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「今、私が、ここにおいて」

学問では解決できない問題が人生

【十界モニター】
「今、私が、ここにおいて」の具体的な内容は?


 <宗教を語る時、つまり生きる姿勢を問い、人生の謎を解こう≠ニするときは、決して「今」と「私」と「ここ」を外してはならない。もしこの三つのうち、どれか一つでも外れていればそれは全て戯論であり、宗教として語ったり論ずるには値しない>―― 最近は戯論を廃する℃w針として、上記のようなことが述べられるようになりました。これは確かに大切なことです。
 過去を懐かしがったり、悔やんだり、未来の夢を語っても、肝心の今が問題とならなければ時間の無駄です。

 他人の行動をけなしたり褒めたりしても、肝心の自分が問題とならなければ単なる噂話に過ぎません。
 また、「今」の「私」が問題となっていても、解決すべき事柄が問題となっていなければ語るだけ無駄です。
 このように、今では当たり前に語られている上記の大原則ですが、言葉としては正解でも、よくよく内容を問うと案外あやふやであったり、勘違いしている人も大勢いるものです。

 そこで以下、「今」「私」「ここ」の具体的な内容を検証し、宗教が関わらねばならない問題を明らかにしていきたいと思います。

 「今」の具体的内容

過去を追うな、未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない。現在の状況をそれぞれによく観察し、明らかに見よ。今なすべきことを努力してなせ。

『中部経典』

 変な言い方をするが、人間があまりにも人間的であるために、記憶によるさまざまな判断がまつわってくる。そして悔いたり、悲しんだり、またウヌボレたり、くじける。
 たくましい人間は過去にわずらわされない。不幸な人間ほど、大きな、あるいは些細な悔いの群れがいつまでも残り、くっついて来て、それがだんだん拡大されてくる。ついには被虐的に、それにしがみつき、現在しなければならないことを放っぽらかして、ひたすら悔やんでいる。
 しかしいま言ったように、忘れることが人間のふくらみだ。自分自身をのりこえるというのは、実は己れ自身を忘れることだ。
 また言いかえれば、自分を忘れることによって、自分自身になりきる。

(岡本太郎)

今というものは、無限の過去と無限の未来をはらんでいるものです>(参照:資料1)と島田幸昭師が仰り、
長寿百歳 尊きにあらず 今を永遠に生きることが肝要>と佐々木蓬麿師が仰る通り、
過去に執着し、未来に夢を追うばかりで、肝心の「今」が抜けている生活は虚しい遊戯に過ぎません。いつでも「今」のみが存在するのですから、過去や未来も、今、今、今と自覚される時間においてのみ意味を持つのです。
 同時に、「今」の中にこそ「過去」が生き、「未来」への展開が宿る。そうした重みを持った「今」を生きている≠ニいう実感こそ「生き甲斐」と言えるものでしょう。過去から切り離された今≠ナは、今が意味を持ちません。今が浮いてしまいます。浮いた今≠ナは生き甲斐は見つけ難いのではないでしょうか。
<無限の過去と無限の未来をはらんでいる>ということも、客観的にそうである≠ニいうこと以上に、体験・実感としてそうだと認識する≠アとこそが大切なのです。

 例えば、一流のプロ野球選手の投げる一投は、素人の一投とは違い、血を吐くような不断の努力が報いた一投です。素人の一投も過去が報いた一投ですが、やはり重みが違います。「投げたらたまたまストライクが入った」とか、「振ったらたまたまヒットになった」という一投一打では重みがありません。
 囲碁や将棋も、名人の一手と素人の一手では次元が違います。不断の努力で実力をつけ盤面を読み尽くして打つ渾身の一手と、目先だけで打つ素人の一手では、同じ一手でも重みが違うのです。過去の手を悔やんで執着し、結果ばかり負うような「今」では、今を生きることになりませんが、過去が生きず未来が展開できないような「今」であっては、そもそも意味がないのです。

