平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
わたしの子供は、知的障害をもっています。ひごろより念仏をともにとなえるようにしておりますが、疑問をもちつづけています。
本願を信じて念仏してはじめて浄土にまいることができると承知していますが、我が子は、なんとかうながせば念仏申すことできますが、本願を信ずることなどとてもむりなことです。
わたし自身も念仏となえても、たまに法話を聞く程度の生活です。子を救うのには、まづ自分の信を深めぬことにはお話にならぬとおもっている。
それにしても我が子への愛着の執念煩悩の火がつづく。どうしたらいいのでしょうか?
実に貴重なご質問をいただきました。
子育ては憙びとともに、時には絶望的な、命を削っても成し遂げることが適わない苦行でもあります。複雑な想いがおありかと推察しますが、本当に尊いことです。
経典には「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」とあり、また聖人は「誠なるかな、摂取不捨の真言」と称えておいでです。しかし「信心正因・称名報恩」とばかり聞いては、おっしゃる通り「本願をきちんと理解できない人は救いから漏れるのではないか」との疑問が生じます。
結論から言いますと、これは大きな誤解なのです。本願は学ばなければなりませんが、言葉ではなく、心に響く「まごころ」を学ぶのです。本願はテキストではありません。喜びや苦難を包み込み、皆ともにここで生きる力となるはたらきなのです。
仏教でいう救いとは、究極のところ「生きがいのある人生を全うする」ということに尽きます。
「生れてきてよかった」と思える人生、「生きていることは素晴らしい」と感動できる人生、そして「死んでも悔いは残らない」と受け入れられる人生。これこそが真の救いの証しでしょう。世俗の評価を越えて、私の一生も、子どもの一生も、浄土の礎となり柱となり、黄金の釘となっていきます。
この証しは、誰か他人に証明してもらうものではありません。あなたがお子様に対して、「居てくれてありがとう」という気持ちを持つ時、「一緒にいる時間が素晴らしい」と感じる時、「この人生に悔いはない」と受け入れる時、これが一瞬であったとしても、如来の願いが私の胸に届いたという証しなのです。如来は常にあなたとともにあります。あなたがお子様を通して如来のいのちに気づくかどうかが問われているのです。
五感の快楽のみを求めて人生を歩む者は、たとえそれが叶っても、如来のいのちと出遭うことはできません。苦難も厭わず受け入れ、皆とともに「自分の人生を完成しよう」と歩むところに本当の快楽があるのです。そしてここに人々や如来と出遭う機会が生まれるのです。如来に出遭った者は、確実に浄土に導かれます。なぜなら出遭った「ここ」こそが浄土そのものだからです。
如来の導きを素直に学んでいけば、知的障害を持つ人も必ず浄土のはたらきを受けて覚りに導かれる、ということが肯けると思います。そこで一例として、少し本願の意を以下に紹介します。お読みいただいてもご不審な点は残るとは思いますが、様々な仏縁をお尋ねになって、親子はじめ自他の人生の成就を果たしていただきたいと思います。
なお、「知的障害」という言葉は仏法に照らせば問題のある言葉ですが、とりあえずここでは一般の使用にならうことにします。
先にあげました親鸞聖人の「誠なるかな、摂取不捨の真言」という言葉ですが、ここでいう「真言」は「誠言」といって、真実誠より出た言葉をいいます。まごころを持って話せば、意味は伝わらなくとも、まごころは伝わります。経典は、このまごころの大切さを伝えるために編纂されたのです。理論を学ぶのは方法であり、文字の奥にある如来の真実心に触れることが目的なのです。また言葉だけではなく、行動でまごころを示しあうことも大切です。
「本願を信ずることなどとてもむりなこと」
と書いていただきましたが、如来の眼にはそうは映っていません。覚りの眼を開けば、一切衆生に仏法を聞く「心の耳」がそなわっている。知能指数に関わらず、性格に関わらず、皆まごころを欲している。平気で嘘をつくような人間も、意識の奥底では真実心を求めている。如来はこのように見抜かれたのです。まして知的障害など如来のまごころの伝達には何の障害にもなりません。
親鸞聖人も和讃に――
弥陀初会の聖衆は
算数のおよぶことぞなき
浄土をねがはんひとはみな
広大会を帰命せよ
