還浄された御門徒様の学び跡 |
現代語訳
・ 本願成就の名号は衆生が間違いなく往生するための行であり至心信楽の願(第十八願)に誓われている信を往生の正因とする。
・ 正定聚の位につき、浄土に往生してさとりをひらくことができるのは、必至滅度の願(第十一願)が成就されたことによる。
*善導大師の「散善義」深心釈には
《一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故》
(一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるが故に。)
と述べられてれています。ご開山聖人は「本願名号正定業」の出典をここに拠られています。「かの仏願に順ずるが故に これを正定業と名づく」… とても感動的な言葉です。善導大師は仏につかえる行業を正行と雑行とに分け、さらに正行を正定業と助業に分けて説かれました。阿弥陀仏を対象として行ずるものは正行でありそれ以外は雑行である、さらにはその正行に「読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養」の五種の行があるが、本願に誓われている称名正行こそまさしく浄土往生の決定する業因であり、それゆえに称名は正定業でありこれを正行とされ、他の四種を助業とされたのである。
親鸞聖人は「一念多念文意」に善導大師の「正定之業」を釈されて
《是名正定之業 順彼仏願故》といふは、弘誓を信ずるを報土の業因とさだまるを、正定の業と名づくという。仏の願にしたがふがゆえにともふすなり。とあります。称名とともに《仏の願にしたがう》こころを正定業と示されています。
現代語訳「《是名正定之業 順彼仏願故》、阿弥陀仏の広大な本願を信ずることを、それが真実の浄土に往生する因と定まっていることをもって、正定の業と名づけるというのであり、なぜならそれは仏の願にしたがうものであるから、という文である」
正信偈に「本願名号正定業 至心信楽願為因」と示されましたが、この二句は称名も、至心に信楽する心もみな浄土に往生する正定之業であり、第十七願の諸仏称讃の願意であり、第十八願の至心信楽の願意すなはち信心正因の義をお示しになったものであります。また「本願名号正定業」は教行信証行巻の、そして「至心信楽願為因」は信巻の肝要を示すものとされています。
親鸞聖人は正信偈のご文の中で、「成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」と示されています。
早島鏡正先生はその著書の中で、この二句を
「成等覚証大涅槃」について、「《等覚》というのは仏さまの悟りの一歩手前の位です。親鸞の解釈では、私どもが真実信心を得たそのときに、来世に浄土に生まれて仏となることが決定した位つまり等覚の位、それを現生不退、この世で仏となるにに決まった位から退かないという現生正定聚の位につくというのです。信心を得た人はこの世において仏の候補者となる。それを現生正定聚、または現生不退ともいいます。仏さまの一歩手前の位、等覚の位につく。そして命終われば大涅槃を極楽浄土においてひらくことになる。大涅槃とは仏の悟りのことです。
したがって命を終わって浄土に生まれたそのときに、阿弥陀仏と同じ仏の悟りをひらくということが、《等覚の位につき大涅槃を証する》ことになるのです。これらのことが第十一願の《必至滅度の願》の中で誓われているというのが《必至滅度の願成就なり》なのです。」 と説明されています。
「源空は、仏意すなはち仏の本願を偏依善導より、阿弥陀仏が衆生を救うために発したもうた弘誓の本願は四十八にわたるものの、その四十八願中、念仏往生の第十八願をもって本願中の王とされます。」(細川行信先生解説 「第十一・十二・十三の三願文について」より)とあるように、法然聖人は「四十八願は第十八願の一願に該攝される」という所謂「一願該攝」とされていますが、親鸞聖人は教行信証の中で、第十八願を開かれ「六法五願」と示されています。
六法五願とは次のように示されます。
教…・・大無量寿経 * 六法=教・行・信・証・眞仏・眞土
行…・・第十七願
信…・・第十八願 * 五願=第十一願・第十二願・第十三願・第十七願・第十八願
証…・・第十一願
真仏…・第十二願
真土…・第十三願
この無量寿経の中に説かれている阿弥陀仏のおこころを
「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」に示されていることである。
