平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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親鸞聖人がいわれる「等正覚」と「無生法忍」は菩薩の52の階梯のうちのどこにあたるのですか?
不退の位ってどこのことなのでしょう。
それから、体失往生すると同時に大般涅槃を得るってなんですか。
修行もしないでさとりは得られるのですか。
あとひとつ。親鸞と蓮如の教えってちがう気がするのですが、どうなんでしょう。
多くの質問をしていただきました。ひとつひとつ非常に重要な問いで、それぞれ充分にお応えできるか分かりませんが、出来得る限り仏意に添わせていただきお答えしたいと思います。
ご存知の通り五十二位というのは、大乗仏教として菩薩の修行の段階を五十二に分けたものです。下位から言いますと、十信・十住(解)・十行・十回向・十地・等覚・妙覚と位がついていて、十信を外凡、十住・十行・十回向を内凡(三賢)といい、十地の初地(四十一位)から聖者の位に入ります。初地は「歓喜地」で、次に「離垢地」・「発光地」・「炎慧地」・「難勝地」・「現前地」・「遠行地」・「不動地」・「善慧地」・「法雲地」・「等正覚」で、五十二位は「妙覚」で「仏」そのものですから、菩薩ではありません。
そのうち「等正覚」は菩薩として最高位の第五十一位で、ほとんど仏(五十二位)と等しい位に当ります。いよいよ最高の仏果である妙覚を得ることができる位で、仏の異称でもあり、「一生補処」・「金剛心」ともいいます。
「無生法忍」は様々な解釈がありますが不退転の位と解釈されることが多いようです。ちなみに善導大師は「十信位にある者」と解釈されましたが、親鸞聖人はやはり不退転の位と領解されました。これは、大師はあくまで信は自分の側としてとらえられたのに対し、聖人は信こそ如来回向の心そのものと見抜かれたことによります。
なお、「不退(不退転)の位」というのは四十一位以上の菩薩のことをいいます。ふたたび迷いの世界に戻らないことから「不退転」といい、これよりひたすら覚りに向かう位という意味で「正定聚」といいます。これは同じ境地を両面から表現しているので「正定聚不退転の位」と並び称されてもいます。
[資料1▼] ・ [資料2▼] 参照
以上は大乗仏教における解釈ですが、親鸞聖人はじめ善知識の導きにより事態は一変します。念仏の行者は、横超の菩提心のはたらきを身に満たすことで一気に「正定聚不退転の位」に到ることができる、しかも第二十二願に「諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん」とありますから、念仏の行者は少なくとも八地以上、つまり四十八位の「不動地」以上の徳がやがて身につき、十地すべての徳が現実に行われる、ということが明らかになったのです。これは、大乗仏教の解釈をふまえながら、さらに創造的な解釈と生の経験を通して、浄土経典の真意を明らかにすることで成し遂げられました。
どういうことかというと、如来のはからいが本願として結実し、その成就の経緯を私たちの人生の中で学ぶことによって、仏心が種となって我が心に植えられ、根を張り、深い心によって行者のはからいが破られ、破られると同時に真の仏果が既に用意されていることに気づくのです。
[浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは? (#二種類の菩提心)] 参照
以下、少し長い引用ですが、五十二位の詳細と本願力の関係を示す文ですので、じっくりお読みいただき、「浄土が念仏者を通して、自己と相手と社会を成就する本願力廻向の菩提心」についてお味わい下さい。
人間教育はものを教えることに先立って、子供の心の中に精神の驚きを発こさせることです。わしは今まで何をしておったんだ、わしのしていることは、これが自分にとって何になるのか、わしは今まで自分は人間だと思っていたが、果してこれで人間といえるのだろうかという、自分のしていることに対して疑いを懐き、自己の在り方を根底からくつ返す、そういう心を発こさせることでしょう。仏教ではその心のことを、菩提心といっているのです。