『浄土和讃』讃弥陀偈讃 (16)
とあらわされ、如来に見抜かれた<人々の中に宿る求道の初心>を喜ばれてみえます。
阿弥陀如来の声を聞く集まりは「広大会」であり、誰ひとりとしてそこから漏れる人はいません。なぜなら、存在するものは、必ずその存在の意味を確かめようとするからです。これが生命の本質なのです。ただこの初心がそのまま育たず、様々な時代悪や社会悪・悪思想に染まり、煩悩や怠け心などによって本来のいのちの尊さを損ない、如来の声が聞こえなくなってしまうのです。ちなみに覚りに照らせば「知的障害」とは、この「毒された知性・知識による障害」を指しますので、あらゆる人が知的障害を持っているといえるでしょう。
それでもみな心の奥底にあらゆる障害を超えるような求道心が宿っているのです。ただその尊さに気付かず開発の努力を怠っているために見えないのです。
誰もが「弥陀初会の聖衆」であり、存在の尊さの表現はここに極まります。あらゆるいのちはみな尊く、その尊さを踏みにじらないために仏法があるのです。そしてあらゆる悪条件を乗り越えて響くまごころを名号・念仏に込め、本願に開いて成就するのです。
ここに条件などあろうはずがありません。誰でもその存在の内に真実を宿しています。頭脳明晰であろうがなかろうが、皆から性格の良し悪しを言われようが、身体が頑丈であろうがかなろうが、その存在している姿は真実なのです。頭脳明晰な人は明晰なまま、そうでない人はそうでないままが真実なのですから、真実をそのまま引き受けて、互いの違いに学びあい照らしあって育つことが尊いのです。
逆に、存在について様々な注文をつけ、自分の都合で善悪の条件をつけるところに三悪道が展開します。生まれや職業、身体的・精神的特長で差別することによって、いのちを汚し、真実心を見失しなわせるのです。また、人の気持ちや心を無視し、指図して支配欲を満足させるところにも三悪道が展開します。心は身体とともにあり、心を無視すればそれは存在を無視したことになるのです。ですから「無視は殺生である」と仏教では教えます。
ところでこれは誰のことを言っているのでしょう。「他でもない今の私の姿ではないか」と気付くところに、あらためて法を聞き直す機会が訪れるのです。
『仏説無量寿経』はじめ浄土三部経は、「摂取不捨」の精神が根本にあります。これが如来の真実心です。人々の都合や、何か大きな存在の裁きによって誰かが排除される、というようなことのない世界を建立する。これが如来の真意であり、その意を実現する方法が本願成就の物語によって顕され、人々が導かれるのです。
これは、存在の尊さが個人の尊さにとどまらず、世界全体にとっても尊いかけがえのないいのちなのである、ということを、人類の歴史からほり起こして証明する願いなのです。私も、ご質問者も、お子様も、あらゆるいのちが大切に敬われ、「あなたが居てくれてよかった」と、互いの存在を喜び合う関係を築く視点が、いのちの奥底においてはたらいているのです。
はるか昔の錠光仏の時以来、私たちはあらゆるいのちとともに一歩一歩と求道の道を歩んでいる、ということをこの経典は示しています。こうしたいのちの歴史に参加していくことができれば、自らの生き甲斐も見つかり、悔いのない日々を送る誓いとなるのではないでしょうか。
ここは誰もが参加できる場です。浄土は誰も排除しないのです。浄土の徳は歴史に裏打ちされたはたらきであり、あらゆる人々が自らの存在を意味づけることが適う場なのです。たとえほんの数時間しか生きられないいのちであっても、知的な面で劣っている人でも、他人から良い評価が受けられない人でも、如来の大きな視点から見れば充分に敬われる存在なのです。
こうした浄土のはたらきにうなずくことができると、「自分も他人もそれぞれの境遇で尊く生き、この世界に学び、また恩に報うて生きていきたい」との思いも高鳴ります。
今日までの日本仏教は、この世は無常であるとか人生は苦であるとかいい、人間は愚かで罪が深いという人生観に立っているのであるが、それらは全て社会悪や人間業に汚染された大人の、それも人生に打ちひしがれた敗残者の考え出した隠れ蓑[みの]にすぎない。
生まれたままの天真爛漫な童子の心は、与えられた境遇がどうであろうと自分がどうであろうと、一切それらに囚[とら]われることなく、内に燃えている生きようとする純粋本能の命ずるままに、ひたすら自分の成長と健全な社会を求めて止まぬ永遠の求道者である。