 さらには、現代における課題という観点から行動を起こすことも重要です。自然とともに暮らしていた時代と現代では、全くと言ってよい程異なる課題を私たちは抱えています。百年前、千年前なら「可」であっても、現代では「不可」となっている教えは数多くあります。巨大な文明を持ったために人間自身で判断しなくてはならない問題も抱えています。死の判定や遺伝子操作、生態系の破壊や核拡散の問題などは、現代人は避けては通れません。そうした「今」に立って物を考え行動しなければならないでしょう。

 また、<有限が有限を自覚すれば無限の象徴になる。それが超越というこである>(参照:資料2)と安田理深師も仰るように、時間の超越という体験も、特定の奇跡的な時間をいうのではなく、有限の本来性が無限である≠ニ自覚されることにより時間の超越が適うのです。「生死を超える」ということも、生死の外に解決を見出すのではなく、二度と再び生まれて来ぬこの有限の人生を絶対の時間≠ニして生き切ることにあります。

 それではこの「今」とは、一体どのくらいの時間を指すのでしょう。一瞬でしょうか、数秒でしょうか、数分でしょうか、一日でしょうか。それとも一生でしょうか。
 また「今」をどのように歩めば尊い内容と成るのでしょう。
 向坊弘道師は以下のように語りかけます――

≪時≫
時が来て時が去る
吸う息吐く息今の時
私を包む悠久の時

今の時があればこそ
私に満ちた永遠の時
時と共に時を歩まん

時にまかせて時にひたる
決してあせらず時のままに
時を追わず時を悔やまず

時そのものになりきって
時が一人で歩む時
すべての時は堂々と歩む

 このように、「今」の基本的な時間は「吸う息、吐く息」と言えます。これは自分の命の時間を「吸う息、吐く息」と覚悟することでもあります。そうすれば、過去も未来も思い煩うものではなくなり、「今」を生きる姿勢となって報いてくるのです。
 息を命とする思想は古来日本の生命観にも類似がみられるそうで、<「いのち」とは「息の道」あるいは「息の内」という言葉から来ている>との説を聞く機会を得ましたが(参照:{いのちと生命・共通性と多様性})、これは行動面でいえば「一歩、一歩」が「今」に相当します。時間が意味を持つのは「行動」や「生命活動」の業を伴う場合のみなのです。島田幸昭師の仰るように<石や木には過去も未来もない>のです。

 この「吸う息、吐く息」とした基本的な「今」は、客観的な時間としては大いに伸縮が見られます。集中していれば、「今」が数分から数十分に伸びることもあります。「一念」とか「一発意」「一食いちじき」がそれで、「一念」や「一発意」は精神的な時間、「一食」は生活的な時間がからみます。人類全体とか歴史観などの大きな問題を念じていれば、「今」はかなりの時間の集中を要しますので「吸う息、吐く息」に留まってはいません。(参照:{供養諸仏の願}

 さらに言えば、充実している時の「今」は、その当座は時間の観念が無くなるものです。そして同時に、後から思い返せば、実に色取り取りの内容が凝縮されていたことも解ります。

 仏教で論じる時間の最小単位は「刹那せつな」といい、一説には75分の1秒という時間を当てますが、一瞬で価値や勝負が決るような体験をした者は、この刹那の時間を自覚することができます。そしてこの刹那の時間を重要視し一瞬にこそ永遠の時間が宿る≠ニ説く思想は、例えばギリシャ彫刻で円盤や槍を投げる瞬間の姿に永遠を見る≠ニいう美意識にも代表されるように、人類の歴史の中でも多々語られている内容なのです。動画より一枚の写真の方が全体を雄弁に語っている、ということは皆経験的に知っていることでしょう。
 ただし、「一瞬の今」と言えども0秒ではないことは知らねばなりません。<意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ>ことは自明の理で、この体験的事実を忘れ、いたずらに机上の空論に執われ、生活を離れた境地に安住する愚は避けるべきでしょう。