大乗仏教はこの菩提心を非常に大切にするのですが、どうしたら菩提心が生まれるか、またどうしてそれを育てるか、そういうことを問題にしています。まず菩提心が発こる要件の第一に挙げられるのは、良い人に遇うことです。私もこういう人になりたいと、惚れることのできる人、尊敬できる人に遇うことです。そういう人のことを善知識といっていますが、その善知識に遇えたということが、仏道のすべてであるとさえ極論しています。
ここで問題になるのは、第二の人格の問題です。あの先生は、顔を見るのも嫌いとなったのでは、教育になりません。自己と自然の問題を問題にしていた、原始仏教や初期の大乗仏教では、問題にならなかった顔や人相が、人間関係が問題になった後期の大乗仏教では、大きな問題になってきています。教育者にとってはなおさらでしょう。
<中略>
何を教えるにしても、教えに先立って、教師の人格が問題です。どんなよいことを言っても、言う人の人格が、相手に信頼されていなかったら、何を言っても聞き入れてはくれません。その智慧と徳を身につけた人格を、五十二段の仏といっているのです。これは大乗仏教でいう仏です。このことはすでにお釈迦さまの上にも問題にされています。「・・・いくら尊い仏法を説いても、うそを言った口で説いたのでは、決して人は心からお前を尊敬して、法を聞いてはくれないよ。法は説く人に依って弘まるものである」と、経には説かれています。
○
今のお話の中に、お尋ねしたいことが一ぱいあるのですが、その仏の位を五十二段ということは、よく聞いているのですが、どうして仏の位を五十二段というのでしょうか。
△
それです。それを本気で問題にした人がいないのです。私も仏法を聞き始めた少年時代に、それが不審でなりませんでした。この五十二段の内容が解れば、今日真宗で問題になっているいろんな問題の大半は、ひとりでに解けると思いますから、話は何かうわすべりして進むようですが、できるだけかんたんにお話して見ましょう。
五十二段というのは、仏になっていく順序を示したものですが、それはそのまま仏とはどういうものかという、仏の内容を明らかに教えようとしているのです。 したがって五十二段は仏のことだけではなく、人間に段級をつけているのです。剣道や碁に段級をつけているように、さっき仏性と人間の関係でお話したように、仏教では人間を大きく分けて、迷いとさとりとして、迷っている人のことを、凡夫とか畜生といい、さとった人を仏というのです。そして迷いからさとりへ向かう道中の人を菩薩といって、その中をまた退転の菩薩と不退転の菩薩に分けています。迷うている人は、五十二段の中へは入れません。菩薩から数えるのです。第五十二段を仏として、五十一段までが菩薩です。その中 初段から四十段までは退転の菩薩ですが、それを十づつ、信・住・行・廻向と、四位を設けています。それでそれを十信・十住・十行・十廻向と、呼んでいます。四十一段から五十一段までが不退転の菩薩で、十地と呼んでいます。第五十一段は別にあるのではないのですが、学年にも一学期・二学期・三学期と分けているように、各段に入住満の三位を分けています。最後の第五十段の第三学期に当る満位を、仏と紙一重というので、仏のことを正覚といいますから、仏とひとしいということで、等正覚というのです。
菩薩の初めの十段を「信位」というのは、自己を信じて、自己を人間として成就してゆこうと、人生に希望を持って、願いに生きる位であるからです。信とは愛とか希望とか、真実とか徳とか願いのことといわれています。信に十段を分けるのは、自覚の程度に浅い深いがあるからです。たとえば初めから自分は尊いものであると、対自的自覚にはなりません。初めは尊敬することのできる人に遇うて、私もあの人のようにないたいという形で、仏性に火がつくのです。りっぱな人間になりたいという願いの中には、無意識ではあっても、即自的に自分を信じているのです。自分はだめだと思ったら、願いは発こって見ようがないでしょう。その信心のことを菩提心といい、この心の発った人を菩薩というのです。
それではその菩提心がどうしたならば育ち、花を開かすことができるか、それには肥しが要ります。人間はたとい人間として生れても、人間としての教育を受けなかったら、人間にはなれません。その証拠は「狼少女」です。その肥しは解と行と廻向の三つとされています。第一の「解」とは、解ること、学問することです。
○
学問が要るのですか。
△
救済の宗教や出家仏教には、要らんでしょうが、人間を成就するためには、どうしても学問しなければりっぱな人間にはなれません。
○
どんな学問をするのですか。
△
