平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

「雑行を捨てよ」とは?

気付かずに迷信や雑行に陥る人々を如来の回向が救う

質問:

 さっそくお答え頂きありがとうございました。
 駆け出しで、理解不足かと思いますが、重ねてお尋ねする失礼をお許しください。

 私は信心頂きたいと聴聞させて頂くようになったのですが、よく仏教を勉強なさっている方から、友達に法をお話ししたり、お説教に誘ったり、お布施をしたりすることは、雑行といって阿弥陀様から離れていく行いだからやらないほうがいいと言われ、びっくりしてしまいました。
 本当にそんなことがあるのでしょうか。

 蓮如様が私に「雑行を捨てよ」と仰せになっているのは、具体的に、どうすることなのでしょうか。

 よろしくお願いいたします。

返答1

 詳しい状況がわかりませんので、確かなことは言えませんが、一般的には「友達に法をお話ししたり、お説教に誘ったり、お布施をしたりすること」自体は雑行ではありません。むしろ積極的に行なっていただきたいと思うほどです。

◆ 努力を為さしむはたらきを仰ぐ

 [真宗教団連合] の出しているカレンダーにも法語として――

他力の生活は
最後まで
努力せずにはおれない
生活なのです

[宮城 ]

とあります。このように、様々な努力を最後まで続け得る力は、まさに他力の発露といえましょう。

 さらに、この言葉の味わいとして――

 ところで、努力といいますと、どうしても自分の力が必要になってきます。これを自力と思う人もときどきおられるようですが、これは他力念仏に対する自力ということではありません。他力念仏に対する自力とは、さとりを目指して自分の力をあてにすることです。つまり自力修行で功徳を積み上げ、その功徳で仏になろうとすることを自力というのです。
 それに対して、本願他力による生活とは、必ず仏にさせていただける身の幸せをよろこび、如来への報謝のために自分の力を精一杯出していくことです。そして、念仏申そうと思い立つ心が起こるのは他力によるものにほかなりませんが、声に出す念仏には、自分の力がどうしても必要となってくるのです。
 この念仏と同じく、親鸞聖人のお書物の執筆も、蓮如上人の御坊の造営も、すべてご自身の力をご使用されてのものです。この力を自力とよんで捨てていくことはありません。もしも、その力を捨てて何かが自然に起きてくるのを待っていることを他力というのなら、それは大きな誤解です。このように、本願他力を誤解して「他力本願はだめだ」という方もおります。非常に残念なことです。

『生きるよろこび』月々のことば(2002年)本願寺出版社/解説:北塔光昇 より

というように、「如来への報謝のために自分の力を精一杯出していくこと」を否定する愚は避けてほしいと思います。

 ただ、先に「一般的には」と申しましたが、気になる点が二つほどありますので指摘したいと思います。

 まず、法を聞くことは重要なのですが、「友達に法をお話し」することは、得てして教学理論を説明することに偏りがちになります。浄土真宗は確かに理論的な素晴らしさもあるのですが、まずはご自身の生活の中でじっくり噛み締められ、味わわれたことのみをお話下さい。ついつい理解できていないことまで想像で話してしまいがちになるのですが、これはなるべく避けて下さい。また、他宗旨の批判を受け売りでする人もみえますが、しない方がよろしいでしょう。

 私の経験や周りの人たちを観察していますと、まず3年間は理論は語らない方がよろしいでしょう。理論を語らずに表現できる味わいこそが、ご自身の本当の領解なのです。
 ご自身の人生に光をもたらしたことのみを語る。それも理論を語るのではなく、理論は下地にして、現実の問題が法に照らされ、法が現実によりそって身近になったこと(表現しにくいのですが、この言葉に肯いていただける時が来ると思います)、そうしたことを話されることは、尊い事だと思います。

 もう一点。これは実に歯がゆいことなのですが、浄土真宗を名のっていても、似て非なる教えを説く教団もあります。おそらくそうしたご縁ではないと思うのですが、特に自らの団体名を隠して活動している会でしたらご注意下さい。

◆ 見えないが横行する迷信

 蓮如上人が仰る「雑行を捨てよ」とは、もちろん親鸞聖人の導きによるのですが、まず「卜占祭祀」等の迷信を捨てることが基本にあります。

かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす

『正像末和讃』悲歎述懐 101

 こうした「当るも八卦当らぬも八卦」というような気休めは、本当のいのちの依りどころとはなりません。各種の占いに頼ったり、日柄を選んだり、道理の通らない現世利益や超能力を当てにすることは、結果として人生の主体性と意味を失い、生き甲斐を見出せない生き方になってしまいます。こうした迷信は「論外」と言えましょう。

 しかし、この論外のモノも、現代は姿形を変えて私たちを誘惑します。
 例えば、様々な洗脳技術の発達により、特定の人物や主義・思想を絶対化したり、権威による支配、恐怖心の利用で集団心理の罠にかかってしまうこともよくあります。仏教者でさえ戦争に積極的に協力したり、差別を助長・定着させたりすることもありますが、広い意味で言えばこれも迷信に引きずられたことに他なりません。

 また「統計の嘘」も見逃せません。統計の数字は設問設定でいくらでも操作できます。まして体験の中で「そういう傾向がある」という統計ほど当てにならないものはないのですが、他人から同意見を言われると、ついつい既成事実として信じてしまいます。これが迷信や占いの原点なのです。
 さらに、一部の人間がした事を、その集団全体がしたようにに思ったり、思わせたり。科学上の情報も、見方を誤ったり、思い込みで判断すると、途端に迷信に堕してしまいます。

