還浄された御門徒様の学び跡 |
現代語訳
・ 如来が世にでられるのは、ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。
・ 五濁の世の人々は釈尊のまことの教えを信じるがよい。
無量寿経には、阿難尊者が《姿色清浄 光顔巍巍[こうげんぎぎ]》たる釈尊のお姿にうやうやしく礼して「どうしてこのように神々しく輝いておられるのでしょうか」とたづねられたのに対してお釈迦さまは、
「如来以無蓋大悲 矜哀三界 所以出興於世 光闡道教 欲拯群萌恵以真実之利…・・」と答えられ無量寿経を説き出だされたのである。
(如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである)そして「このような仏に出遇うことは はかり知れない時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうどうどんげ優曇華の華の咲くことが極めてまれであるようなものである。…・・」
この経言をうけられて親鸞聖人は「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と顕された。大経に説かれるお念仏のおいわれを「弥陀本願海」五文字に凝縮され、
「唯ただ阿弥陀如来のご本願を説き明かさんがためなのである。」と言いきられている。
だからこそ「この五濁の世の生きとし生ける者よ、衆生よ、如来の真実のことばを信ずべきであるぞよ」と強く強く呼びかけていてくださったのである.
「尊号真像銘文 末」に正信偈の「本願名号正定業 至心信楽願為因……獲信見敬大慶喜 即横超載五悪趣」の文をみづから釈されている。そのなかで「如来所以興出世」というのは「諸仏の世に出でたまうゆゑはと申すみのりなり。」
「唯説弥陀本願海」とは「諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり。」そして大経の「如来以無蓋大悲 矜哀三界 所以出興於世」の如来を釈されて「如来といふは諸仏なり。」とあります。
また教行信証教文類においては「釈迦世に出興して道教を光闡して群萌をすくい…・・」とされています。
このことについて早島鏡正先生は、「したがって《諸仏》とおっしゃった時は、釈尊も入っており、阿弥陀如来も入っているのです。また、釈尊一仏を挙げた場合でも、釈尊が我々衆生のみならず、三世十方の諸仏を代表して出現しておられるのでしょう。そういう把握を親鸞聖人はされたと思うのです。」と語っておられます。
如来の真実のことばをそのままにいただくこと、それが浄土に生まれ仏にならせていただく道なのだと聖人はおっしゃっているのである。
蓮如上人は「五濁悪世界の衆生、一向に弥陀の本願を信じたてまつれといえるこころなり」と正信偈大意に説かれている。聖人ご真筆の正信偈では「如来」のところは最初「釈迦」とあったのを「如来」と推敲訂正されているとのことです。
浄土和讃大経讃(五四)
諸仏と阿弥陀仏の関係は、たとえば「…無礙光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり」(『唯信鈔文意』2)とあり、またその嘉号は「すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり」(『御文章』二帖9)、さらには「弥陀一仏の功徳のうちに、みな一切の諸神はこもれりとおもふべきものなり」(『御文章』二帖2)とあります。
このように阿弥陀仏は、一切諸仏・諸神の万善万徳の集合であり、全ての生命の柱であるということがいえるでしょう。いわば生命の真摯な活動の総体であり歴史の主体を阿弥陀仏といい、その道程を法蔵菩薩と現し、この功徳を受けてあらゆる時機に熟す具体的な活動体を諸仏というのでしょう。
その他、{釈尊と阿弥陀仏の関係2}、 {結局「阿弥陀如来」って誰なんですか?「浄土」はどこにあるのですか? } 等参照してください。
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