人生勉強です。自己が解り、人生が解ることです。経には仏のことを世間解といっています。正しい人生観を有たねば、りっぱな人間にはなれず、人間として生きることができません。それがためには人生の経験者、それも賢い人、さとった人の教えを聞くことです。さっきの教育の問題がここに出てきます。この位を資糧位と呼んでいますから、今日でいえば、高等学校までの教育だと思えば間違いないでしょう。高等学校までの教育は、人間として生きてゆくために必要な、人類が永い歴史の間に、築きあげたあらゆる文化を教えるのが目的でしょう。しかしこの解は、たんに知識を学ぶだけでなく、それによって本来種として有っている仏性を開花させるためです。この位を住というのは、人生が解ることによって今までいたずらに明かし、いたずらに暮していたり、自分の置かれた場所から逃げたい、自己を嫌悪して自己から抜け出したいという心が薄らいで、私であてよかった。ここを外にして私の生きる場所はどこにもなかった。ここが私にとっては一番尊い、有難い場所であったと、生活の大地に足がつくからでしょう。
第二の「行」とは、やって見ることです。習った知識も、自分でやって見なければ、自分のものになりません。借りものではだめです。人生を自分の眼で見、自分の手で触って見、自分の足で歩いて見なければ、人生が自分のものにならず、本当の力は出てきません。
第三の「廻向」は、私とあなたという自他の人間関係のことです。それもたんに上下の関係ではありません。教えてやるという態度では、知識的なものでも相手はついて来ません。まして人間であることの人格はなおさらでしょう。相手を育てることによって、相手から自分が育てられる、自利利他の菩薩行とはこのことです。その道の知識においても、また人間としての人格においても、周囲から尊敬され信頼されていなかったら、私の行動は無碍にはなりません。絶えず横槍が飛んで来たり、落とし穴にはめられて、傷だらけになるより外はないでしょう。こうして智慧と徳を、一生かけて身につけ、人間としての花を咲かせてゆくのです。これを加行位といっています。
ここまでが四十段で、退転の菩薩です。これは信心がまだ不純で、理想主義から抜け切っていないからです。真宗でいう自力とは、理想主義のことです。理想主義は菩提心がまだ即自的で、今現に自己に働いている菩提心がどういうものか、菩提心そのものへまだ眼がついていない段階のことです。
四十一段からが不退転の菩薩です。この位を「地」といっていますが、それは生活の大地に足がつくだけでなく、自己の立っている大地、菩提心そのものを根源から支えている浄土が自覚され、浄土そのものが信・解・行・廻向の菩提心となって、自己を現わし証明していたことに眼ざめた位をいうのです。今まで理想として彼方に、背伸びをして求めていたものは、すべて自らの魂の根源にあって、自らを動かしていた根源的主体であったことをさとるからです。ちょうど蓮は花が開けば、実はすでに内に宿っているようなものです。親鸞聖人はその感動を「心を弘誓の仏地に樹てる」とか、「不可称不可説不可思議の、功徳は行者の身に満てり」と言い現わしておられ、それを「本願の廻向」といわれるのです。これを見道位といっていますが、それは人生の真実が解ったからです。
この初地から五十一段までを十地といっていますが、その修行は「さとった後の修行」です。「信は道の元、功徳の母」といわれて、日々出会う人毎、出会う一つ一つの事件を縁として、内に宿っている無限の功徳を、外に花と開かすことです。桜が桜の花を咲かし、すみれがすみれの花を咲かすように、私が私の血の中に宿っている、命の花を咲かす道行きを明らかにしたもので、これを修道位といっています。その花が咲き、実となった人のことを、「仏」といって、これを究竟位としているのですが、私は仏とは、人間が人間としての本当のおとなとなることだと思っています。したがって仏は人類の永遠の理想で永遠に実現することはないでしょう。しかし「未完の完成」ともいわれているように、真実の願いの中には、常に成就が内に現成されてあるのです。こうした大乗仏教が理想とした五十二段の内容が解かれば、今闇中模索されている仏教的人間像もかんたんに解明されると思います。
しかし、この大乗仏教が理想とした人間像を、まだ不完全なものである。それは人生観の認識不足からくる誤りである、という仏弟子が現われて来ました。その人たちによって説かれた経典が、私たちが育てられてきた浄土の三部経です。