 以上のように、無限の過去と無限の未来をはらんでいる「今」に立った上で、いよいよ今をどういう時間にするか≠問います。

 あの義理この義理を果たすために忙しく走り回っているだけでは有意義な時間とは言えません。これでは自分の人生とはならないのです。重要なのは自分の時間を作る≠アと。これが尊いのです。
 そのため初期の宗教者は出家して社会的責務から解放され、全ての時間を自分の為に当てたのです。しかし出家者ばかりでは社会が成立せず、熱心な在家者は家業をおろそかにしてしまいがちになります。ところが浄土教が成立すると、仕事の時間も含め、あらゆる時間を自分の時間に転じる智慧が生まれました。念仏の徳によって特別な修行の時間を設ける必要はなくなり、生活の一つひとつが宗教的時間となったのです。
 さらに、この獲得した自分の時間を生かすこと。それは自分の世界を開発し充実させることに他なりません。この自ら開発した精神世界と環境を通してこそ相手の世界の内容が解るのであり、一切衆生と障りなく関係を結ぶことが可能となるのです。

 二種の「私」

「きみたちよ、婦人を探し求めるのと自己を探し求めるのと、そのどちらが勝れていると思うか」
「わたしたちは、自己を探し求めることのほうが勝れていると思います」
「きみたちよ、そのように思うならば、ここに坐りなさい。わたしは、きみたちのために真理の教えを説こう」

『律蔵』

 「今」「私」「ここ」のうち「私」について具体的に検証したいと思います。

 釈尊は<(財産を盗んだ)婦人を探し求める>ことと<自己を探し求める>ことの重要度を問い、人々は<自己を探し求めることのほうが勝れている>と答えて教えに浴します。当時のインド人の宗教意識が高かったお陰でこういう問答になりましたが、現代人に同様の問いを発したらどんな答えが返ってくるでしょう。大方「財産を探す方が重要」と答えるのではないでしょうか。「金が全て」とか「人の心も金で買える」とうそぶく風潮はますます盛んになってきているようです。

 しかし、いくら財産が盗まれても代わりは利きます。対して自己は代わりは利きません。文字通り掛け替えのない私唯一無二の私≠ナす。そして、私は私の国の王であり、自分の国を護り育て、輝く国にしていかねばなりませんあるじを失ったままでは国は廃れ、外部のものに征服されてしまいます。
「財産を探す方が重要」ということは、「財産が私の国の主権を握っている」ことに他なりません。財産という傀儡政権が私の国を征服しているのです。「私」が私の国の主役にならねば、他にどんな好条件が整っていても、私にとっては得るものはありません。独立国でなければ王は飾りに過ぎないのです。
<自己を探し求める>とは、外部の手に握られていた私の国の主権を、私の手に取り戻すことをいいます。ただし、この「私」というものの自覚には二種あることを知らねばなりません。それは「霊性的自覚」と「場所的自覚」です。

 実はこのことは以前、{Q.45 仏教は「自分らしく生きる」ことを説く宗教ですか? }にその違いを述べ、「自分らしく生きる」と言った時の「自分」に二種あることを詳説しました。
 機会があればそちらを参考にしていただきたいと思いますが、要約すると――

「霊性的自覚」とは「何者でもない私」を問題とします。
「何者でもない私」とは、たとえば「私は父親である」とか「私は会社の社長である」という肩書きを離れた私、を問題とする時に現われる私です。これは主に社会的立場に縛られて本当の自分を見失っている≠ニ思われる状態の時に浮かび上がってくる問題です。初期の仏教教団では出家修行、つまり家や社会的立場を捨て煩悩に勝つ≠ニいう修行が中心でしたので、この霊性的自覚は大変重要でした。
 ちなみに、問題が起こっていない人には「霊性的自覚」を強要する必要はありません。無理に自分探しをする必要はなく、問題として浮かび上がってきて初めて自覚になるのです。

「場所的自覚」とは「何かである私」を問題とします。
「何かである私」とは、たとえば「私は父親である」とか「私は会社の社長である」等という社会的立場が問題とされた時に浮かび上がる「未熟な私」です。厳密に言えば「私」とは「公」に対する「私」ですから、社会的立場が問題となった時は、「私」ではなく「自分」と言うべきでしょう。大乗仏教では社会性が問われますので、この「場所的自覚」は大変重要です。
 ちなみに「場所的自覚」は「霊性的自覚」と違い、問題意識が起こっていない人に対しても自覚を促す必要があります。なぜなら、「場所的自覚」はその人間の足元の問題であり、同時に社会的な意義も持っているからです。

