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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』37

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪4

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 37

 仏のたまはく、「その三つの悪とは、世間の人民、あひより寄生してともに天地のあひだに居す。処年寿命、よくいくばくなることなし。上に賢明・長者・尊貴・豪富あり。下に貧窮・廝賤・オウ劣・愚夫あり。なかに不善の人ありてつねに邪悪を懐けり。ただ婬イツを念ひて、煩ひ胸のうちに満ち、愛欲交乱して坐起安からず。貪意守惜して、ただいたづらに得んことを欲ふ。細色を眄ライして邪態ほかにほしいままにす。自妻をば厭ひ憎みて、ひそかにみだりに入出す。家財を費損して、事非法をなす。交結聚会して師を興してあひ伐つ。攻め劫ひ殺戮して強奪すること不道なり。悪心ほかにありてみづから業を修せず。盗窃して趣かに得れば、欲繋して事をなす。恐熱迫キョウして妻子に帰給す。心をほしいままにし、意を快くし、身を極めて楽しみをなす。あるいは親属において尊卑を避けず。家室・中外患へてこれに苦しむ。またまた王法の禁令を畏れず。かくのごときの悪は人・鬼に著され、日月も照見し、神明も記識す。ゆゑに自然の三塗の無量の苦悩あり。そのなかに展転して世々に劫を累ねて出づる期あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを三つの大悪・三つの痛・三つの焼とす。勤苦かくのごとし。たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥オンの道を獲ん。これを三つの大善とす」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 37

 さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「第三の悪とは次のようである。世間の人々は、みな寄り集って同じ世界の中に住んでいるが、その生きている年月はそれほど長くはない。しかしその短い生涯の中にも、上は賢いものや力のあるもの、また身分の高いものや裕福なものなど、下は貧しいものや身分の低いもの、また力のないものや愚かなものなどに分かれる。そしてそのどちらの中にも、善くないものがいるのである。
 そのものはいつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々[もんもん]と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。そしてあくまで執念深く、みだらな思いをとげようとばかりする。きれいな人を見ては流し目を使ってみだらな振舞いをし、自分の妻をうとましく思ってひそかに他の女性のところに出入りする。そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。
 あるものは徒党を組んで互いに争い、相手をおどかし攻め殺してまで、欲しいものを強奪するという非道な行いに及ぶ。あるものは他人の財産に目をつけ、自分の仕事をおこたり、それを盗んで少しでも得られると、欲にかられて一層大きな悪事をはたらくようになり、ついには、びくびくしながらも他人をおどして財産を奪い取り、それによって妻子を養い、手当たり次第にみだらな楽しみをむさぼる。ときには親族に対してさえも、年の上下に関係なく礼儀を乱して、家族や親類などがそのために憂え苦しむのである。
 このような人々も法令で禁じていることを恐れないものであるが、こういう悪は人にも鬼神にも知られ、太陽や月の光も照らし出し、天地の神も記録している。このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第三の大悪、第三の痛、第三の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないようにと努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第三の大善というのである」


 仏教の戒律の中で第三に挙げられているのが「不邪婬戒[ふじゃいんかい]」です。出家者の戒律においては、「婬法の相手は、女性、男性、両性具有者、性的不能力者、畜生、そして想像上のそれらの者を含んでいる。また女性の三道(大便道、小便道、口)において婬法が適用される」と注釈がありますが、浄土教の戒律は一切衆生に課せるものですから、夫婦など自他に祝された関係においては問わず、いわゆる浮気や不倫など[よこしま][みだ]らな関係を戒めるものです。

 さらには、戒律を完全に守らせることが戒律の本意ではなく、戒律が鏡になって我が身の浅ましさ≠知り、懺悔に導く。例えば親鸞聖人は顕浄土真実教行証文類において、「まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞[ぐとくらん]、愛欲の広海に沈没[ちんもつ]し、名利[みょうり]太山[たいざん]に迷惑して、定聚[じょうじゅ]の数に入ることを喜ばず、真証[しんしょう][さとり]に近づくことを[たの]しまざることを、恥づべし傷むべしと」(信文類三113)と自らの愛欲を懺悔されてみえますが、智慧をいただいて自らの浅ましさに気が付くこと、懺悔が出てくれることが戒律を定めた真意なのでしょう。「心こそ 心迷わす心なり 心に心 心許すな」という有名な道歌がある通り、私たちは戒律がなければ、自分の邪心を許し悪根性を正当化し続けてしまうのです。特に「理性」とも言われる「自力」は、自分や所属組織の弁護に躍起となりますので、依りどころとはならないのです。