○
ええッ私たちは五十二段の仏といえば、もう手も届かん、雲の上のさとりのように聞いてきましたが、どこが足らんのでしょうか。
△
大乗仏教が問題にしているものは、私とあなたという人間関係においての自己です。それもその関係を自己が他を教育するという上下の関係で捉えていて対等な対人関係が問題になっておりません。その上今日では環境が大事ということは、一般の常識ではありませんか。それに大乗仏教徒には、まだそれが問題になっていません。それでは環境社会が、全く見えていないのかといえば、人間の成就と共に社会を浄めることを理想としているのですから、うすうすは社会が見えていたに違いありませんが、それはまだ人間が浄めるものであるという立場で、理想として求めているのであって、すでに出来あがった社会が人間を造るものであるということが、はっきり見えていなかったようです。その足らん所を補い、仏教の伝統精神を身につけて、生まな歴史現実に立って、それらの原始仏教、大乗仏教を根本的に見直し、批判し分析して、さらにそれを再構成して生まれたものが、浄土の三部経であり、特に『大無量寿経』であります。そこに説かれている「四十八願」は、大乗仏教が理想とした五十二段の仏を踏まえて、さらにそれを浄土教の立場で、人間の理想像と、その生きる道を、具体的に明らかにしたものです。
<中略>
一口に菩提心といっても、その中には、小乗の菩提心、大乗の菩提心、浄土の菩提心があります。小乗仏教は、出家仏教で、家を捨て欲を捨てて、世間を出る宗教ですから、その菩提心は解脱心と呼ばれています。生死解脱とか、苦悩を解脱するとかいわれるものです。大乗仏教は、出家仏教のように、「そこから」解脱する宗教ではなく、「そこにおいて」自己を成就する在家仏教で、自覚自証をモットーとしています。在家にあれば当然人間関係が問題になります。そこで「自覚と覚他」とか、「自利利他」との二面をもつものとされています。「願作仏心」とは、まず自分が心の眼を開いて、人間としての徳を成就しようとする心のことですが、今の言葉でいえば、人間としての人格を完成して、本当のおとなになりたいと願う心のことです。「度衆生心」とは、相手の人にも心の眼を開いて、おとなになってもらいたいと願う心のことです。その自利利他を願う菩提心の成長してゆく相を五十二段に分け、その成就を仏といっているのです。
ところが親鸞聖人は、ご自身の信心を「浄土の菩提心」と呼んでおられるのです。くわしいことは今は略しますが、浄土が働きかけてくる菩提心ということでしょう。浄土が念仏者を通して、自己と相手と社会を成就する本願力廻向の菩提心のことと思います。その浄土の菩提心の働きに往相と還相の二面があり、その行と成就の内容を具体的に説かれたものが、四十八願です。
島田幸昭 著/能登印刷出版部 『仏教開眼 四十八願』五十二段の仏 より
(※参照:{正定聚・不退転の菩薩について})
体失往生すると同時に大般涅槃を得るってなんですか。
というご質問についてですが、「体失往生」とは、肉体の死を待って臨終において往生することをいいます。しかし親鸞聖人はこれを、「自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず」([資料3▼] 参照)と厳しく批判され、「不体失往生」を勧められました。
「不体失往生」とは、肉体を失うことなく往生する、つまり生きている間に、聞法求道することで如来のはからいによる真実信心を得て、「ただちに、時を経ることも日を置くこともなく、正定聚の位に確かに定まる」という「即得往生」のことです。
([資料4▼] 参照)
「体失往生すると同時に大般涅槃を得る」という場合の「涅槃」は、実は聖人の批判された「臨終往生」を前提とした教えにつながってしまう懸念がありますので、気をつけてほしいと思います。なぜなら、「体失往生」は「涅槃」の理解が部派仏教の段階の消極的なもので、「灰身滅智」という<肉体も煩悩も滅無した境地>を究極とする思想から抜け出ていないからです。ここに安住してしまっては、せっかくの浄土の徳が絵に描いた餅になってしまいます。
大乗仏教では、涅槃の四徳(常・楽・我・浄)([往生論註の「願生」について] 参照)として、智慧により生死の迷界にとどまらず、しかも大慈悲がはたらくゆえに迷界に入り一切衆生の済度をはかり涅槃の境地にとどまらない(無住処涅槃)のです。ですから、部派仏教の涅槃は「有為涅槃」、大乗仏教の涅槃は「無為涅槃」と呼ばれています。
