平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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次のところはかねてから気になっているところであります。おたずね致しますのでお教えください。
教行信証 行文類二 大行釈引文類「註釈版」157頁〜、同現代語版49頁〜
に以下のようにお示しいただいております。
そして「願生安楽国」はどうして作願門となるか」について「天親菩薩のおこころである。」として次のように註釈されている。
*「大乗の経論には《衆生は究極のところ無生であって虚空のようである。》と説かれているのにどうして天親菩薩は《願生》と言われたかと言うと、《一つには凡夫が実体と思っている『衆生』や実体と考えている『生死』は、本来存在せず、実体がなく、虚空のようなものだということである。
二つには、あらゆるものは因縁によって生ずるのであるから、もとより実体として生ずるのではなく、そのように実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。
天親菩薩が『願生』(生まれようと願う)といわれたのは因縁によって生ずるという意味でいわれているのであり、因縁によって生ずるのであるから仮に『生まれる』というのであって、凡夫の考えるように実体としての衆生がいて、実体として生まれたり死んだりするということではない。」
註*《無生》・・「大乗の空観では、生滅変化しているように見えるのはにんげんのあやまった所産に過ぎない」と考える。これに対し「小乗の考え方は一切万物が生滅して無常である」とする。
*「どういう意味で《往生》と説くのか。」
「答えていう。この世界で仮に人と名づけられるものが五念門を修める場合、前後は因果相続する。この世界の仮に人と名づけられるものと、浄土の仮に人と名づけられるものとは、まったく同じであるとも、まったく異なっているということもできない。往生する前の心と往生した後の心との関係もまた同じである。なぜかといえば、若しまったく同じであるなら、因果の別がないことになり、まったく異なっているなら、相続していないことになる。天親菩薩が《往生》ということを説かれているのは、この不一不異の道理に立つものである。」
願生偈には「往生」の語は偈文の最後のくだりに次のように示されて いる。
我願皆往生 示仏法如仏 我作論説偈
願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国
この「実体のない生死であり・衆生である」ということ。また「因縁によって生ずるのだから、もとより実体として生ずるのではない」、「因縁によって生ずるのであるから《仮に生まれる》という」 というお示しのところは、その次の「往生」についての御釈とともに大変わかりにくいところがあります。 私はノートに次のように考えて見たのですが、またこんな逃げをうったうわべの理解で良いとは思えず、お尋ねした次第です。
《前述の註釈文は非常にむつかしいが、阿弥陀仏は一切衆生の浄土往生を願われている。その阿弥陀仏のはたらきは、尽十方无碍光という智慧の相であり、衆生はそのおいわれにかない如来の名号によって仏をほめたたえ、心から信順し帰命する。今ここに生かされている衆生(わたし)は、如来の十二光を蒙るという縁をいただいている身であり、如来に信順し帰命するその身はかならず浄土に生まれてさとりを得て仏となることが約束されている。
浄土に生まれることも、この世での生を終わることも、「実体をともなった生死、生滅」ではないかもしれないが、また人の生滅が仮の姿であれ、また往生した自分も、する前の自分も同じでないかもしれないが、阿弥陀仏の光の中で因果相続されて、この世においても、またかの土においても仏の慈悲の中に生かされていることになるのではないか。》
以上のようなことでありますが、あらためて上記の「往生論註」の下線部分についてどのように理解をすれば良いのかお教えください。
ご質問の内容が非常に高度で、また「こんな逃げをうったうわべの理解」と謙遜されるような理解ではないと思われます。こうしたご領解をいただいて、こちらが勉強になるほどです。
ですから、メールに書かれたご理解の上に、蛇足ではございますが私の知る範囲で仏教のご縁を深めさせていただきたいと思います。
◆ 大乗仏教の基本は「常・楽・我・浄」の肯定
浄土真宗の理解で、まず考えなければならないのは、浄土教は大乗仏教の至極であり、決して部派(アビダルマ)仏教の延長線上にはないということです。ですから、ここでも「大乗経論のなかに」と、ことわりがあるように、質問の意図は大乗仏教の基本を踏まえてということになります。
例えば大乗経典の『大般涅槃経』は、部派・アビダルマ仏教の『大パリニッバーナ経』と同じ「釈尊の入滅前後を伝える」ことをテーマにしていますが、その顕れは大きく異なります。