 自分の心や行動を正当化ばかりしていると人生が破綻することは必至であります。そこで戒律という法の鏡をいただき、ここに自分の悪根性を写し出し、必然として出る懺悔によって人生成就の道すじを明かにしてゆくのです。

 邪婬は社会的問題

註釈版
 仏のたまはく、「その三つの悪とは、世間の人民、あひより寄生[きしょう]してともに天地のあひだに[]す。処年寿命[しょねんじゅみょう]、よくいくばくなることなし。上に賢明[げんみょう]長者[ちょうじゃ]尊貴[そんき]豪富[ごうふ]あり。下に貧窮[びんぐ]廝賤[しせん]オウ劣[おうれつ]愚夫[ぐふ]あり。
現代語版
 さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「第三の悪とは次のようである。世間の人々は、みな寄り集って同じ世界の中に住んでいるが、その生きている年月はそれほど長くはない。しかしその短い生涯の中にも、上は賢いものや力のあるもの、また身分の高いものや裕福なものなど、下は貧しいものや身分の低いもの、また力のないものや愚かなものなどに分かれる。

 五善五悪の他の段は、悪のありさまが真っ先に述べてありますが、第三悪だけはどういうわけか「世間の人民、あひより寄生[きしょう]して…」と、人間は集団や世間の中で暮らす社会的存在であることをあらためて確認しています。これは、邪婬は個人的な問題以上に、集団生活を営む上での問題であることを示しているのでしょう。
 性欲はそれ自体に問題があるのではありません。本能に従って行動しているだけのことです。しかし性的な行為は強烈な執着を生むゆえに、出家者はこれを一切戒め、信徒は社会的規範に[のっと]って行うのです。人間は社会的存在である以上、みな社会的規範を守り、相手を傷つけたり立場を[ないがし]ろにすることは慎まなければなりません。この段で問うのは、そうした集団生活上の約束の問題なのです。
 なお、「上に賢明[げんみょう]長者[ちょうじゃ]尊貴[そんき]豪富[ごうふ]あり。下に貧窮[びんぐ]廝賤[しせん]オウ劣[おうれつ]愚夫[ぐふ]あり」とあるのは、邪婬は愚か者だけでなく、賢い者でも、修行者でも、権力者や裕福な者でも、ありとあらゆる境遇の人が犯す悪であることを伝えているのでしょう。それほど愛欲は拭い切れない煩悩なのです。

 隠れていた愛欲交乱の思い

註釈版
なかに不善の人ありてつねに邪悪[じゃあく][いだ]けり。ただ婬イツ[いんいつ][おも]ひて、[わずら]ひ胸のうちに満ち、愛欲交乱[あいよくきょうらん]して坐起安[ざき やす]からず。貪意守惜[とんいしゅしゃく]して、ただいたづらに得んことを欲ふ。細色[さいしき]眄ライ[めんらい]して邪態[じゃたい]ほかにほしいままにす。自妻[じさい]をば[いと][にく]みて、ひそかにみだりに入出[にゅうしゅつ]す。家財[けざい]費損[ひそん]して、事非法[じひほう]をなす。
現代語版
そしてそのどちらの中にも、善くないものがいるのである。そのものはいつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々[もんもん]と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。そしてあくまで執念深く、みだらな思いをとげようとばかりする。きれいな人を見ては流し目を使ってみだらな振舞いをし、自分の妻をうとましく思ってひそかに他の女性のところに出入りする。そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。

 殺生[せっしょう]は、生きること自体から発生する「第一悪」であり、偸盗[ちゅうとう]は、自堕落で贅沢な生活を望む「第二悪」でありますが、生活の基盤が整い贅沢な生活ができるようになっても、欲界の人間はそれだけでは満足できません。刺激を求めて次に向かうのは邪婬[じゃいん]であります。歴史上も英雄色を好む′X向は否めず、社会的に成功すればするほど邪婬を望むようになります。これは成功したから邪婬の念が生まれたのではなく、成功する以前から執念深く「愛欲交乱[あいよくきょうらん]」していたことが表に出ただけの話です。生きることに精一杯の時や、贅沢を求めて忙しく仕事をしている時は我慢して抑えられていても、金品がたまり生活に余裕ができたことがきっかけとなり、隠れていた邪婬の心が芽生え、いよいよ行動に移っていったわけです。