 真実は実に見抜き難いものなのです。もっと言うと「私はだまされたがっている」ということなのです。なぜなら、その方が気が楽だからです。「私たちは迷信に引っかかりやすいのだ」、「迷信に引っかかろうと努力までしている」ということを、よくよく自覚しておくべきでしょう。

――と、言いますのも、以後述べる「雑行」は、こうした自覚の上に見抜かれた「雑行」なのです。

◆ 「雑行を捨てる」とは「疑いの蓋[ふた]が取れる」こと

「仏教は全て正しい。だからどんな行も正しい修行だ」と思ってみえる方は案外大勢みえます。しかし経典には真実の経もあれば偽の経もあります。また、仮の経典といえるものもあります。仮の経典というのは、私が覚りを得るための仮の段階の経典で、理論として正しくても、修行に結果が伴わない経典です。
 これは当然、修行者の資質が問われ、環境や時代も問われるところですが、如来の一如としての視点から、済度(救い)に漏れる人を無視することはできません。

 このことは、一切の罪過や障壁をその身に見抜かれた親鸞聖人の述懐で明らかにされていきます。

蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん

『正像末和讃』悲歎述懐 99

 親鸞聖人の境地は、「無慚無愧にてはてぞせん」と、無自覚・無反省・無慚・無愧を「如来の回向」で見抜かれたところに開かれます。つまり、如来の回向を仰がず「雑行」をしている間は、それが「雑行」であるとは気付かないのです。ですから、真実信心を言葉で語ったり納得させようと思っても難しいことになりますが、言葉で味わいを語るしか方法はありません。

 それは勢い「慚愧」の言葉となって表出されます。聖人の述懐に厳しい表現が多いのは、常に、自ら行なう修善が偽善と迷信に汚されていることを自覚されているからです。しかしこの「慚愧」は、如来の光明に照らされたところに安んじて述べられる言葉ですから、いわば喜びにあふれた慚愧なのです。

 仏の国は善も悪もおさめられ、正も邪もとけたる国である。善にも悪にも正にも邪にも仏の光のあらわるる国である。これが自然の報土である。魂の故郷である。そこには、とらるべき善も、罰せらるる悪もない。すべてが一如の光に光る世界である。

[正親含英]

「雑行を捨てる」というのは、善悪正邪を超えた如来のはたらきを様々に仰ぎ、自然に疑いの蓋[ふた]が取れてくることを言います。これは主に念仏を申させていただくことがきっかけとなっているのですが、取引によって為されるのではありません。太陽が照らせば自ずと電灯は必要なくなるように、自力の力みも自然に消えていくのです。

 仏さまが私どもを見ておいでになるのと同じ心、同じ眼で、自身を見る。これが機の深信であります。だから「わが身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と、言葉もきわめて冷静であります。

[曽我量深]

 如来の眼をいただくということは「如来の心をいただく」ということです。これは前回紹介しました「念仏を中心とした五念門・五正行を行じる」ことで自ずとかなうのですが、そこから見出された私の姿は、様々な善行も自利に偏り中途半端で、しかも取引や契約としての念に邪魔され、如来の心に背いてばかりの有様です。
 ところが、その見出した眼の尊さが身に受かり、身に満ちてゆくことには、大いなる喜びを感じずにはいられません。この喜びは自身の罪悪や偽善性を超え、一切衆生とつながっていくいのちなのです。

 如来とは信心の永遠の相、信心とは現実なる如来の心。それ故に、如来は常に信心のうちに在し、信心は唯だひとえに如来を思うのである。
 若し人、信あらば凡夫のまま如来である。煩悩は菩提となる。一切の聖行も、これに依りて成就するであろう。明白なる道理である。
 されど我等には信心がない。その信心と思念しているものは、すべて虚仮不実のものである。日常の生活は貪瞋邪偽の外にはない。否定のできぬ事実である。
 この道理と事実との矛盾を解くものはただ念仏である。而して其の念仏に於て、その解決も、我等の計いではなく、偏[ひとえ]に如来の御計いであることを信楽せしめられるのである。

 凡聖智愚を簡[えら]ばず、如来の真実心に作したまえるを須[もち]いよと教えられた。その須いられる真実は念仏であり、その須ゆる真実は信楽である。
 我等は終生、ただ凡夫である。如来は凡夫を攝[おさ]めてその大行を作り、その大信を現わし給う。それ故に行信というのも如来の回向の外にはない。
 洵[まこと]に不可思議の因縁である。

 如来永劫の修行は信心に成就せられる。これに依りて信心は仏道修行の一切の徳を身証するのである。

金子大榮 著『口語譯 教行信証』信の巻・領解 より

 如来よりたまわる真実信心を要[かなめ]とすれば、念仏や五念門・五正行はもちろん、様々な努力、一切の経典を読むことも雑行ではありません。極論すれば、信心に照らされて行動すれば、一切は「雑行を捨てる」ということにつながります。しかし、そのことを誇り、自らの貪瞋邪偽を慚愧することを忘れては、念仏さえも雑行に堕してしまいます。常に如来を仰ぎ、その徳を讃嘆させていただきましょう。

 そのためには、よくよく聴聞にはげみ、『大無量寿経』はじめ浄土経典や関連する論釈を学び、念仏を称えつつ阿弥陀如来の成仏のいわれを聞き開いて下さい。この私どものHPも、その一助になれれば幸甚です。

 また、人々に誤解される行動は避ける必要がありますので、阿弥陀如来以外の仏・菩薩や神は拝まず、迷信を排除する姿勢は貫くべきでしょう。ただし、これは他宗教・他宗旨を誹謗することでは決してありません。断絶は如来の心を踏みにじるものです。信心は、価値観を超えて人々が心通わせ得ることを示しています。宗教の主体性を保ちつつ、他宗教にも寛容になることが念仏者の生き方といえるでしょう。


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