一例をあげますと、『大般涅槃経・哀歎品』には、以下のようなことが出ています。
※ ※
釈尊入滅を目前にひかえて、比丘たちは、自分たちの到達した境地を釈尊に申し上げ指示を仰ぎます。「無我なるものを我と思い、苦を楽と思い、無常を常と思ってとらわれている私の顛倒を破くため、無我・苦・無常を観じ修得しました」と。
すると釈尊は、「それはよいことだ」とほめます。しかしまた、「それだけでは十分でない」とも言われます。
楽でないものを楽と思い、常でないものを常と思い、自我でないものを自我と思い、清浄でないものを清浄と思っているので、修行者は、苦相・無常相・無我相・不浄相を修するが、しかしまた、常なるものを無常と思い、我なるものを無我と思い、清浄なるものを不浄と思い、楽を苦と思っている間違いを指摘します。
ここでは有為の四顛倒と無為の四顛倒が語られ、常楽我浄の四顛倒は消極面では否定しますが、積極面ではそれを肯定します。現象の世界は、無常・苦・無我・不浄ですが、永遠の世界では、常・楽・我・浄であるということです。
そして「無我とは生死のことであり、我とは如来のことである。無常とは声聞・縁覚のことであり、常とは如来の法身である。苦とはすべての外道のことであり、楽とは涅槃のことである。不浄とはこの世界の在り方であり、浄とは仏菩薩の正法である」と不顛倒の境地を現します。
これによって釈尊入滅も現象面では諸行無常を示しますが、そのこと自体に如来法身が常住であることが示されているのです。
また、乳薬には毒もあれば甘露もあることを比喩に、我(アートマン)の存在を諭します。
「(如来は)大医王としてこの世に出現し、外教の邪医を調伏すべく、無我と教えたが、条件の調ったところで、また我(アートマン)が有ると教えるのだ。それは拇指(おやゆび)の大きさだったり、芥子粒ほどであったりするのではない。そのような我は存在しないから、如来は諸法無我を教えたのだ。しかし、真実には我がないわけではない。では何が真実の我であるのか。それは真実なるもの、常住・不変で衆生たちの主であり、依りどころたるものをさすのである」
※ ※
こうした「無我とは生死のこと」という大乗仏教の基本があるのに、「それなのにどうして天親菩薩は<生まれようと願う>といわているのであろうか」という問いが出されているのです。
◆ 浄土の因縁と「因果相続」
以上のことをふまえ、もう一度問題の文章の全文を読み直してみましょう。
問うていはく、大乗経論のなかに、処々に〈衆生畢竟無生にして虚空の ごとし〉と説きたまへり。いかんぞ天親菩薩〈願生〉とのたまふやと。
答へていはく、〈衆生無生にして虚空のごとし〉と説くに二種あり。一つに は、凡夫の実の衆生と謂ふところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。 この所見の事、畢竟じてあらゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとし と。二つには、いはく、諸法は因縁生のゆゑに、すなはちこれ不生にして、あ らゆることなきこと虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の 義なり。因縁の義なるがゆゑに仮に生と名づく。凡夫の実の衆生、実の生死あ りと謂ふがごときにはあらざるなりと。
問うていはく、なんの義によりて往生と説くぞやと。
答へていはく、この間の仮名の人のなかにおいて五念門を修せしむ。前念と 後念と因となる。穢土の仮名の人、浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定 して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。なにをもつてのゆゑに、もし一 ならばすなはち因果なけん、もし異ならばすなはち相続にあらず。この義一異 を観ずる門なり、論のなかに委曲なり。[顕浄土真実教行証文類 行文類二 大行釈 引文]【現代語版】
問うていう。大乗の経典や論書の中には処々に<衆生は畢竟無生で虚空のようである>と説かれている。 それなのにどうして天親菩薩は<生まれようと願う>といわているのであろうか。
答えていう。<衆生は無生で虚空のようである>と説くのには、二つの意味がある。 一つには、凡夫が思っている実体としての衆生や、凡夫の考えている実体としての生死のように、凡夫が実体と思い、考えているような衆生や生死というものは、本来存在しない。 それは、亀についている藻を見誤って亀の毛というようなものであって、実体がなく、虚空のようだということである。 二つには、あらゆるものは因縁によって生じるのであるから、もとより実体として生じるのではなく、そのように実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。 いま天親菩薩が<生れようと願う>といわれるのは、因縁によって生じるという意味でいわれているのである。 因縁によって生じるというのであるから仮に<生まれる>というのであって、凡夫の考えるように実体としての衆生がいて、実体として生まれたり死んだりするということではない。問うていう。どういう意味で往生と説くのか。
