平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
質問:
空の概念と虚無の概念の違いが私の中でうまく説明できません。 少なくとも私には、全ての執着を取り払った状態では、生きていることに意味が見いだせません。
|
空の概念と虚無の違いについて、
この違いを言葉で説明するのは、本当に難しいことです。それゆえ昔から「空病」といって虚無の方向に極端に走る修行者が跡を絶たないようでした。
全ての執着を取り払った状態・生きていることの意味
「全ての執着を取り払った状態」というのは、いわば「三昧の世界」「無の世界」でしょう。しかし、そこにとどまっていては覚りに至りません。釈尊も覚る前には、このような境地であったと伝えられています。そしてそこから現実に目を開いて、「あらゆるものをあるがまま受け入れる心」に大転換されていったのです。
「煩悩にある程度は答えながら、物事にあまり執着せずに、世俗的な生涯を全うすることが良い人生」
実際のところ、三毒煩悩(むさぼり・いかり・おそか)がそのまま大きく自他を傷つけることがあれば、煩悩がむしろ良縁となる場合もあります。浄土真宗の御開山である親鸞聖人は僧侶として正式に結婚され、世俗の真っ只中で仏法を弘められました。ただ「ある程度の煩悩」というのが曲者で、時と場合によって、それはとんでもない悪行を引き起こします。「歎異抄」の有名な文に「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」とありますが、条件さえ整えば人殺しさえしかねない、という自分を忘れてはならないでしょう。おおげさなようですが、人間を知れば知るほど、自分を知れば知るほど「節度ある煩悩」が一番難しいと気付かされます。よって視点を変え、煩悩と格闘するより、より良き人生を歩むことを第一とする心がけが大切でしょう。
空の概念を求めるとき、虚無に陥らないようにするには
これだけの質問をされるのですから、仏教学としての資料はお手元にお有りと推されますが、もし教学的にということでしたら、「空」を「縁起」と置き換えてみればわかりやすいでしょう。
また、「固定的実体が無い」ということは、逆に「あらゆるものはつながっている」「あらゆるものは孤立して存在しない」 ということです。これを自分の側からみると、「私と関係ない事象はない」、「私はあらゆるものと友達だ」ということです。世界中で起こるあらゆる物事は私の問題であり、そうした世界に包まれ、生かされているのがこの私です。
身近で言いますと「おかげさまで」という言葉がありますが、これこそまさに「空」や「縁起」をふまえて、世俗にひろまった仏教語でしょう。
ここでは「私」という固定的実体が何をしたかが問題ではなく、そこにどれだけの「いのち」の関わりをみていけるかが問われているのです。
ご質問のメールを頂戴いたしまして、ありがとうございました。この質問はいろいろと重要な問題を含んでいますが、たいへん多岐にわたっておりますので、その一つ一つにお答えするという形を取っていないことを、最初におわびして、おことわりしたいと思います。
◆ 有か無かという問いを離れる
まず、空について。
空という概念は、大乗仏典の『般若経』で初めて登場し、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)が『中論』で形式化したことはご存じだと思います。
仏教は有(あること)と無(ないこと)の両方の見解を退けると、言われていますが(いわゆる中道)、空ということを言う眼目の一つは、この世界のありようは、あるとかないとかでは捉え切れないということです。有でも無(虚無)でもない空がこの世界の実相である、あるいは有と無に先立ついわば「生成の世界」が空であって、そこから有と無がともに生まれてくるという発想が、空という概念の基本にあると思われます。
そもそも、空の概念はこの世界、あるいは、ものや、ことや、わたしや、わたしの心や、わたし以外の人々は本当にあるのだろうか(有)、それともないのだろうか(虚無)、という二者択一的問いに支配されていた時代に、そういう問題の立て方自体を無効にする形で出てきたと考えることができます。
