還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第二集 5

無根の信

【浄土真宗の教え】
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 逆謗摂取釈【116】より

 無根[むこん]の信

阿闍世王[あじゃせおう]:
「世尊、世間では、伊蘭[いらん]の種[たね]からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香[ほうこう]を放つ栴檀[せんだん]の樹が生えることを見たことがありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。
伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心に起こった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、それを無根というのであります。
世尊、わたしは、もし世尊にお遇いしなかったら、ながい間地獄におちて、限りない苦しみを受けなければならなかったでしょう。わたしは今仏を見たてまつりました。そこで仏が得られた功徳を見たてまつって、衆生の煩悩を断ち、悪い心を打ち破りたいと思います」
「世尊、もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは常に無間地獄[むけんじごく]にあって、はからしれない長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても,それを苦しみとはいたしません。」
「耆婆[ぎば]よ、わたしは命終わることなくすでに清らかな身となることができた。短い命を捨てて長い命を得、無常の身を捨てて不滅の身を得た。そしてまた多くの人々に無上菩提心[むじょうぼだいしん]をおこさせたのである」

 そしてさまざまな宝幢[ほうどう]をささげ仏がたを供養して、偈頌[げじゅ]を作り讃嘆[さんだん]したということである。

「實語甚微妙 善巧於句義 甚深秘蜜蔵 為衆故顕示 所有廣博言 為衆故略説 具足如是語 善能療衆生
(如来の仰せは、はなはだすぐれている。説かれる言葉もその意味内容も、実に巧みであり、はかり知れない深い教えがこめられている。衆生の為に、時には広大な法義をあらわし、ときには略して説かれる。このような言葉で衆生の病をなおしてくださる)
<中略>
「我遇悪智識 造作三世罪 今於仏前悔 願後更莫造 願諸衆生等 悉発菩提心 繋心常思念 十方一切仏 復願諸衆生 永破諸煩悩 了了見仏性 猶如妙徳等
(わたしはかって悪知識に遇い、過去・現在・未来にわたる罪をつくった。いま仏前に懺悔します。願わくは再びこのような罪をつくるまい。願わくばあらゆる人々がことごとく菩提心をおこし、すべての世界の仏がたをこころにかけて常に念じて欲しいと思う。また願わくばあらゆる人々が永久に煩悩を離れ、文殊菩薩のように明らかに仏性をさとってほしい)」

 お釈迦様は阿闍世王のこの言葉を聞いてほめたたえられ次のように仰せになったという。
「よろしい。もし人が菩提心[ぼだいしん]を起こすなら、その人は仏がたとその大衆をうるわしくととのえるものであると知るがよい。王よ、そなたは昔、毘婆尸仏(びばしぶつ)のもとで、はじめて無上菩提心をおこした。それ以来、わたしが世に出るまでの間、まだ一度も地獄におちて苦しみを受けたことはない。王よ、菩提心はこのようにはかりしれない果報があると知るがよい。
王よ、今より後は常にまごころをこめてさとりを求め、努め、励むがよい。なぜなら、この因縁によって無量の罪悪を消滅することができるのである」

注記:
毘婆尸仏とは過去七仏の一である。過去七仏とは毘婆 尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・拘那舎牟尼仏・迦葉仏と釈迦牟尼仏の七仏をいう。釈尊よりはるかな昔から『普遍的な法』が説き継がれてきたと言い伝えられている。

この『涅槃経』に説かれる阿闍世王の物語とは内容は少し異なるが、『観無量寿経』においては、阿闍世王が害しようとした母、韋提希[いだいけ]夫人を中心において、お釈迦様が韋提希夫人の苦悩を聞き取られ定善十三観・観仏の法を勧め、また続いて散善三観を説き、五逆十悪の者も臨終に善知識に導かれ、念仏の勧めに遇い、念仏を称えて浄土に往生することができると説いている。この時点において、阿闍世はまだ父王を幽閉し、母をも害しようとする悪逆非道の子である。しかし『涅槃経』では、悔い改めて菩提心を起こし、他の人々にも菩提心を起こすことを願う真の仏弟子となった阿闍世のすがたがあるが、観無量寿経では、そのことを予感させる五逆摂取[ごぎゃくせっしゅ]の法が示されていることである。

『顕浄土真実教行証文類』・化身土文類六(本)真門釈・引文【60】には、《涅槃経》を引いて釈尊の説法をつぎのように示されている。
「善良な者よ、もっともすぐれた真の善知識[ぜんぢしき]は、仏や菩薩たちである。なぜなら、常に三つの善い方法で衆生の心をととのえて導くからである。その三つとは何かというと、
 一つにはこの上なくやさしい言葉を用いる
 二つにはこの上なくきびしい言葉を用いる
 三つにはやさしい言葉と厳しい言葉をあわせ用いることである」

「善良な者よ、仏や菩薩はすぐれた医者であるから善知識という。
<中略>病の原因を知って薬を与えるから病が治るのである。だから名医というのである。仏や菩薩もまたこれと同じである。すべての凡夫には三種類の病があると知っている。
一つには貪[むさぼ]り、二つには怒り、三つには愚かさである。
貪りの病のものには、骨相[こつそう]を観じさせる。怒りの病のものには慈悲の相を観じさせる。愚かさの病のものには、十二因縁を観じさせる。このようなわけで、仏や菩薩たちを善知識という。
すべての衆生を導いて迷いの大海を渡らせる」と。

註記:
「骨相を観じさせる」とは人のからだは白骨を連ねたのにすぎないと観ずること」
「十二因縁」とは衆生の迷妄と苦悩が成立し消滅する条件、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二をいう。
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[釈勝榮/門徒推進委員]

(参照:{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか?}


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