 人は社会を離れて生きているわけではありません。そして社会に生きている以上、必ず「立場・座」を得ます。この座のはたらきによって自分の至らなさに気付き、同時に座の徳によってお育てにあずかるのです。これを「回向」といいます。
 たとえば、親でありながら親として至らない自分、要職にありながらその職の名に頭が上がらない自分。この懺悔こそお育ての座から発せられる光明(はたらき)なのなのです。以前{言葉の重さと立場の徳}で、日銀総裁の「ど素人」発言を取り上げましたが、座を汚して恥じぬ者は、蓮莟れんがんといって「つぼみ」に閉じ込められているので、座の正体を知らぬまま、我執に縛られた人生になりがちです。

 仏教ではさとりの「座」を獅子や白象や蓮華などで表しますが、阿弥陀仏も一切衆生の成道が問題となった「王の座・仏の座」においてこそ四十八願を発こされたのです。如来は如来の立場に立たれたからこそ、自分の成道は一切衆生の成道と同時でなければ成立しない≠アとを覚られたのしょう。親は、子を立派に育てることが親としての完成であり、王は、国民が立派になり国の内容が輝くことが王としての完成なのです。

 「ここ」は場所を指すのではない

 近代日本仏教界では、戯論を廃する上では「今」と「私」を外さないことが必須≠ニされていたのですが、島田幸昭師によって初めて「ここ」という点が加わりました。しかし「ここ」の内容がいつの間にか「場所である」と誤解されてしまった懸念がありますので、ここに訂正を加えたいと思います。

 島田幸昭師の仰った「ここ」は、あくまで「現場」とか「てき面する内容」という意味です。空間を特定するものではありません。しかし「今」が「時間」ならば、「ここ」は「空間」だろう≠ニ、専門家でも誤解されてみえる方が大勢いますので注意しなければなりません。

「ここ」は空間をいうのではない、ということの証拠は、たとえば、私が友人と話している場合、ここが1号室か2号室か公園か歩道か等の空間などは重要な問題でないことでも解るでしょう。友人と話をしている「内容」や「課題」が問われるのです。これを問わずして何を問うのでしょう。仕事でも「ここはひとつ、よろしくお願いします」と言うでしょう。この場合の「ここ」は、場所ではなく「この件」とか「この状況」という意味です。

 さらにここ≠ノは「立場」や「境地・境涯」という意味も含めなければなりません。
 たとえば家庭の問題でも、親権を持つ親の立場と庇護される子どもの立場では「ここ」が違います。事故が起こった場合でも、被害者の立場と加害者の立場では「ここ」が違います。国の問題でも、国王としての立場と国民の立場では「ここ」が違います。
 また普段嘘ばかりつく人間が「嘘をつくのは悪いことです」と言っても重みがありませんが、正直者が同様のことを言えば重みがあります。それは、言葉を発している人間の「ここ」が違うからです。仏教で言えば、迷いの衆生の「ここ」と、迷いが去った「ここ」と、道心起こり覚りの世界が解りかけた「ここ」の違いが、浄土の在り処を示す言葉の違いとなって顕れるのです。
(参照:{地獄・極楽の食事風景「#4-3」}

 島田幸昭師は、「夫と妻が喧嘩をしているここ≠ェここ≠ナあり、日本とアメリカが基地問題を巡って争っているここ≠ェここ≠ナある」と仰いました。そして「最近は他の人が真似をしてここ≠ニ言っているが、いつのまにか内容が違ってしまっている」と、誤解を批判されてもみえました。こうした言葉は同じでも理解内容が異なる≠ニいうことは、仏教のみならず様々な文化の損失にも見受けられますので、よくよく経緯を尋ね、注意して使用しなければならないでしょう。  

