平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

他の生き物と人間の関係

― 浄土で出あうということ ―

質問:

私は仏教には全く興味を持つこともなく、人生を過ごしておりました。
趣味の登山より、最近世界遺産にも登録された修験道を調べるうち、実家が浄土真宗であること又同じ仏教でも考え方があまりに違うことを知り無知を恥ずかしく思っている次第です。

ところで、六道輪廻の迷信性等を読ませていただきました。仏教ではあらゆる生き物は平等と説いておられると認識しておりますが、人間以外の生き物は成仏とは全く無縁なのでしょうか。人間に生まれることは難しいとすれば、他の生き物と人間の関係はどうなのか全くわかりません。

また、知的障害者であっても浄土へ行くことができることは、Q&Aを拝見して少々ではありますが、理解できました。しかし、親の愛情を受ける事がなかった水子はどうなるのでしょうか。

返答


〉 私は仏教には全く興味を持つこともなく、人生を過ごしておりました。
〉 趣味の登山より、最近世界遺産にも登録された修験道を調べるうち、
〉 実家が浄土真宗であること又同じ仏教でも考え方があまりに違うこ
〉 とを知り無知を恥ずかしく思っている次第です。

 仏教各派の共通性と差異は、仏教の発展史の中で必然的に生じたことと、他の文化の影響や、祈祷化・呪術化した部分、また形骸化してしまった部分もあり簡単に述べることはできませんが、結果として多くの違いが出てきています。
 特に、東洋の宗教観の中には自然と一体となる道教的思想がありますが、この思想と仏教が合体してしまうと、釈尊が批判した梵我一如の思想と同様になってしまう危険性がありますので注意しなくてはならないでしょう。(参照:{自然と社会と仏教の関係}

〉 ところで、六道輪廻の迷信性等を読ませていただきました。仏教では
〉 あらゆる生き物は平等と説いておられると認識しておりますが、人間
〉 以外の生き物は成仏とは全く無縁なのでしょうか。人間に生まれるこ
〉 とは難しいとすれば、他の生き物と人間の関係はどうなのか全くわか
〉 りません。
 {六道輪廻と浄土について} {魂という概念} {空の概念と虚無の概念の違い} 等についてのご質問ですね。

 成仏というのは、人間として生まれた者が、人間としての命を華開かせ、全うすることが基本にあります。ならば他の生物は他の生物で、その命を全うすることがその生物にとって本当に生きる道でしょう。動物は動物のままで絶対であり、動物のままで尊いのです。この尊さを全うしようと、全ての生物は一生懸命生きているのでしょう。全ての生物はこうした「言葉や教えになる以前の法」を身に満たして生きている、と言えます。
 ですから、人間と動物のつながりは事実としても感性としても明らかですが、「動物もいずれ人間に生まれ変わる」とか「人間に生れ変らなければ成仏できない」と無理に考えてしまうこと自体が不自然なのであり、それが人間の傲慢さにつながるのかも知れません。

それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・ケン飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ。

『大阿弥陀経』 より
(『顕浄土真実教行証文類』行文類二 9 大行釈 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
わたしが仏となったときには、わたしの名号をすべての世界の数限りない多くの国々に聞こえわたらせ、仏がたに、それぞれの国の比丘たちや大衆の中で、わたしの功徳や浄土の善を説かせよう。それを聞いて神々や人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいに至るまで、わたしの名号を聞いて、喜び敬う心をおこさないものはないであろう。このように喜びにあふれるものをみなわが浄土に往生させたい。わたしは、この願いを成就して仏となろう。もしこの願いが成就しなかったなら、決して仏にはなるまい。

舎利弗、なんぢこの鳥は実にこれ罪報の所生なりと謂ふことなかれ。ゆゑはいかん。かの仏国土には三悪趣なければなり。舎利弗、その仏国土にはなほ三悪道の名すらなし、いかにいはんや実あらんや。このもろもろの鳥は、みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して、変化してなしたまふところなり。