単にあるかないかどっちかという答えでは駄目なんだというわけですね。これは「縁起」という概念にもつなげて行かなければならないのですが、あると思われているものも、本当は固定的に存在しているわけではないし(早い話が刻一刻と変化あるいは崩壊しつつあるわけだし)、ないという状態も実は完全な虚無ではなく、縁によっては、いつ有に転ずるかわからない潜勢性を秘めている、とでも言えるでしょうか。
ですから、空という概念の登場によって、虚無の概念(正確に言えば有と無の概念がともに)は意味を失った、少なくともその意味を根本的に変更することを余儀なくされたと言えます。あらゆるものごとや、わたしや、わたしの心や、わたし以外の人々もすべて空である(それが色即是空ということですが)ということは、いまや、それらのものは完全に有るともいえないし、完全に無いともいえないということです。
ただし、質問に「空とは心の安らいだ状態を示し、虚無とは心のすさんだ状態を表している」とおっしゃられるのは、よく分かりません。空とは悟りの状態において認識されるものだから、心の安らぎであるという連想からくるのかしれませんが、少しご説明して頂けるとありがたいのですが。
とりあえず言っておきたいことは、空をいうことにもやはり現実的動機があるということ(それについては後にふれます)と、空というのは概念なのであって、この現実は空なのだという風に無前提に「真理」にしてしまわないでほしいということです。
◆ 空は論理的限界を指し示す概念
ちなみに、龍樹菩薩の『中論』における論理を極めて簡略化すると、有と無の対立から、そのどちらでもない中1に至り、しかし、中1に固執(実体化)することも許されないので、有―無と中1の対立から中2に至り、以下無限に続けて、中iの極限としての中∞に至ったところが即ち空であるというものです。(ただし、龍樹は空を実体的に語っていないのですが)
そういうことをAでない。Bでない。AかつBでもない。非Aかつ非Bでもない、というような無味乾燥とも言えるような否定的プロセスを重ねていくことによって(有と無の無限の否定の上に)、しかしそれでも実体的には語り得ないものとして、いわば論理の限界として指し示そうとしたと言えるでしょうか。
空そのものについては語らず、論理的限界としてそれを指し示す。それが龍樹の倫理でした。
また、有名な禅問答を例に取ると、老師が弟子に向かって杖をふりあげ、「この杖があると言ったら、お前をこの杖で打つ。ないと言ったら、お前をこの杖で打つ。答えなかったらお前をこの杖で打つ」といいます。この場合、有を取ると、お前は無の境地がわかっていない、こんなもの無ではないか、と言って打たれ、安易に無をとると、それなら痛くない筈だと言って有そのものの杖で打たれる、有をとると無になり無をとると有になる、しかも答えないことも禁じられているという絶体絶命の境地に追いこんでいく。それは有と無の対立を超えた空の境地へと飛ばすためのものという風に理解できます。
ですから、空というありようが、われわれに直接認識できるものだと仮定しても、「心の安らいだ状態」ではなくて、むしろ絶体絶命の境地において、かろうじて認識できるかどうかというものかもしれません。
それとは別に、あなたの持っておられる問いの根底には「どうすればより良い生を生きることができるか」という真剣な希求があると感じられ、すばらしいと思いました。空を概念的に把握したいと思われるのも、単に知的満足を得られたいのではなく、その糸口を見つけだそうとされているからではないかと推測するのですが。
しかし、少々堅苦しく考えておられるかもしれません。「『全ての事象には実体が無い(色即是空)。従って、実体のないものに執着を抱くことは無意味なことだ。だから、物事に対する執着を取り払い心の安らぎを得よう』というのが覚りに至る道だと理解できます」と言われます。これなどは仏教の一般的理解としては申し分ないと思うのです。しかし、いわゆる教科書的な理解というもので、ものごとを概括するのには役立つことばではあっても、われわれの生活に役に立つかというと、そういう感じがしないのです。
本当にこのような言葉にあなた自身の問題が反映されているのでしょうか。私なら、仏教では「全ての事象には実体が無い(色即是空)。従って、実体のないものに執着を抱くことは無意味なことだ。だから、物事に対する執着を取り払い心の安らぎを得よう」と説いている、と言われたとしても、一体自分がどうしたらいいのか全く分からず途方にくれてしまうでしょう。
