一人暮しの老人が逝去され、遺族が家屋敷を売ることになった。
私は僧侶として、仏壇の遷座の法要を勤めに家にうかがったのだが、仏壇といい家や庭の造作といい実に見事。先祖代々のセンスの良さを感じさせる造りだったので、ひとしきり褒めていたら、遺族の方々はうなだれ、やがて泣き出してしまった。
というのも、家屋敷は隣の人に売ることにしたのだが、売却を決めた途端、その人はズカズカと土足で家に上がってきて、「ボロい家だな。こんな汚い家が建ってなければ、もっと高く買ってやったのに」などと、散々悪口を言って帰ってしまったのだそうである。
「普段の生活はつつましかったけど、どんなに愛情をもってこの家で暮していたか話すつもりだったのに」と、残念そうに言われる遺族の気持ちを察すると何ともやり切れない。
同じ古い家を見ても、面積や金額のことしか考えない人もいるし、家の歴史に思いを馳せる人もいる。これは住んでいる世界が違うのであろう。いわば人生観や世界観が違うのである。身は同じ場に居ても、世界観が違えば本当に出あったことにはならない。逆に、時代や場所が違っても、世界観が同じなれば、何か物を通したり文字を読むことで出遇うことができる。
私は今、どんな人と出遇い、どれだけの人と語りあうことができているのだろう。この問いは即ち、私がどういう世界に住んでいるか、という問いでもある。
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