人生とは何か、自分は何者か、人間は何のために生きているのかと、人生の謎に挑んでいる若者の産み出した宗教こそ真実である。
見聞覚知の一つ一つから学ぼうと人生修行の旅に出た善財童子[ぜんざいどうじ]の物語を説く『華厳経』、また私たちの先祖が永い歴史を通して築き上げてきた精神王国と呼ばれた行為的世界の浄土を自覚自証して、法蔵菩薩の名に依って人間の深い願いを説いた『大無量寿経』は、万年青年の血の叫びである。
『八葉通信』16号[万年青年の宗教]八葉峰 より
「子を救うのには、まづ自分の信を深めぬことにはお話にならぬとおもっている」
まさにその通りであろうと思います。「自信教人信」という言葉もあります。
しかし一方、法を聞き開けば、「親が子を救う以上に、子によって親が救われる」ということも実感できるのではないでしょうか。教える以上の功徳が教える側に与えられるということがあります。ですから互いに敬いあって暮らすことが大切なのでしょう。
「それにしても我が子への愛着の執念煩悩の火がつづく。どうしたらいいのでしょうか?」
子どもを思う親の気持ちは、喜びも大きい反面、将来を心配するなど苦しみも山のようにあります。しかし、「我が子への愛着の執念煩悩の火がつづく」ということこそが、如来のはたらきを受けた親の姿でしょう。
愛情を、排除すべき煩悩として扱うのは、まだ覚りを得ていない小乗の説。つまり仮の教えです。大乗仏教では「煩悩即菩提」といいまして、自分を苦しめる心(煩悩)とさとりを求める道心(菩提心)は常に表裏一体と見ます。これが正しいものの見方です。
「我が子への愛着」というのは、現われ方によっては問題点も含みますが、もしこの心が無くなってしまえば人類から文化そのものが消えてしまいます。もちろん仏教もその根本精神を失い、存在の意味もなくなります。まずは非常に大切な宝のような心である、ということはご確認ください。
煩悩を無くしたら苦しみは去りますが、人生を成就に向かわせる菩提心も削げ落ちてしまいます。ただ、煩悩が野放しになってしまったら身を滅ぼしますので、煩悩をそのまま肯定するのではなく、その奥に添うている菩提心に目をつけ、その純粋なはたらきを見守り随順していくことを勧めるのです。
愛情は愛着となり必ず悩みを生みますが、悩みの中にこそ覚りがあります。「執念煩悩の火がつづく」ということは、裏を返せば覚りのはたらきが続くということでもあります。さらにいえば、愛着にも自分の損得ばかりの愛着と、損得を超えてはたらく愛着があります。後者の愛着は悩みも強く深いのですが、それだけに如来の純粋な心に気付く良い機会となり、如来の菩提心を学ぶ尊いご縁となります。そして愛を個に閉じて執着するのではなく、普遍に開いて慈悲とすることを如来の願いに学んで下さい。
慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根とす。ゆゑに〈出世善根生〉といふなり」と。
『往生論註』巻上10 正道大慈悲 出世善根生 より
(『顕浄土真実教行証文類』真仏土文類五 24 真仏土釈 引文 に引用)
▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
慈悲には三縁ある。一つには衆生縁、これは小悲である。二つには法縁であり、これは中悲である。三つには無縁でありこれは大悲である。この大悲は、少しも煩悩の汚れのない善である。浄土は、法蔵菩薩の大悲によりたてられたのであるから、この大悲を浄土の根本という。だから<少しも煩悩の汚れのない善根から生じる>といわれたのである。
菩提心も慈悲も、如来の本願に学ばず自分の思い込みで為そうとすると、様々な障害に道をふさがれて悩みばかりが増えてしまいます。つねに称名念仏をこころがけ、時間をみつけてよくよく本願を聞き開いていって下さい。お子様には教えを説明するのではなく、教えのまごころを伝える。あなたが身に受け、身に満たした信心の功徳は、日常においておのずと相手に伝わるものです。