 愛欲の執念はどこまでも深く、どんなに品行方正[ひんこうほうせい]な生活をおくっている人でも、心の底には婬らな思いが交乱しているものです。そのため、ひとたび好みの異性が現れれば、何とかして婬らな関係を持ちたいと望み、そのためにはあらゆる手段を講じて相手の気を引こうとしますので油断がなりません。こうして愛欲の深みにはまってしまえば、卑猥[ひわい]な言動を留めることができず、妻や夫をうとましく思い、家財を使い果たしてまでも相手に貢ぐようになり、最後は法律まで犯して秘かな関係を続けるようになってしまいます。

 このように第三悪は古今東西、人々が犯す悪の中核ともいえる迷いでありますが、これは他でもない、私自身の偽らざる姿ではないでしょうか。たとえ今はそうした行動をしていなくとも、きっかけがあれば私はどこまでも愛欲の深みにはまる性質であると、不邪婬戒を通して見させて頂くのです。

 集団で邪悪が倍加

註釈版
交結聚会[きょうけつじゅえ]して[いくさ][おこ]してあひ[]つ。攻め[うば]殺戮[せつろく]して強奪すること不道[ふどう]なり。悪心ほかにありてみづから業を[しゅ]せず。盗窃[とうせつ]して[わず]かに[]れば、欲繋[よくけ]して事をなす。恐熱迫キョウ[くねつはっきょう]して妻子に帰給[ききゅう]す。心をほしいままにし、意を快くし、身を極めて楽しみをなす。あるいは親属において尊卑[そんぴ]を避けず。家室[けしつ]中外患[ちゅうげ うれ]へてこれに苦しむ。
現代語版
 あるものは徒党を組んで互いに争い、相手をおどかし攻め殺してまで、欲しいものを強奪するという非道な行いに及ぶ。あるものは他人の財産に目をつけ、自分の仕事をおこたり、それを盗んで少しでも得られると、欲にかられて一層大きな悪事をはたらくようになり、ついには、びくびくしながらも他人をおどして財産を奪い取り、それによって妻子を養い、手当たり次第にみだらな楽しみをむさぼる。ときには親族に対してさえも、年の上下に関係なく礼儀を乱して、家族や親類などがそのために憂え苦しむのである。

 邪悪な心や行動といっても、個人的なものであればまだ被害は少ないのですが、組織や国家といった集団となると悪影響は莫大なものになります。たとえば歴史上、英雄と[うた]われた王や将軍たちは大衆の血と引き換えに名声を獲得したのであり、「攻め[うば]殺戮[せつろく]して強奪すること不道[ふどう]なり」とある通りの悪業を重ねていったわけです。

 なおこの節に述べられた悪は殺生[せっしょう]偸盗[ちゅうとう]の問題のように思われますが、これらの先に邪婬の悪が見越してあるのでしょう。結果として邪婬の何が問題かと言いますと、「心をほしいままにし、意を快くし、身を極めて楽しみをなす」という愛欲交乱の生活の果てに「あるいは親属において尊卑[そんぴ]を避けず。家室[けしつ]中外患[ちゅうげ うれ]へてこれに苦しむ」というように、家室(家族)や中外(父方と母方)の親族を大いに傷つけ家庭崩壊に到ってしまうことにあります。

 人間社会では互いに敬いの心を持たなければ地獄となります。中でも最も基礎的な環境である家族を崩壊させてしまえば、その人は地獄から抜け出ることは困難となります。邪婬はそうした点から見ても重大な悪なのですが、恐ろしいのは、誰の心にもどんな境遇の人にでも邪婬を犯す可能性が宿っていることです。こうした悪性が様々な縁を飲み込み、組織や国家的なものにまで反映すると、悪影響は留まることを知らぬほど拡大してしまいます。

 後から出てくる方が本当は深い

註釈版
またまた王法の禁令[きんりょう][おそ]れず。かくのごときの悪は[にん][][しる]され、日月も照見[しょうけん]し、神明[じんみょう]記識[きし]す。ゆゑに自然[じねん]三塗[さんず]の無量の苦悩あり。そのなかに展転[てんでん]して世々に[こう][かさ]ねて出づる[]あることなく、解脱を得がたし。痛みいふべからず。これを三つの大悪・三つの痛・三つの焼とす。勤苦[ごんく]かくのごとし。たとへば大火の人身[にんじん]焚焼[ぼんじょう]するがごとし。
現代語版
 このような人々も法令で禁じていることを恐れないものであるが、こういう悪は人にも鬼神にも知られ、太陽や月の光も照らし出し、天地の神も記録している。このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第三の大悪、第三の痛、第三の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。