無為涅槃の智慧の面も慈悲の面も、臨終往生では功徳が発揮できません。如来の功徳はあくまで行者を通して発揮されるのですが、死後ではその機会を失います。たとえ遺徳といえども、それは生きている時の行状を縁としてしかうかがえません。そのためには、どうしても現実において往生をかなえ、人格を円成し、社会を浄め、歴史を創造してゆかなければなりません。正定聚に住し、如来の徳を身につけ、還相の菩薩として功徳を発揮するのです。五十二段の位はその過程をあらわしたものでしょう。
浄土教以外の大乗仏教では、この往生を自らの修行の功徳で成し遂げようと努力しましたが、時節もあり、とても往生はかなわず、挫折する人も多かったのですが、親鸞聖人はいよいよ時を得て、浄土より回向された功徳を身に満たすことで、これを果す道を明らかにされたのです。浄土の徳により、誰でも往相の菩薩のまま還相の菩薩としてのはたらきに参画することができるのです。これは往生の因の中に既に仏果が含まれていることから可能なのです。そしてその要[かなめ]となるのが「真実信心」とか「信楽」・「浄土の菩提心」と呼ばれる「如来のいのち」であり、このいのちが量り知れないので「無量寿如来」とよび、このはたらきが量り知れないので「無量光仏」とよび、また「無碍光仏」とよび、「無辺光仏」・「無碍光仏」・「無対光仏」・「焔王光仏」・「清浄光仏」・「歓喜光仏」・「智慧光仏」・「不断光仏」・「難思光仏」・「無称光仏」・「超日月光仏」と、如来の功徳を具体的な名によって称えさせていただく訳です。
また、この如来の名のりを依りどころとし、自らの人生に添っていただく領解を「南無」といただき、機法一体の「南無阿弥陀仏」として念仏を称えるのです。つまり、わが身や自分の理解を依りどころとするのではなく、あくまで如来の先手であることが肝心なのです。
([必至滅度の願] 参照)
「修行もしないでさとりは得られるのですか」
というご質問ですが、これは [はからいを捨てることは求道心も捨てること?] を参考にして下さい。簡単に説明しますと、如来の願いを聞き開いてゆく過程において、雑毒の混じった自力の求道心が捨てはてられ、如来よりふりむけられた限りない求道心を得るのです。
おそらく傍目から見れば、他力の信を依りどころとして生活している人の方が、より頑張っているふうに見えるでしょう。しかし本人は歓喜とともに努力しますので、生き生きとして自力の力みがありません。
ただし、心は仏地に樹てられていますが、凡夫の身は仏果を得るには育ちを待ちます。ですから、「自力の力みが残り、迷いに迷うわが身」を長く見ることになり、慚愧・懺悔は一生の勤めとなります。逆に言いますと、「自力に迷うわが身を見ることができた」という眼が、心を仏地に樹て得たことの証拠でもありますので、慚愧は喜びの内に為されます。
親鸞聖人の深い慚愧・懺悔はまさにこの仏地より果されたものでしょう。そして同じ信心が私の内にもはたらいていることを確認させていただくことが、懺悔とともに歓喜の味わいとなっていきます。
親鸞と蓮如の教えってちがう気がするのですが、どうなんでしょう。
このご質問については、様々な面から検討する必要はありますが、まず結論だけ申しますと、肝要としての信心、つまり「如来回向の信心」という中心軸は同じです。しかし、教学の展開の仕方は異なっています。ですから、「ちがう気がする」というご感想は、必ずしも間違いであるとは言えません。しかしこれは教えの違いではなく、立場の違いとみるべきでしょう。親鸞聖人は一生求道者としての歩みを続けていかれましたが、蓮如上人は教団組織を背負いながら如来の功徳を混乱させないように説く必要がありました。
この「信心の共通性」と「教学の展開の違い」については、源空(法然)上人と親鸞聖人の違いについて述べてから検討してみると理解しやすいかも知れません。
源空上人は、<とにかく凡夫の往生できる道>を具体的に探り、できない道を捨てて念仏一筋に帰されました。実用主義と申しますか実務家肌のところが特徴です。例えば、[念仏の止住] を見てもらうと、そうした面が如実に表れていまして、「菩提心の行相を説いてはいない」ということで菩提心さえ捨て、「念仏を称える」ということに徹していかれます。