『仏説阿弥陀経』 正宗分 依正段 3 より

意訳▼(現代語版 より)
舎利弗よ、そなたはこれらの鳥が罪の報いとして鳥に生れたのだと思ってはならない。 なぜなら阿弥陀仏の国には地獄や餓鬼や畜生のものがいないからである。 舎利弗よ、その国には地獄や餓鬼や畜生の名さえもないのだから、ましてそのようなものがいるはずがない。 このさまざまな鳥はみな、阿弥陀仏が法を説きひろめるために、いろいろと形を変えて現されたものにほかならないのである。

 阿弥陀仏の浄土とは畢竟、如来の覚られた実相であり、この世の真実の相をありのままに述べたものですから、私たちが他の生物を理性であれこれ判断するより、「阿弥陀仏の化身である」と見抜かれた眼を尊ぶことが大切であろうと思います。もちろんこれは「鳥=阿弥陀仏」と断言しているのではなく、「鳥の声を通して阿弥陀仏の法を聞くことができる」というように、一切衆生悉有仏性の法のあり場所を示しているのです。

 輪廻があろうと無かろうと、私たちにとって、てき面する最も重要な課題は、生きる目的や方向を問い、この生を虚しくない意味あるものに仕上げていくことでしょう。そのため人生の謎を解き、尊い価値ある社会や文化を相続しつつ、私が生きる現場において新たな歴史を創造してゆくのです。(註:「生きる目的」という言い方は理性に偏った断絶を含んだ表現で、仏教としては問題のある用法ですが、「願い」の一面を表す意味で便宜的に用いました)

 動物や植物は弱肉強食等の本能に支配されている部分が大きく、この導きに従って生きていくことで生命を全うできるのかも知れません。しかし人間は、この本能に従うだけでは人生が成就しないことを知っています。未分化な本能の殻を割り、複雑な言語を持ち、文化を持ち、また歴史を相続していきます。そのため、自らの生き方を決定し、新たな環境を作り出すことができる反面、間違った思想に毒されたり歴史を歪曲して相続すれば、人生観が歪み、周囲との対立を繰り返し、人間としての命を全うすることができなくなります。ですから真実の教えを通じて成仏を願い歩むのです。
 成仏は、その高みゆえに私たちにとっては永遠の未来のことのようでありながら、本願成就が未完成のままの絶対完成であると知れば、当来において必ず実現されることが信受されるのです。これは人間にとっては、自身の成熟の問題と、歴史や社会を相続し創造してゆく歩みにおいて成就されるのです。(註:「当来」とは「将来」よりも確実な願いをいいます)

おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

『往生論註』巻下 105 より

意訳▼(聖典意訳より)
 およそ、「回向」ということばの意味を解釈するならば、菩薩が自身で集めたところのあらゆる功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに仏果[ぶっか]に向かわせることである。
 「巧方便」というのは、菩薩が自分の智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。たとえば木の火ばしをもって、草木を[]んで焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便[ぎょうほうべん]と名づける。
 いまここに方便というのは、すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。それはかの仏国はすなわち、ついに仏になるところの道であり、最もすぐれた方法だからである。

 しかし、何度も言いますが「一切衆生悉有仏性」というように、人間以外でも、あらゆる生命も「命を全うしたい」とか「尊く成りたい」と願う性質を有っています。ですから、他の生物の命を無駄に殺すことは避け、可能な限り、共に生命を全うする道を探ることが私たち人間の課題となるでしょう。