この節は、前々章「第一悪」の{#神々が罪を記録し閻魔王に報告する}{#社会法規に譬えて}{#報復合戦の醜悪さ}とほぼ重複する内容ですから詳細は略させていただきますが、第一悪と第二悪では「神明[じんみょう]記識[きし]して」・「天神、剋識[こくし]して」だけでしたが、第三悪では「かくのごときの悪は[にん][][しる]され」と「鬼」が登場しました。第二悪までは神々の記録だけで済んでいたのですが、第三悪では鬼も監視に加わっています。これは何を意味するのでしょう。
 今度、第三悪は何かと言いますと、「衣食足りて礼節を知る」というのが、大体シナの思想でありますが、仏教ではそう言わない。人間がだんだんと経済が豊かになってくると、何が出てくるかというと、それがセックスの問題。現在そうではありませんか。今日ほどこんな大っぴらに、今ごろは不倫という言葉が流行っておりますけれども、もうお金がたくさんあるとそういう経済が豊かになれば、衣食足りて礼節を知るかと思えば、今度はもっと深い隠れておるものが奥に出てくるのです。だから、昔の人は何かと言うと、そういう一番罪の重いものは殺生である。その次が大体盗むというのは軽いものだというように、特にセックスの問題はもっと軽いものだとこういうことで、それが証拠には食べることには戦争したり人を殺すことがあるけれども、そういうセックスの問題ではそういうことがないではないかと、こう言うた人があるそうですけれども。本当は「大将は後から出てくる」という。後から出てくる方が本当は深いのです。
 仏教では罪が重いのと罪が深いのを深重と言います。だから、重いのと深いのと違いますからね。法律では殺生が一番重いでしょう。ところが、仏教では殺生は一番軽いのです。だから、等活(とうかつ)地獄は一番浅い地獄でしょう。殺生したものは等活地獄に落ちるという。今度は、だんだんと後になるほどたちが悪くなってくる。だから、そういう男女の関係というものはだんだんと悪くなる。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 このように、五戒を破る悪が「後から出てくる方が本当は深い」という解釈は新鮮でありますが、経文からみてもこれを裏づけることができます。

 慈愛に満ちた家庭環境創造の大善

註釈版
人よくなかにおいて一心に[こころ]を制し、身を[ただ]しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪[しゅあく]をなさざれば、身独[み ひと]度脱[どだつ]してその福徳[ふくとく]度世[どせ]上天[じょうてん]泥オン[ないおん][どう]を獲ん。これを三つの大善とす」と。
現代語版
 もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないようにと努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第三の大善というのである」

 第三悪の特徴は、「つねに邪悪[じゃあく][いだ]けり。ただ婬イツ[いんいつ][おも]ひて、[わずら]ひ胸のうちに満ち、愛欲交乱[あいよくきょうらん]して坐起安[ざき やす]からず」ということ、いつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々[もんもん]と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない≠ニいうことですから、「第三の大善」としてはまず邪婬を[いまし]め、「人よくなかにおいて一心に[こころ]を制し」:五濁悪世の環境にありながら智慧によってよこしまな思いや婬らな心が起きないようにする。そして「身を[ただ]しくし行ひを正しくして」:不邪婬戒[ふじゃいんかい]を保って家庭の平穏を図り、「独りもろもろの善をなして衆悪[しゅあく]をなさざれば」:周囲や他人の誘惑に流されず、たとえひとりになろうとも自分自身は家庭円満の善を為し邪婬の悪を制していけば、「身独[み ひと]度脱[どだつ]して」:本願力回向のはたらきによって家庭が学びの場となり自ずと迷妄を脱することができ、さらに「その福徳[ふくとく]度世[どせ]上天[じょうてん]泥オン[ないおん][どう]を獲ん」:その人は家庭崩壊の苦しみを逃れ、親族から信頼される功徳を得、邪婬の迷いを離れて慈愛の幸福を保つことができ、家族に支えられて寿命を全うすることができる(参照:{大経36「#贅沢心を制する大善」})と領解できます。

『長部経典』三十一経「シンガーラへの教え」には――

夫は五つの方法で妻に奉仕しなくてはならない。(一)尊敬する。(二)軽蔑しない。(三)道から外れたことをしない。(四)権威を与える。(五)装飾品を与える。
とありますが、五善五悪の段の示すところも極めて実際的です。また、愛欲を単に抑えつけるだけではなく、これを家庭環境の構築と人生成就に結び付けているところが実に創造的といえましょう。

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