つまり、あなたはご自分の問いを無理やりこういう生硬な言葉に当てはめて解こうとされているように思われるです。それはあなたにとっても仏教にとっても不幸なことではないでしょうか。
仏教にしろ何にしろ、もともと解放を目指していた「教え」が、いつの間にか、われわれを縛るものになっているのは、よく見られることです。それは「教え」をわれわれの生活とかけはなれた高い所にまつり上げてしまい、変化を怠った結果です。
煩悩から悟りへという図式、そういうものをまともに受け取ると、そのことと現在の自分の状況をどうつなげていいか分からず、無気力な状態に陥る危険性もあります。
「全ての事象には実体が無い…」と言うことは、それを言うことによって解放を得られる人がいる場合にのみ意味をもちます。ある人が何らかの問いに直面していた。そして、こう言うことでその問いから抜け出すことが出来た。
でも、抜け出した後では、彼自身にとってもこの言葉はいわば残骸です。その言葉にいたる過程、その言葉によって、それまで当人がかかえていた問題から解放される過程が重要だと思うのです。
例えば、ナーガールジュナが空の概念を創造したこと、つまり空という概念によって現実を把握しようとしたことも、決して抽象的な事柄をひねくりまわしているわけではなく、彼自身が有と無という問題に捕らえられて、一歩も進めない状態にあったところで、何とかその問題から抜け出すために「空」の概念を創造したと考えることができます。
ですからそれは、広い意味で、彼自身がより良い生を求めた実践的な取り組みの結果とは考えられないでしょうか。抽象的なことを言っているように見えるときでも、そこには常に個人的、現実的な動機があるのです。といういうより、個人的、現実的動機があるときにのみ仏教たりうると言ったら言い過ぎでしょうか。
いずれにしても、仏教に対する見方を変える必要があるように思われます。教義イコール仏教ではありません。「全ての事象は実体が無い…」というような仏教テーゼが、あなたの胸に響いていないとしたら、忘れられた方がいいと思います。
よく、仏教は絶対的真理を説くものである。だから、それらは反駁し得ないものだという考えがありますが、それは偏見です。あるいは一面的な見方です。仏教がいついかなる時にも通用する真理を説いているように見える時でさえ、その真意は別の所にあるのです。つまり、われわれの生をせばめよう、侵食しようとするものに対する抵抗です。
◆ 豊穣な生に満ち溢れた禁欲
「このような煩悩にある程度答えながら、物事にあまり執着せずに、世俗的な生涯を全うすることが良い人生であると私は思います」とあなたは言われます。素直なお気持ちが表れていてとても感銘を受けます。
あなたはご自分の煩悩を肯定したいけれども、同時にそれに恥じらいを感じておられるように思われますが、そのようなお気持ちがなぜ起こるかというと、仏教とは煩悩をなくして行くことによって悟りにいたる教えだから、煩悩を持つのはよくないという考えと、しかし、煩悩を完全になくすのは無理だという思いを同時に持たれるせいだと思います。その結果、煩悩の要求に「ある程度」答え、ものごとに「あまり」執着しないのがいいのだという、いわば折衷案(失礼ながら)になってしまうのではないでしょうか。
しかしこれは、そもそも世に広まっている、仏教とは煩悩イコール悪、悟りイコール善で、煩悩(「物事に対する執着」)をなくして行けば行くほどいいものという、きわめて抽象化された図式の悪弊です。その結果、仏教徒ならば自分の欲望を押さえなければいけない、という一面的な見方が横行しています。
仏教は「健康でありたい、女を抱きたい、お金もある程度必要でしょう」という、「世俗的」要求を道徳的にいけないのもの、してはいけないものだといっているわけではないのです。しかし、では適当に折り合いをつけていけばいいのねというのとも少し違うのですが。
仏教は煩悩を抑制していくもの、あるいは、「物事に対する執着を取り払」って行くものだというのは、きわめて一面的な見方です。何のためにそうするのかが問題です。「心の安らぎを得る」ためと答えることもできるでしょう。「心の安らぎ」が何を意味するかによったら、それもいいかも知れません。
しかし、強調しておかなければならないのは、仏教はいわゆる禁欲とは何の関係もないということです。仏教の目的はもっと単純なものです。
仏教の目指すのは、自分に与えられた生を最大限に生き切ること、ととりあえず言っておきます。たとえ、欲望を抑制することを説いていたとしても、実はそのこと自体が目的なのではありません。生のスタイルとして、それが自らの力能を高めるために役立つかもしれないよ、と言っているだけなのです。