乱暴な表現になりますが、<とにかく念仏を称えることを中心に生活しなさい、それ以外の行、例えば智慧も持戒も菩提心も慈悲も、あらゆるの補助の行も往生の妨げになる>というような過激な指導です。当時の仏教界の反発は必至でしょうが、そう説かざるを得ない仏教界の有様や社会状況があったと考えられます。いわば宗教界における革命であったわけです。
今、源空上人の書を読むと、その当時の権力者サイドからの反発が思い起こされますが、同時に、おそらく上人の周りでは、その人徳と明確な指示にひかれ、社会秩序から捨て置かれた民衆の圧倒的な支持があったのだろうと推察されます。
ところで、親鸞聖人は念仏弾圧の後、越後、関東に赴かれますが、その過程で、源空上人の教学に様々な問題点を見出されたようです。そしてこの問題点を解決するため、曇鸞大師の『往生論註』を中心にすえて教学を立て直されたのです。それまでの日本における浄土教の中心は善導流で、源空上人もその流れを受けていましたが、親鸞聖人は、「綽空」・「善信」から「親鸞」とあらためられたことからも明らかなように、天親菩薩・曇鸞大師を中心に教えを練り直されました。
ただし、究極最高の行として念仏を選択することはそのまま引継がれますし、源空上人への尊敬と恩義は生涯をかけて謝し尽されます。それは上人の教説を間近で見聞きし、その姿の中に如来回向のはたらきを感じられていた聖人の、溢れる思いが報謝となったものでしょう。
源空上人は、現実に目の前にいる人々を救うことに専念されてみえましたので、著述に関わる時間は少なく、言い尽くされていない点も多々ある。だからこそ、親鸞聖人は後半生は著述に非常に熱心でした。そしてその特徴は、先師とは逆であらゆる経論釈との結びつきの上に『大無量寿経』を理解します。特に『涅槃経』と『華厳経』の引用によって、これらの経典の方向性の究極に浄土経典が成立していることを明らかにされたのです。そして、行動面・本質面ともに名号に込められた仏意を念仏の声とともにたずね、聞き開いて受け取ることが肝心であると示されます。
特に上人が捨てられた(と誤解されやすい)菩提心を教学の中心にすえ、そのはたらきが自分の側ではなく、如来の側からの呼びかけによるものであると見抜かれ、その内容を問い、真実であるか否かを問題とされました。ですから、念仏をとなえさえすれば良し、とされていた教えを、念仏の中身や行の真実性を問われたのです。そして自力の念仏や自力の行を雑行として遠ざけられ、本願に源流をおく念仏や行を正しい行として勧められたのです。
ところで、一般的に親鸞聖人の教えとして理解されている『歎異抄』ですが、これは聖人の教えというより、源空上人の教えが多分に入り混じった中途半端な内容ですから、混乱や誤解を受けやすいところがあります。親鸞聖人の至った境涯は、『顕浄土真実教行証文類 (教行信証)』に全て顕れていますので、こちらの方を中心に学んで下さい。
次に親鸞聖人と蓮如上人の相違点ですが、先にも記しましたように、蓮如上人は教団の基礎を固められ、参集された大衆に誤解の起こらないように教えを説く宿命を背負ってみえました。親鸞聖人の著述を読み尽くされた蓮如上人ですが、実際に学の無い人々を目の前にすれば、百のものを十に、十のものを一にして「肝要のことをやがて(すぐに)しり候ふように」せざるを得ません。蓮如上人はまさにこの努力に生涯をかけられたと言っても過言ではありません。
一、『御文』のこと、聖教はよみちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり、『御文』はよみちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。
『蓮如上人御一代記聞書』53
▼意訳(現代語版 より)
御文章について、蓮如上人は、「お聖教というものは、意味を取り違えることもあるし、理解しにくいところもある。だが、この文は意味を取り違えることもないだろう」と仰せになりました。わかりやすく書かれた御文章は、お慈悲のきわまりです。これを聞いていながら、信じ受け取ることのできないものは、仏法を聞く縁がまだ熟していない人なのです。
「この文は意味を取り違えることもないだろう」ということは、実は宗教における最も危険な罠、「教えの固定化・実体化」にさらされる可能性もある、ということも同時に述べなければなりません。宗教の本質はひとことでは言えないし、論理的に選択を進めれば到達できるという境涯ではありません。むしろ、ひとことで本質を説明できるものや、論理の積み重ねだけで到達するような境地は偽物であるわけです。
