勤めを果たそうとする人もいます。「[][]みよく行ひてその形勢[ぎょうせい]を知る」とは、よく法度を実践し、天下の大勢を知ることを言います。しかしこうした人たちは得てして上司の受けが悪く、仲間からも煙たがられる存在になりがちです。そのため多勢に無勢で自浄作用を発揮させようにも適わぬことが多いのです。「位にありて正しからざれば、それがために[あざむ]かれ、みだりに忠良[ちゅうりょう]を損じて天心[てんしん]に当らず」(上に立つものがその地位にふさわしい力量をそなえていないから、そのために欺かれて、忠義を尽すものはかえって不遇[ふぐう]な目にあうばかりである。これは道理に反している)とはそうしたことで、これを聞くと第二悪の重さが実際の問題として顕現してきます。

 結果として、「[しん]はその[くん][あざむ]き、子はその父を欺く。兄弟・夫婦・中外[ちゅうげ]・知識、たがひにあひ欺誑[ごおう]す」(このように下のものが上のものを欺き、子は親を欺き、兄弟・夫婦・親族・知人に至るまで、互いに欺きあっているのである)という有様に陥るのですが、この原因はどこにあるのか。これこそ「おのおの貪欲[とんよく]瞋恚[しんに]愚痴[ぐち][いだ]きて、みづからおのれを[あつ]くせんと[おも]ひ、多くあることを欲貪[よくとん]尊卑[そんぴ]・上下、心ともに同じくしかなり」(それは各自が[むさぼ]りと怒りと[おろ]かさをいだいて、できるだけ自分が得をしようと思うからであって、この心は身分や地位にかかわらず、みな同じである)、つまり全ての者が我執に満ちた利益至上主義の生き方をしていることに原因があると指摘しているわけです。
 しかも、第一悪の必要悪と違い、自堕落[じだらく]で贅沢な生活を望むため犯すのが第二悪です。これはまさに現代社会の問題点で、利己主義によって自浄作用を失っていることが様々な組織や環境の問題点でありましょう。「家を破り身を亡ぼし、前後を顧みず、親属内外[しんぞくないげ]これによりて滅ぶ」というのは第二悪の当然の結果です。

 個人的な行く末

註釈版
ある時は室家[しつけ]・知識・郷党[きょうとう]市里[じり]・愚民・野人[やにん]、うたたともに事に従ひてたがひにあひ利害し、忿[いか]りて怨結[おんけつ]をなす。富有[ふう]なれども慳惜[けんじゃく]してあへて施与[せよ]せず。宝を愛して貪ること重く、心労し身苦しむ。かくのごとくして、[おわ]りに至りて恃怙[じこ]するところなし。[ひと]り来り独り去り、ひとりも随ふものなけん。善悪・禍福[かふく][みょう]を追ひて生ずるところなり。あるいは楽処[らくしょ]にあり、あるいは苦毒[くどく]に入る。しかる後に、いまし[]ゆともまさにまたなんぞ及ぶべき。
現代語版
 あるときは、親族や知人、町や村のもの、また素姓の知れないものたちが、ともに悪事にたずさわり、互いに利害を争って腹を立て、恨みをいだくこともある。また裕福でありながらも物惜[ものお]しみして人に施し与えようとせず、財産に執着するばかりで身も心もすりへらしてしまう。こうしていよいよ命が終わる時には、何もあてにできるものがなく、結局、独り生れ来て独り世を去るのであって、何も持っていくことはできない。善も悪も禍も福も、すべては因果の道理にしたがうのであり、天人や人間として生れるものもいれば、地獄や餓鬼や畜生の世界に生れるものもいる。そうなってからいくら後悔しても、もはやどうにもならない。