【四】 仏、阿難に告げたまはく、「乃往過去久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して無量の衆生を教化し度脱して、みな道を得しめてすなはち滅度を取りたまひき。次に如来ましましき、名をば光遠といふ。次をば月光と名づく。次をば栴檀香と名づく。次をば善山王と名づく。次をば須弥天冠と名づく。次をば須弥等曜と名づく。次をば月色と名づく。次をば正念と名づく。次をば離垢と名づく。次をば無著と名づく。次をば龍天と名づく。次をば夜光と名づく。次をば安明頂と名づく。次をば不動地と名づく。次をば瑠璃妙華と名づく。次をば瑠璃金色と名づく。次をば金蔵と名づく。次をば焔光と名づく。次をば焔根と名づく。次をば地動と名づく。次をば月像と名づく。次をば日音と名づく。次をば解脱華と名づく。次をば荘厳光明と名づく。次をば海覚神通と名づく。次をば水光と名づく。次をば大香と名づく。次をば離塵垢と名づく。次をば捨厭意と名づく。次をば宝焔と名づく。次をば妙頂と名づく。次をば勇立と名づく。次をば功徳持慧と名づく。次をば蔽日月光と名づく。次をば日月瑠璃光と名づく。次をば無上瑠璃光と名づく。次をば最上首と名づく。次をば菩提華と名づく。次をば月明と名づく。次をば日光と名づく。次をば華色王と名づく。次をば水月光と名づく。次をば除痴瞑と名づく。次をば度蓋行と名づく。次をば浄信と名づく。次をば善宿と名づく。次をば威神と名づく。次をば法慧と名づく。次をば鸞音と名づく。次をば師子音と名づく。次をば龍音と名づく。次をば処世と名づく。かくのごときの諸仏、みなことごとくすでに過ぎたまへり。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 五十三仏 より
【五】 そのときに、次に仏ましましき。世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。時に国王ありき。仏(世自在王仏)の説法を聞きて、心に悦予を懐く。すなはち無上正真道の意を発す。国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる。号して法蔵といふ。高才勇哲にして、世と超異す。世自在王如来の所に詣でて仏足を稽首し、右に繞ること三ゾウして、長跪合掌して、頌をもつて讃めてまうさく、
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 より
意訳▼(現代語版 より)
【四】釈尊は阿難に仰せになった。
「今よりはかり知ることのできないはるか昔に、錠光という名の仏が世にお出ましになり、数限りない人々を教え導いて、そのすべてのものにさとりを得させ、やがて世を去られた。次に光遠という名の仏がお出ましになった。その次に月光[がっこう]・栴檀香[せんだんこう]・善山王[ぜんせんのう]・須弥天冠[しゅみてんがん]・須弥等曜[しゅみとうよう]・月色[がっしき]・正念[しょうねん]・離垢[りく]・無著[むじゃく]・龍天[りゅうてん]・夜光[やこう]・安明頂[あんみょうちょう]・不動地[ふどうじ]・瑠璃妙華[るりみょうけ]・瑠璃金色[るりこんじき]・金蔵[こんぞう]・焔光[えんこう]・焔根[えんこん]・地動[じどう]・月像[がつぞう]・日音[にっとん]・解脱華[げだっげ]・荘厳光明[しょうごんこうみょう]・海覚神通[かいかくじんずう]・水光[すいこう]・大香[だいこう]・離塵垢[りじんく]・捨厭意[しゃえんに]・宝焔[ほうえん]・妙頂[みょうちょう]・勇立[ゆうりゅう]・功徳持慧[くどくじえ]・蔽日月光[へいにちがっこう]・日月瑠璃光[にちがつるりこう]・無上瑠璃光[むじょうるりこう]・最上首[さいじょうしゅ]・菩提華[ぼだいけ]・月明[がつみょう]・日光[にっこう]・華色王[けしきおう]・水月光[すいがっこう]・除痴瞑[じょちみょう]・度蓋行[どがいぎょう]・浄信[じょうしん]・善宿[ぜんしゅく]・威神[いじん]・法慧[ほうえ]・鸞音[らんのん]・師子音[ししおん]・龍音[りゅうおん]・処世[しょせ]という名の仏がたが相次いでお出ましになって、みなすでに世を去られた。
【五】 その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供[おうぐ]・等正覚[とうしょうがく]・明行足[みょうぎょうそく]・善逝[ぜんぜい]・世間解[せけんげ]・無上士[むじょうじ]・調御丈夫[じょうごじょうぶ]・天人師[てんにんし]・仏・世尊と仰がれた。そのときひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。この法蔵菩薩が、世自在王仏のおそばへ行って仏足をおしいただき、三度右まわりにめぐり、地にひざまずいてうやうやしく合掌し、次のように世自在王仏のお徳をほめたたえた」