還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 13

念仏の止住

【浄土真宗の教え】

 念仏の止住

我滅度之 復生疑惑 当来之世 経道滅尽 我以慈悲哀愍 特留此経 止住百歳 其有衆生 値斯経者 随意所願 皆可得度

『仏説無量寿経』 巻下 流通分 弥勒付属 より

現代語訳:
わたしがこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。やがて将来わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう。

法然上人は、この経言について註釈され 「末法万年の後に余行ことごとく滅し、特に念仏を留めたまふ文」(選択本願念仏集)とのこされ、あらまし次のように釈されている。

「《特留此経 止住百歳》の『止住』は念仏の止住である。なぜならば、この経に菩提心を説いているが、菩提心の行相を説いてはいない。
 また持戒の言葉はあるが、その行相は説かれていない。しかし菩提心の行相は『菩提心経』など広く説かれている。もしこの経等が滅しなくなったら、どのように菩提心の行を修行できるというのか。
 また、持戒の行を説くことは大小の戒律に広く説かれている。もしもこの戒律が先に滅したら、持戒の行をなんに依って修することが出来ようか。その他の行もおなじことである。
 だから、善導大師は『往生礼讃』のなかで
 《万年に三宝滅しなば、この経(無量寿経)住すること百年あらん。その時に聞きて一念せん。みなまさにかしこに生ずることを得べし》といわれている。
 この経のなかにすでに弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)を説かれているが、他の経にはいまだ阿弥陀如来の念仏往生の本願は説かれていない。だからこそ、お釈迦さまは、殊にこの経を特に留めようと仰せになったとである」 云々。

*「百歳」の「百」は、数字の百ではなく、永き世のことを示す。

像末五濁の世となりて
釈迦の遺教かくれしむ
弥陀の悲願ひろまりて
念仏往生さかりなり

『正像末和讃』 18


如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

『正像末和讃』 59

[釈勝榮/門徒推進委員]

 編集註

 註釈で<*「百歳」の「百」は、数字の百ではなく、永き世のことを示す>とあるが、これには当然異説もあり、文字通り「百年」という意味で、これは「人間一生の時間」を指す、という解釈である。ただし常識的に人間一生分の長さを言うのではなく、「あらゆる人にとっての一生」ということである。
 つまり、「経道滅尽」=「将来、経道がことごとく滅した時」とは、言わば要となる仏教者や教団の導きが得られない場合や間違った指導をした時、また武力・権力等によって社会的に仏教が否定的な状況に置かれた時。
「特留此経 止住百歳」=「特にこの経を留めて 止住すること百歳せん」とは、無量寿経の示す道だけがそうした悪条件をのり超え、個々の人生に一生を通じて念仏が直接はたらき、迷いを離れた人を起点に社会に新たな展開を始める、と解するのである。つまりこれは、「念仏者の自律が問われる言葉」という領解になり、例えるなれば、念仏が弾圧された後の親鸞聖人や、比叡山の圧力をはねのけて布教された蓮如上人の姿と重なるのではないだろうか。

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