第十一願の左訓に「この願は、報土に生まれて必ず無上大涅槃に至るべきなり」
とあります。
また教行信証 証巻には
謹んで真実証を顕さば、すなはち、これ、利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。
(謹んで真実の証を顕せば、それは他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、この上ないさとりという果である。この証は必至滅度の願より出てきたものである。この願を証大涅槃の願ともなづけることができる。)
「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり.ゆえに、もしは因、もしは果、一事として弥陀如来の清浄願心の回向したまえるところにあらざることあるはなし。因、浄なるがゆえに果、また浄なり。知るべしとなり。」
(さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから果もまた清らかである.よく知るがよい.)《註釈版三一二頁》
と示されています。
一念多念文意に
「かくのごとく、法蔵菩薩ちかいたまへるを、釈迦如来、五濁のわれらがために説きたまへる文のこころは、それ衆生あて、かの国に生まれむとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり、とのたまへり。この二尊の御のりをみたてまつるに、すなはち往生すとのたまへるは、正定聚にくらいにさだまるを、不退転に住すとはのたまえるなり.この位にさだまりぬれば、必ず無上大涅槃に至るべき身となるがゆゑに等正覚をなるとも説き、阿毘抜致にいたるとも、阿惟越致にいたるとも説きたまふ。即時入必定とも申すなり。」(註釈版六八〇頁)とあります。この現代語訳
「そして、このように法蔵菩薩がお誓いになったことを、釈尊はさまざまな濁りに満ちた世に生きる私どものためにお説きくださったのであるが、その文に仰せになっている意味は、阿弥陀仏の浄土に生まれようとするものは、みなことごとく正定聚の位に定まる。なぜなら、阿弥陀仏の浄土には邪定聚や不定聚のものはいないからである。阿弥陀仏と釈尊がお示しになったこれらのおことばをうかがうと、さきに《すなはち往生を得る》と仰せになっているのは、正定聚のくらいに定まるということであり、それをまた《不退転に住する》とおおせになっているのである。この正定聚の位に定まったなら必ずこの上ない仏のさとりを得ることができるのであるから、そのことを「如来会」では、《等正覚のくらいに定まる》ともお説きになり、また龍樹菩薩は《阿毘跋致に至る》とも、《阿惟越致に至る》とも説かれている。そのことを《即時入必定》ともいうのである。」
前掲の文のなかの傍線部分の親鸞聖人の左訓は次のようになっています。
* 邪聚…自力雑行雑修のひとなり
* 不定聚…・自力の念仏者なり
* 正定聚…・往生すべき身と定まるなり
* 不退転…・ほとけになるまでといふ
* 無上大涅槃…まことのほとけなり
* 阿毘抜致…仏になるべき身となるとなり
(左訓…註釈版六七九〜六八〇頁より)
前掲の早島先生の
「信心を得た人はこの世において仏の候補者となる。それを現生正定聚、または現生不退ともいいます。仏さまの一歩手前の位、等覚の位につく。そして命終われば大涅槃を極楽浄土においてひらくことになる」の言葉はまことにこの親鸞聖人のもろもろの御文の要諦を示されているものでありましょう。
浄土和讃(二四)
「阿弥陀仏を対象として行ずるものは正行でありそれ以外は雑行である」という釈勝榮さんの解釈について――「阿弥陀仏を対象として」と書かれてありますと、ともすると阿弥陀仏が私の外部・他者として解釈されがちですが、阿弥陀仏はあくまで「私に成り切られた仏」であり、「私とともに歩む 歴史を背負った仏」です。私は如来と対面して正定聚の位をいただくのではなく、如来とともに肩を並べて歩ませていただくことそのものが正定聚の菩薩としての歩みなのです。
そういう意味では、「阿弥陀仏とともに行ずるものは正行でありそれ以外は雑行である」という表現が適切かも知れません。
その他、{正定聚・不退転の菩薩について}、{「正行」と「雑行」について}、{「雑行を捨てよ」とは?}、{浄土真宗には善の勧めはない?}、等御参照ください。
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