 前節は第二悪の社会的影響を述べていましたが、この節は個人的な影響を明かにします。まず「ある時は室家[しつけ]・知識・郷党[きょうとう]市里[じり]・愚民・野人[やにん]、うたたともに事に従ひてたがひにあひ利害し、忿[いか]りて怨結[おんけつ]をなす」とありますが、これは血縁・地縁による一族郎党が悪の企みで結託[けったく]したり、互いに素性さえ知らない者どうしが闇の企みで結びついたりして悪を為すのですが、結局は自分の利益ばかり追っているので、仲間割れが起き、誰彼かまわず害を加えることになることをいいます。こうした[みにく]い争いは現代でもよく見聞きするところです。

 また、「富有[ふう]なれども慳惜[けんじゃく]してあへて施与[せよ]せず。宝を愛して貪ること重く、心労し身苦しむ」とありますが、裕福な者が他に施しをせず、自分の財産に執着し、物おしみばかりしていると、財産があるゆえにかえって憂い悩みが大きくなってしまうことを言います。{釈迦指勧 浄穢欣厭}には「田あれば田に[うれ]へ、[いえ]あれば宅に憂ふ。牛馬六畜[ごめろくちく]奴婢[ぬひ]銭財[ぜんざい]衣食[えじき]什物[じゅうもつ]、またともにこれを[うれ]」とありましたがこの原因が第二悪なのです。

 こうして強欲な日々を重ねていくと、人生の最期はどのようなありさまになるでしょう。経には「かくのごとくして、[おわ]りに至りて恃怙[じこ]するところなし。[ひと]り来り独り去り、ひとりも随ふものなけん」とあり、「恃怙」とは「たのみとすること」で、これが「なし」ということですから――長々人生を重ね様々な欲を適えてきたつもりたったけれど、こうして死を目の前にしたら自分には何も残っておらず、これといってたのみとするものは見出せなかった。金品はもはや使い道がなく、子や孫・友人知人も欲望でつながっただけの縁で、まごころから慕ってくれる者は一人もいない。自分が死ねば財産は皆が奪い合うことになり、私の人生そのものは誰も引き継いではくれないだろう。一体自分は何のために生まれ、何のために日々努力してきたのだろう。孤独の中で虚しさだけがつのってくる≠ニいうような心境で臨終までを過ごさなければなりません。

 こうした境遇の人たちは、罪過[ざいか]を他人のせいにしがちなのですが、経には「善悪・禍福[かふく][みょう]を追ひて生ずるところなり」とあります。実際この通りで、今ある結果は全て「自己のなす業に従って」現れているだけなのですから、誰を怨むこともできないわけです。また「あるいは楽処[らくしょ]にあり、あるいは苦毒[くどく]に入る」とある通りで、誰かが裁くわけではなく、自ら生み出した行業に随い人天や地獄の世界へ自分で趣いているだけなのです。強欲な人間は強欲な人間の世界に趣いて全てを強欲に奪われ、正直で施しを行う人間は正直で施しあう世界に生まれて安楽に暮らす。このようにして当たり前の結果が出ているだけなのですから、今さら後悔してももはやどうにもならないことは道理でありましょう。昔話の「花咲じいさん」は、こうした道理が解りやすく物語られているのです。