 なお、<仏教ではあらゆる生き物は平等と説いておられる>という認識ですが、これは一面であって、全てではありません。
 例えば、「智慧」ということ一つとっても、「慧」は、空・無我に名づけ、また不動に名づけるはたらきといわれますから、「一切の生きとし生ける者は平等」という立場に立って仏性を有することをいいますが、「智」は、分別・決断に名づけるはたらきで、「慧」を得た上で、人は人、動物は動物、植物は植物、菌は菌と、現実にある差異をはっきり見据えていきます(参照: 得三法忍の願)。 「人も動物も植物も菌も平等である」という一面は大切ですが、一面だけに固執すれば、たとえば極端な話、「人を殺しても菌を殺しても同じ罪である」などという現実離れした理屈になってしまいます。
 仏教はあくまで現実の人生に学ぶ菩提心・まごころの教えですから、一つの理屈を絶対視して全てに当てはめることは避けるのです。たまたま触れたところに執着して巨象全体を認識したつもりでいては間違いが起こるようなものでしょう。
 歴史は深く、人生は複雑でありますから、一つの主義や思想にとらわれたりせず、深く複雑なまま領解・体解していくことが大切でしょう。単純化した思想や宗教がいかに世の中を破壊してきたか、これは歴史を学ぶまでもなく、現代社会の緊急課題となっている事実が教えてくれます。

〉 また、知的障害者であっても浄土へ行くことができることは、Q&Aを
〉 拝見して少々ではありますが、理解できました。しかし、親の愛情を受
〉 ける事がなかった水子はどうなるのでしょうか。

{知的障害者は浄土へ参れないのか?} についてのご質問ですね。

 浄土というのは、どこかの土地や空間にあるのではありません。「功徳善力をもつて行業の地に住す」(仏説無量寿経)というように、この世始まって以来のあらゆる経験が活かされ、言葉となる以前からの感動や真心の内容が、みずから言葉をとり、名のりをあげて功徳が成就している世界なのです。「本願成就のいわれを聞き開く」ことは、経典の文字解釈を言うのではありません。また阿弥陀仏も、「一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり」(唯信鈔文意2)とありますように、あらゆる生命の尊さが集まり報いた身であります。

 このように、道理として言えば、全ての衆生が(水子も)浄土に集うのです(というより、全ての衆生が集う場を「阿弥陀仏の浄土」というのです)が、遺された私たちの実践的・体験的な問題で往生の有無を言うのです。

『仏説阿弥陀経』には「倶会一処」とありますように、覚ってみれば「あらゆる衆生・先祖は阿弥陀仏の浄土に集まってみえる」と見ぬくことができるのです。そして私たちは、こうした浄土の語りかけが領解できれば、この世始まって以来過去一切の経験が、この身この場ではたらいていることが解るのです。しかし、そのことを受け入れられない者にとっては先祖とも心が通いません。心が通わなければ、あって無きが如しで、居ないのと同じなのです。ですから盛んに、「今」・「この場」で「私」に「往生を願う」ことを勧められているのです。
 ただこの勧めも、往生のかけ引きで勧めるのではなく、浄土の歴史・人生の真実を聞き開くことで、おのずと願いが回向されてくることをいうのです。気が付くといつの間にか願いがわき起こっている―― こうした体験を経てみると、「これは自力ではなく他力である」とか「無根の信である」と言わざるを得ないのですが、道理として言えば、一切衆生に本来的に宿されていた浄土の深い因縁が、その本来を発揮したことに他なりません。
 法・道理としての阿弥陀仏の浄土と、機・体験としての南無の浄土が、ともに南無阿弥陀仏として一体と成ることが重要なのです。

 このように、南無阿弥陀仏のいわれを聞き開き、如来の功徳を褒めたたえ、往生を願えば、過去一切の先祖の経験が諸仏となって今この私の身心にはたらいていることに気付きます。

 本願を根本として、全ての先祖を諸仏として尊敬すれば、今、ここで、一切と出会い、語りあうことができる、こうした功徳の報いた場が、みずから「浄土」とも「安楽国」とも名のっているのです。この阿弥陀仏の浄土に根を張ってこそ私達は新しい地平に歩み出せるのであり、自分独自の浄土を生活の場に打建ててゆけるのです。


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