仏教を学ぶ人の中に、「もっと教えをはっきり断言して述べてほしい」と言われる方もありますが、様々な言い回しで<言い回しだけでは表現できない本質>を、相手の機に乗じて説くわけです。もちろん、よく教えを理解していない為に不明確な表現を取る人もいますが、そうではないすぐれた内容の教説も同様に見られてしまう場合もあります。単純明快さを求めて教えを固定化した段階では、それは仏法ではなくなってしまいます。
仏教では、経典自体にその罠を避ける勧めがありますので、比較的容易に罠を避けることが可能ですが、単純な教えを是とするような教学を展開するのは危険極まりないことです。教条主義は宗教の病といえましょう。宗教戦争はこの病から起こります。
一方、蓮如上人のお言葉は、明確でありながらも単純ではありません。宗教の危険性に気付かれ、実体化・固定化を避けてみえます。教学の展開方法は違いますが、親鸞聖人・蓮如上人ともに同様の要[かなめ]をおさえてあるのです。そしてその要を中心に扇のように人生を展開されていかれた様は、念仏の功徳がもたらした結果であると考えることができるのです。
一般的に、親鸞聖人と蓮如上人の教えの相違を見るとき、前述した『歎異抄』と、『御文章』・『蓮如上人御一代記聞書』の比較である場合が多いのですが、これは源空上人との比較になってしまいます。
少し時間はかかりますが、『顕浄土真実教行証文類 (教行信証)』との比較を試みれば、依りどころの共通性は理解できると思います。また近年は、蓮如上人指導による「真宗相伝叢書」も刊行されていますので参照してください。
さらに、そうした立場の相違点を踏まえ、次は私たちの問題となります。私は親鸞聖人でも蓮如上人でもありません。立場も時代も社会も違います。仏教の大河の流れの中、如来回向の菩提心を受け継ぎ、いよいよわが身をもってその展開に参画する時でしょう。それが、如来とともに仏法を私まで述べ伝えていただいたご縁に報いる行であります。
『佛教語大辞典』東京書籍 より抜粋
『真宗新辞典』法蔵館 より抜粋
〔智論〕:大智度論(竜樹)/ 〔論註〕:浄土論註(曇鸞)/ 〔浄讃〕:浄土和讃(親鸞)/ 〔信〕:顕浄土真実信文類(親鸞)/ 〔末讃〕:正像末和讃(親鸞)/ 〔末灯〕:末灯鈔(従覚偏)/ 〔大経〕:無量寿経/ 〔観経〕:観無量寿経/ 〔銘文〕:尊号真像銘文(親鸞)/ 〔化本〕:顕浄土方便化身土文類本(親鸞)/ 〔定義〕:観経四帖疏・定善義(善導)/ 〔序義〕:観経四帖疏・序分義(善導)/ 〔行〕:顕浄土真実行文類(親鸞)/
有念無念の事
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。
また正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散心の行人の正念あるべし。この二つの正念は他力のなかの自力の正念なり。定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。
選択本願は有念にあらず、無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつきていふことなり。無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。浄土の無念は聖道の無念には似ず、またこの聖道の無念のなかにまた有念あり、よくよくとふべし。
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小・権実の教あり。釈迦如来の御善知識は一百一十人なり、『華厳経』にみえたり。
南無阿弥陀仏
建長三歳辛亥閏九月二十日
愚禿親鸞七十九歳
『親鸞聖人御消息』(1)
▼意訳(日本の名著6 親鸞/中央公論社 より)
有念無念ということ。
いまわのきわに浄土からのお迎えがあるということは、さまざまな善行を積んで浄土に生まれようとする人のためにあるのであって、それは、その人が自力をたのむ人だからです。また臨終を待つということもさまざまな善行を手だてとして浄土に生まれようとする人にあてはまることで、それは、その人がまだ真実の信心をえていないからです。またそれは、十悪や五逆の罪を犯した人が臨終にはじめて正しい友(善知識)の導きに遇って、念仏を勧められる場合にいう言葉です。真実の信心をえた人は阿弥陀如来のお心に救い取られて捨てられませんから、浄土に生まれる(正定聚)身となっているのです。ですから臨終を待つ必要はなく、お迎えをたのむこともいりません。信心の定まるとき、浄土に生まれることも定まるのですから、お迎えの儀式を要しません。