 客観的な偸盗の事実

註釈版
世間の人民、心愚かにして智少なし。善を見ては憎み[そし]りて、[した][およ]ばんことを思はず、ただ悪をなさんと欲ひて、みだりに非法[ひほう]をなす。つねに盗心を懐きて他の利をケ望す。消散[しょうさん]糜尽[みじん]してしかもまた求索[ぐしゃく]す。邪心にして正しからざれば、人の[]ることあらんことを[おそ]る。あらかじめ思ひ計らずして、事至りていまし[]ゆ。今世[こんぜ]に現に王法[おうぼう]牢獄[ろうごく]あり。罪に随ひて趣向[しゅこう]してその殃罰[おうばつ]を受く。その前世に道徳を信ぜず、善本[ぜんぽん][しゅ]せざるによりていままた悪をなさば、天神、剋識[こくし]してその名籍[みょうじゃく][わか]つ。寿終[いのちおわ]り、神逝[たましいゆ]きて悪道に[くだ]り入る。ゆゑに自然[じねん]三塗[さんず]の無量の苦悩あり。そのなかに展転[てんでん]して世々に[こう][かさ]ねて出づる[]あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを二つの大悪・二つの痛・二つの焼とす。勤苦[ごんく]かくのごとし。たとへば大火の人身[にんじん]焚焼[ぼんじょう]するがごとし。
現代語版
 世間の人々は愚かで智慧も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず、ただ悪事を好んで、道理に背いたことばかりをするのである。他人が得をしていると、それを見ていつもうらやみ、盗んで手に入れようと思い、盗めばすぐに使いはたして、また手に入れようとする。心がよこしまで正しくないから、いつも人の顔色をうかがい恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きてようやく後悔するというありさまである。
 この世には現に法令に定められた牢獄[ろうごく]があるから、罪に応じてその刑罰を受けなければならない。前世においてさとりの徳を信じず、功徳を積まずに、この世でまた悪を犯すなら、天の神がその罪を漏らさず記録しているから、命が終われば悪い世界に落ちなければならないのである。
 このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを、第二の大悪、第二の痛、第二の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

 この節では第二悪の偸盗[ちゅうとう](盗み)を客観的に述べ、その醜さを明かにしています。「世間の人民、心愚かにして智少なし」とありますが、偸盗を犯す根本的な原因は智慧のない愚癡[ぐち]無明[むみょう]≠ノあることを教えています。仏教はまごころの智慧≠尊ぶ宗教でありますが、全ての災厄[さいやく]は智慧の欠如から起こっていることを教えているのです。なぜ人は盗みを犯すのかというと、盗めば利益が得られると思っているからこれを犯すのです。しかし真実は、盗めば盗んだ以上の損失を蒙るのであり、こんな簡単な道理が解らないこと、智慧が無いから偸盗を止められないのです。

 どうしてこんな簡単な道理が解らないかと言うと、「善を見ては憎み[そし]りて、[した][およ]ばんことを思はず」とある通りで、人々が善行の功徳を語らず憎みそしることで、善に親しむ機会が奪われてしまっているためなのです。善とは自他の心身に利益をもたらすことを言うのですから、本来衆生は本心から善を慕い続けるのが自然の成り行きなのですが、智慧が無いために善を憎み悪の道に走ってしまう、「ただ悪をなさんと欲ひて、みだりに非法[ひほう]をなす」ことになってしまうのです。

 この具体例として「つねに盗心を懐きて他の利をケ望す。消散[しょうさん]糜尽[みじん]してしかもまた求索[ぐしゃく]」とあります。強欲な人間は足ることを知りませんから、他人が利益を得ていると我慢できず、自分も利益を得たいと欲望を起こし、道理の通らない盗むような方法で儲けを得ます。ところが「悪銭身につかず」ですぐに金品を使い果たし、さらに貪欲を起こして不法に設けようとするのです。現在もこうした不法な商法ははびこり被害の拡大を食い止められないありさまは、まさに第二悪が巨悪となって社会を根底から崩す要因になっていることと重なります。

 ではこうした強欲な人間が幸せになっているかというとそうではなく、「邪心にして正しからざれば、人の[]ることあらんことを[おそ]」とある通り、犯罪や犯罪的な行為がばれないかといつもびくびくし、他人の顔色をうかがい恐れていなくてはなりません。財産はあるけれど不法なものなので、心穏やかではいられず、この影響は身体にまでおよびます。そこで他人と競った贅沢など望まなければよかった≠ニ悔いるのですが、後悔先に立たず、「あらかじめ思ひ計らずして、事至りていまし[]」で、いつも恐れおののいて暮らさなければなりません。
 なお「今世[こんぜ]に現に王法[おうぼう]牢獄[ろうごく]あり」から「たとへば大火の人身[にんじん]焚焼[ぼんじょう]するがごとし」は、前章の
{#神々が罪を記録し閻魔王に報告する}{#社会法規に譬えて}{#報復合戦の醜悪さ}とほぼ重複する内容ですから略させていただきます。