答えていう。この世界で仮に人と名づけられるものが五念門を修める場合、前後は因果相続する。この世界の仮に人と名づけられるものと、浄土の仮に人と名づけられるものとは、まったく同じであるということも、まったく異なっているということもできない。 往生する前の心と往生した後の心との関係もまた同じである。 なぜかといえば、もしまったく同じであるなら、因果の別がないことになり、また、全く異なっているなら、相続しないことになる。 天親菩薩が往生ということを説かれているのは、この不一不異の道理に立つものである。 この道理は論の中に詳しく述べられている。
ここで重要なのは、天親菩薩の<生まれようと願う>という言葉は、浄土の因縁を示しているということです。つまり阿弥陀如来が法蔵菩薩と名のり、誓願を起こし成就するという因縁果を示し、善知識の導きによって私のところまで至り届いて下さり、私が<浄土に生まれることを願う>ように仕向けられたのです。ですから、他の宗教の言う「輪廻転生」ではないということです。
これはたまに学者でも誤解している人がいて、親鸞聖人の言われる「往相回向・還相回向」を輪廻の思想に結び付けたがる人がいますが、ここではそのことを否定しているのです。輪廻の思想を借用しているかも知れませんが、意味が転換されているのです。この換骨奪胎を知らないと仏教が迷信化してしまいます。
そして<往生>の意味するところは、如来より振り向けられた信心によって、煩悩に無自覚であった私が自覚し、懺悔を通じて阿弥陀如来の活動に賛同する生き方に変えられるという意味においては「因果」があり、それでも煩悩を断じ尽くして全く別の清らかな人間になるのではないという意味においては「相続」もある。これが「前後は因果相続する」とか「不一不異の道理に立つ」という意味です。
ですから例えば、ご法話で「信心いただけばこのままで救いにあずかる」と聞かせてもらう訳ですが、言葉に甘えてしまうと「因果」がなくなってしまいます。このあたり妙好人の浅原才市さんは
ちがうことは言うじゃないと述べてみえますが、自然法爾のはたらきで生き方が転換されていくはずなんです。そうした意味では「不一」です。
このままとはちがいます
言葉はよいが胸に自力の根がのこる
しかし、それは全く別の人格になってしまうわけではなく、やはり「そのままの救い」なんです。そうでなければ「自己陶酔」や「洗脳」となってしまいます。たまに他宗で「私は信仰を持ってから、心が清く澄み、自分を超越して、他人を救い、徳が積まれ、どんどん運命が良くなり、ますます感謝してます。是非あなたも・・・」と、目をうるうるさせて訴える人を見かけることがありますが、こうした地に足のついていない状態が「自己陶酔」で、そう導くのが「洗脳」なのです。これは「他律的な自力」で、最も危険な状態と言えましょう。
聖道門でも、修行中に陶酔状態になることがあるそうですが、師匠はこれをたしなめ、喝を入れます。そうしないと所謂「野狐禅」になってしまうのです。また浄土真宗では、法座において皆の中に自分の領解をさらけ出しますが、これはそうした自己陶酔や洗脳を避ける意味もあるのです。ですから信心前後の仏性も、私と如来の関係も、断絶があるのではなく、ちゃんと「相続」している。元の自分とかけ離れたところを生きるのではなく、いま・ここにおいて、自分が背負っている心や歴史をそのまま担っていくことにおいては「不異」なのです。
日本における浄土教は、法然上人までは善導大師の解釈にとどまり、その大師が依り処とされていた根本まで尋ねることが少なかったようです。そのため、ややもすると外道の輪廻思想と混同される余地を残し、後世だのみに終始しがちだったため、他宗からの批判を受けてきました。
親鸞聖人は浄土教の根本にさかのぼり、曇鸞大師の『往生論註』を教学の中心に据え、天親菩薩の『浄土論』を読み解き、現世での阿弥陀如来の活動と私たちの関係をこと細かく明らかにされたのでした。浄土を浄土として願わしめて欣求させるものは穢土であり、穢土を穢土と示して厭離させるのが浄土であります。浄土と穢土は離れがたく不二であり、かつ不一であることを因縁果報で示します。
聖人がこうした不一不二の思想を重んじられたことは、単に教学の追求だけで為されたものではありません。ひとえに、生きる方向性を如来の本願に求め、特に未開の関東の地で、土とともに暮らす人々の中に自らを見出された時、現実に生きることの意味を法に問わずにはおられなかった。そうした中でこそ見い出された教えなのでしょう。
合掌
(参照:{往生論註})