ゴータマ・ブッダをはじめとする初期の仏教徒は、なるほど禁欲的な徳(謙虚、清貧、貞潔など)を身につけていたかもしれません。しかし、それは目的ではないのです。自らの持てる力能を最大限に発現するための生を実現するためのいわば仮面なのです。
彼らはつつましく生きた人々ではありません。それどころか、あまりにも豊饒な、力に満ちあふれた生を生きたのです。怒り⇔悲嘆などの感情の振幅に左右されない、恒常的なエネルギー、いわば途方もない〈よろこび〉に満ちた生を生きた。私が彼らに対して抱くのはそういうイメージです。
禁欲的な徳目によって、外側から自分の生をデザインするのではありません。自らに与えられた身体と精神、それらを生き切ることを目指した結果まとった姿、それがたまたま禁欲的なものに見えただけなのです。
そして、そのようなことを目指す動機は、自分の好きなように生きていると思っている世間の人々、そして自分もまた、きわめて限定された生をしか生きていないのではないかという拭いがたい疑念なのです。実際、われわれの生はさまざまな要因によって、せばめられ、侵食されているのではないでしょうか。それに対し、仏教徒とは、言葉は悪いかもしれませんが、いわば「生命力全開」で生きるにはどうしたらいいかということを、きわめて貪欲に模索している人々なのです。
◆ 概念の創造によって問題を打破
仏教的な標準というものがあって、これは良い人生、あれは悪い人生と選別してくれるのなら楽かもしれません。しかし、そんなものはないのです。生に対して真摯な態度を取るときには、今の人間も2500年前の人間と同じスタート・ラインに立っているのではないでしょうか。そしてわたしの生はだれも生きたことがない生である以上、模範は存在しないのです。
仏教にはたしかに長い伝統があります。先人の豊かな知恵があります。しかし、それですべてではありません。わたしたち自身がより良い生を求めることをはなれて仏教はないのですから、過去のものが自分の役に立たなければ、わたしたち自身が仏教を新しくしていかなければいけないのです。
仏教はいま・ここから始まる教えです。われわれはまず、自分の足元を見る必要があります。そして、既製の問いではなく、自分の問いを立てる必要があります。
ナーガールジュナが空の概念を発明したとき、かれは誰も考えたこのない問いに直面していました。つまり、だれもしたことがない形で有と無を問題にしたのです。そこには、たしかに護教論的動機もあったかもしれません。しかし、有と無の間に新しい関係を持ち込むことによって、彼は従来の仏教を刷新したのです。
仏教は「絶対的な真理」を説くものだという考えは、わたしたちを縛る恐れがあります。なぜなら、既存の仏教教義(あるいは、仏教的言い回し)のみを正しいものとすると、おうおうにして、それらがわたしたちの問いとかけはなれたものである結果、それらを自分の生活とどうつなげていいのかが分からなってしまうからです。
それに対して、あなたがいみじくも「空の概念」とおっしゃられたように、空や縁起を「概念」としてとらえることの優位性は明らかです。概念を創造するとは、わたしたち自身が現実、ものごとを新しい関係性のもとに把握することです。そのことによって、その都度、わたしたちはわたしちを縛る問題から抜け出すのです。
空という概念もまた絶対的なものでないのは言うまでもありません。他人の概念を追認するだけではなく、わたしたち自身がナーガールジュナのように創造的であっていいのです。ただし、個々の概念をきちんと勉強されることの意義はいくら強調してもし過ぎることはありませんが、それは別に論じるべきことだと思い、ふれませんでした。
以上、あなたのご質問に何とかおこたえしたいと思ったのですが、読み返してみると、力量不足ゆえに、あまりにもわたし自身の考えている問題にひきつけてお答えをしており、たいへん厚かましいものになっているのに気づきました。お許しください。
的外れな返答だったかもしれません。説明不足の部分も多いと思います。また、ふれていない問題もたくさんあります。でも、貴重なご質問をいただいたせいで、問題をはっきりさせられたところがいくつもありました。ありがとうございました。
今後もさらにご質問、あるいはご批判をいただければ幸いです。
[相川拓善]