 贅沢心を制する大善

註釈版
人よくなかにおいて一心に[こころ]を制し、身を[ただ]しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪[しゅあく]をなさざれば、身独り度脱[どだつ]して、その福徳[ふくとく]度世[どせ]上天[じょうてん]泥オン[ないおん][どう]を獲ん。これを二つの大善とす」と。
現代語版
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第二の大善というのである」

 ここも前章の「#相手の人格を尊重する供養」と類似していますので参照して下さい。
 第二悪の特徴としては、「みづからおのれを[あつ]くせんと[おも]ひ、多くあることを欲貪[よくとん]」ということ、贅沢[ぜいたく]を求めて偸盗[ちゅうとう]を犯す≠アとでありますから、まずこれを誡め、「人よくなかにおいて一心に[こころ]を制し」:五濁悪世の環境にありながら智慧によって贅沢を求める心が起きないようにする。そして「身を[ただ]しくし行ひを正しくして」:実際に贅沢によって身を汚さず、盗んだり他人の成果や利益を横取りしないように努め、「独りもろもろの善をなして衆悪[しゅあく]をなさざれば」:周囲や他人の誘惑に流されず、たとえひとりになろうとも自分自身は善を為し悪を制していけば、「身独り度脱[どだつ]して」:本願力回向のはたらきによって自ずと迷妄を脱することができ、さらに「その福徳[ふくとく]度世[どせ]上天[じょうてん]泥オン[ないおん][どう]を獲ん」とあります。ここは前章までで既に説明が済んでいますが、再びまとめてみますと――

福徳[ふくとく]」は、「福」は恵み豊かなこと、「徳」は素直な本性に基づく行いで人格が立派なことをいいます。
度世[どせ]」は、「度」は「無常と苦の此岸[しがん]から常住であり楽である彼岸[ひがん]へ渡すこと。まよいの此岸からさとりの彼岸に渡し救うこと。さとりの世界、仏の世界へ導き入れること」、「世」は「世間。世界」もしくは「世俗的なこと」をいいます。
「上天」は、色界で「夜魔天[やまてん]」以上の空中に層をなして住む空居天[くうごてん]=Aもしくは無色界に属する非想非非想処天(有頂天)≠指し、存在世界の最頂を言います(参照:{眷属荘厳3 #2})。
泥オン[ないおん]」(オンは三水偏に亘)は「涅槃[ねはん]」の異名であり、「燃え盛る煩悩の火を滅尽して、さとりの智慧である菩提を完成した境地」でありますが、大乗の涅槃ですから特に「常・楽・我・浄の四徳をもつ無為涅槃」(参照:{「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを「#常楽我浄の四顛倒」}{必至滅度の願})でありましょう。

これを二つの大善とす」というのは、本当に贅沢を制する力は自力の相対的な善(小善)では適わず、如来の催しとして行ずる善ゆえに「大善」というのです。このような「二の大善」を具体的に申せば、私心なく汗をかく≠ニいうことでしょう。自己をいつわらず「まこと」に忠実で、人々や社会の安寧に努力する人こそ世の宝でありますが、千人に一人でもこのように誠実に努力する人がいれば国は安泰≠ニ聞きます。これは実際に統計を取ったわけではないのでしょうが、至誠の人がいれば周囲の人も変わり、全体としても「二の大善」が保たれるということを示唆しているのでしょう。

 資料

第二悪は何かと言いますと、己を厚くするという。厚己(こうこ)。己を厚くするということは生活をよりよくすること。そうすると、同じ食べるのならば、ただひもじいなら何でもいい、残り物でも構わんとなるのですけれども、それが血を満たされるというと、今度はよりよく食べる、おいしく食べる。だから、パンの問題からバターの問題。着物でもそうで、寒い時には何でもいいから風邪をひかないようにということでありますけれども、木綿よりも絹がいいとこうなってきましょう。家でもとにかく雨露をしのげさえすればいいからとこういうのが、同じ住むのならばもっと立派な家となりましょう。それが第二悪。そこから出てくる悪です。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

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