 聖典等資料

※資料1

  私たちは三世ということを聞きなれていまして、過去と現在と未来と、三つの世界があるということが、常識になっていますが、仏教ではそういう考えは、正しい世界観ではないというのです。たとえば「時に別体なし。法に依って立つ」といって、時というものが別にあるのではない。有るのは現にそこに在る「もの」だけである。ものの過ぎてきた足跡を過去といい、これから行こうとする前途を未来というのであるというのです。 外の言葉でいえば、石や木には過去も未来もない。今そこに在る「もの」だけである。時間は人間がいうのです。時間論は、これで一つの学問が成立するほどですから、詳しいことは今いえませんが、輪郭だけ申しますと、仏教では三通りの三世を説いています。
第一は「業感縁起の三世」。これは過去、現在、未来の順序で、した行為が未来の運命を決定するということ。
第二は「法性生起の三世」。これはその反対の未来、現在、過去の順序で、ものが生まれて滅びてゆく立場から見た三世です。まだ形をとっていない未来から、形をとって現在に現われ、やがて過去へ消えてゆく。
第三は「自覚の三世」といわれるもので、現在、過去、未来の順序です。これは自覚によって開けて来る三世。ここに自分がおったと自覚すれば、自分をかくあらしめた、現在の自己を形成して来た過去がそこに見出され、それと同時に、自分はこれからどうなるのであろうか、何をしなければならぬかと、未来がそこに開けて来るというのです。
さっきも申しましたように、三世といいましても、三つの世界が別々に存在するというのではなく、今現にそこにあるものの性格、見方をいっているのです。
今というものは、無限の過去と無限の未来をはらんでいるものです。現在というものの構造を分析して、過去から形成された面と、これから将来へと展開してゆく、二面性を有つものであるということをいっているのです。過去的なものとは、現に今そうなっているという事実をいったものです。

島田幸昭 著『仏教開眼四十八願』第五 得宿命智の願 より

※資料2

 キリスト教では<永遠の現在>という。永遠が時間を食い破ってでる。この啓示的であるということがキリスト教の特色である。
 歴史のはじめは<永遠の今>という時間がないと成り立たないということは、人間の世界そのものが宗教的根拠をもつということである。人間は時間的存在である。その時間においてある人間世界に人間を超えた永遠が永遠自身として自己自身を啓示する。永遠が永遠のままで、時間のなかへ時間の法則を破って出てくる。これは時間にとっては奇蹟である。
<中略>
・・・仏教はキリスト教と違って啓示的でなく自覚的であることが特徴である。時間が時間自身の本質を自覚する。それが永遠である。つまり仏教の永遠は時間を奇蹟的に破ってでてくるのではなく、時間自体であって時間の外にあるのではない。意識が三世として自己を失っていた、それが客体であったと自覚する。つまり時間が時間自身を知る。客体的時間を客体であったと知るところに主体的時間を回復するのである。永遠とは識が識の本来性、超越性を自覚する。そういう意味で自覚的なのである。
<中略>
 愛情は感情である。感情は私自身のなかに閉じこもる。つまりエゴである。しかし愛は喜んで自己を捨て、裸になる。愛とは、相手そのものとなることである。キリスト教では愛を奇蹟的にいう。仏教の慈悲は自覚的である。自覚だけが超越であるという。識が識自身を自覚すると識が消えるのではなく、識が真に永遠にかなった識になる、本来性を開示した識になるのである。

 仏教のなかにも個が永遠のなかに消えてしまうような仏教もある。個が涅槃のなかに解消してしまうという考え方もある。しかし、これは正見ではない。相対有限なるものが無限のなかへ解消してしまうのは、有限の真の救いではない。真の救いは有限が無限の象徴になることである。
 無限と有限とがあるのではない。あるのは有限のみである。無限といっても有限の他にあるのではない。だから無限は有限の本来性である。有限が有限を自覚すれば無限の象徴になる。それが超越というこである。この有限ということを真に最後まで保持するのが親鸞教学である。そこに真の個がある。有限が涅槃や絶対無限のなかに解消してしまったり、無限が有限を破って出てくるという考え方は危険である。

『安田理深講義集6 親鸞における時の問題』第二講 意識と時間 より


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