正念といいのは、広大な誓いを信ずる心の定まることをいいます。そしてこの信心がえられることによって、かならずこの上ない仏のさとりに至ることができます。ですからこの信心を一心といい、この一心を金剛不壊の心といい、この金剛不壊の心を仏に与えられたさとりの心といいます。これこそはすなわち他力のなかの他力であります。
また正念ということについて二つの正念があります。一つには心静かな三昧にはいっている人の正念、二つには三昧にはいってない人の正念であります。これら二つの正念は他力のなかの自力の正念であります。すなわちこの三昧にはいって行なう善と三昧にはいらないで行なう善とは、さまざまな善によって浄土に生れようとするものにほかならないのです。ですからこの善は他力のなかの自力の善であります。この自分の能力をたのみとしている人はお迎えをまたないでは、浄土の辺地や胎生、あるいは浄土にほど遠い懈慢界にすら生まれることができません。ですから、弥陀は第十九のお誓いに、さまざまな善行を浄土に生まれるために回らしさし向けて、そこに生れようと願う人の臨終には、わたしが姿を現わして浄土に迎えよう、とお誓いになったのです。臨終を待つこととお迎えによって浄土に生まれることとは、この三昧にはいって善を行なう人と三昧にはいらないで善を行なう人のいうことであります。
弥陀が選びぬかれた本願の念仏は、有念のものでも無念のものでもありません。有念とはすなわち色や形を心におもうことであり、無念というのは形を心にかけず、色を心におもわず、念ということさえないことをいいます。これらはまったく聖道の教えであります。聖道というのは、すでに仏となられた人がわたしたちの心を勧め導くためにひらかれた仏心宗・真言宗・天台宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教えであります。ここで仏心宗というのは、いま世にひろまっている禅宗がこれであります。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教や小乗などの教えもそれで、これらはみな聖道に導く教えであります。権教というのは、すなわちすでに仏となられた仏や菩薩が仮にさまざまお形を現わしてお勧めになるので、権教というのです。
浄土宗にもまた有念・無念の二つがあります。有念は三昧にはいっていないという意、無念は三昧にはいっているという意であります。しかし浄土の教えでいう無念は、聖道でいう無念とは違います。またこの聖道でいう無念のなかにも有念のものがあります。これらはよくよくその道の人に尋ねてください。
浄土宗の教えに、真実のものと、仮のものとがあります。真実のものというのは選びぬかれた本願であり、仮のものというのは三昧にはいることと三昧に入らないで行なう善との二つであります。そしてこの選びぬかれた本願は浄土の真実の教えであり、三昧にはいることと三昧にはいらないで行なう善との二つは方便の仮の教えであります。浄土の真実の教えは大乗のなかの至極であります。方便の仮の教えのなかに大乗と小乗、権教と実教とがあります。最後に釈迦如来が教えをうけられた師は百十人であります。『華厳経』にみえています。
南無阿弥陀仏
建長三歳辛亥閏九月二十日
愚禿親鸞七十九歳
「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。
『一念多念証文(一念多念文意)』2 より
▼意訳(現代語版 より)
「即得往生」というのは、「即」は、「すなわち」ということであり、時を経ることなく、日を置くこともないという意味である。また、「即」は「つく」ということであり、その位に確かに定まるという言葉である。「得」は得なければならないことをすでに得たということである。真実の信心を得れば、ただちに無碍光仏はそのお心のうちにその人を摂取して決してお捨てにならないのである。「摂」はお摂めになるということであり、「取」は浄土へ迎え取るということである。摂め取ってくださるとき、ただちに、時を経ることも日を置くこともなく、正定聚の位に確かに定まることを「往生を得る」と仰せになっているのである。