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七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 18

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳雨功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【一八】
雨華衣荘厳 無量香普薫

 この二句は荘厳雨功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる。ある国土を見そなはすに、服飾をもつて地に布き、所尊を延請せんと欲す。あるいは香・華・名宝をもつて、用ゐて恭敬を表せんと欲す。しかも業貧しく感薄きものはこの事果さず。このゆゑに大悲の願を興したまへり。「願はくはわが国土にはつねにこの物を雨らして衆生の意に満てん」と。なんがゆゑぞ雨をもつて言をなすとならば、おそらくは取者のいはん。「もしつねに華と衣とを雨らさば、また虚空に填ち塞ぐべし。なにによりてか妨げざらん」と。このゆゑに雨をもつて喩へとなす。雨、時に適ひぬれば、すなはち洪滔 水漫ちて大し の患ひなし。安楽の報、あに累情の物あらんや。経にのたまはく、「日夜六時に宝衣を雨り宝華を雨る。宝質柔軟にしてその上を履み践むにすなはち下ること四寸、足を挙ぐる時に随ひて還復すること故のごとし。用ゐること訖りぬれば、宝地に入ること水の坎に入るがごとし」と。このゆゑに「雨華衣荘厳無量香普薫」といへり。

聖典意訳
 華衣の荘厳を雨ふらし 無量の香普く薫ず

 この二句を荘厳雨功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、衣服を地にしいて世尊を招きたいと思い、あるいは香花や名宝をもって恭敬の意をあらわそうと思うけれども、善業とぼしくその果報を感ずることもうすいものは、これらのことを果たしとげることができない。このゆえに大悲の願をおこされて「わが国土は、いつもこういうものを雨ふらして、衆生の意を満たせよう」と願われた。なぜ雨ということばを使われるかというと、恐らくまちがってとるものが「もし常に花や衣をふらしたならば、大空を埋めてしまうであろう。どうして妨げないのであろうか」というであろう。こういうわけで雨をもって喩えとしたのである。雨は適当な時に降れば大水の憂いはない。安楽浄土の果報に、どうして人の心をわずらわすようなものがあろうか。経(《大経》・《小経》)に説かれてある。
 「日夜に六度、宝衣をふらし、宝華をふらせる。そのものの質が柔らかで、その上をふめば四寸下り、足を上げるにしたがってまたもとどおりにかえる。用い終われば地面の中に入ることは、水が穴に入るのと同じようである」と。こういうわけであるから「華衣の荘厳を雨ふらし 無量の香普く薫ず」といわれたのである。


 器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうち「荘厳功徳成就」の詳細を観察します。具体的には、仏をお招きする場をととのえる浄土の功徳を観察します。

 仏を招くに値しない場

雨華衣荘厳 無量香普薫

 この二句は荘厳雨功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる。ある国土を見そなはすに、服飾をもつて地に布き、所尊を延請せんと欲す。あるいは香・華・名宝をもつて、用ゐて恭敬を表せんと欲す。しかも業貧しく感薄きものはこの事果さず。


▼意訳(意訳聖典より)
 華衣[ケエ]の荘厳を雨ふらし 無量の[かおり][あまね][クン]
 この二句を荘厳雨功徳成就[ショウゴンウクドクジョウジュ]と名づける。仏は因位[インニ]の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、衣服を地にしいて世尊を招きたいと思い、あるいは香花[コウゲ]名宝[メウホウ]をもって恭敬[クギョウ]の意をあらわそうと思うけれども、善業[ゼンゴウ]とぼしくその果報[カホウ]を感ずることもうすいものは、これらのことを果たしとげることができない。


<仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる>
(仏は因位[インニ]の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと)
「荘厳」(願)という言葉がでてきますが、荘厳功徳成就に相当する本願を観察しますと、まずは{衣服随念の願}において、裁縫や染め直しや洗濯が不要な、仏のお心にかなった尊い衣服をおのずから身につけている≠アとが願われています。また重誓偈の最後には「この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨らすべし」とあり(参照:『仏説無量寿経』8b(重誓偈2))、続いて永劫の修行のはじめには「天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず」とあり、華光出仏では「また風吹きて、華を散らして、仏土に遍満す」等々、浄土では無量の妙華を[あめふ]らすことで自然に供養することができるわけです。
 これは具体的にはどういう内容を言うのでしょう。以下、穢土と浄土の詳細を見ることで明らかにしていきましょう。

<ある国土を見そなはすに、服飾をもつて地に布き、所尊を延請せんと欲す>
(ある国土をみれば、衣服を地にしいて世尊を招きたいと思い)
 古くは高貴な人を招くため、たとえば衣服を地に敷いて迎えるという習慣があります。現代で言えばさしずめレッドカーペットの上を歩くようなものでしょうか。しかし仏は欲界の存在ではありません。そんな虚飾は必要ないのです。
 仏をお招きするということは、ひとえに「真実の法を聞きたい、語り合いたい、修したい」ということに尽きるでしょう。そのためには、自らの生き方や価値観を変える準備が必要です。そして必ず「帰命頂礼」をしなければならない。これが為されていない場というのは、仏を招くに値しない場ということになるのです。つまり仏を招いても馬の耳に念仏≠ナあれば招いた甲斐がなく、結局は仏に無駄足を踏ませてしまいます。法要の最初に「三奉請」や「先請伽陀」などを称えるのはこのためで、本来普遍にまします諸仏を私自身の自覚として頂くため<所尊を延請せんと欲す>るのです。つまりこれは、存在として語られていた仏を、認識として語るための必須条件なのです。
 ここで衣服を地に敷くということは、衣服は慚愧の象徴であり、地に敷くのは「五体投地」や「稽首」の礼法と大懺悔を表しています(参照:{作礼致敬の願})。この具体的な内容は、先の{衣服随念の願}にもありましたが、裁縫や染め直しや洗濯が不要な、仏のお心にかなった尊い衣服をおのずから身につけている≠アとが願われています。「裁縫が不要」とは、生活に不足不満が出た時、これから事新しく、着物を新調する必要のないこと≠ナあり、また取り繕った中途半端な反省に留まらない≠アとでしょう。不正が発覚してもなお部分的に隠蔽を続ける、というような体質を破く必要があるのです(参照:{取り繕いの無い懺悔を})。「擣染が不要」とは、人生が色あせて生活に倦怠を感ずることなく、日々彩りのある人生を歩む≠ニいうこと。「洗濯が不要」とは、生活に疲れ、倦怠を覚え、不満が出る等の心の[あか]が生じない≠ニいうことです。
 こうしたことを<ある国土>(国家や組織や家庭などの環境)においては、一人ひとりの頑張りや意志の力によって行おうとするのですが、なかなか適わない≠ニいうことが後に出てきます。念仏の呼びさましのない場では、世尊を招くことさえ難しいのです。
 適わない原因の多くは、人生はこんなもんだ≠ニいう自分勝手な悟りに座り込んでしまうこと、いわゆる生悟りにあるでしょう。すると、手前勝手な自説を守るため心は[かたく]なになり、他人を馬鹿にして忠言を聞かず、新たな現実に打って出る気概をなくします。何をするにも慢心が一番いけない。慢心に飲み込まれた途端、その人の過去は現在を生きる重荷となり、未来は朽ちた身心の墓場と化します

<あるいは香・華・名宝をもつて、用ゐて恭敬を表せんと欲す>
(あるいは香花[コウゲ]名宝[メウホウ]をもって恭敬[クギョウ]の意をあらわそうと思う)
「香」とは、まごころの智慧と徳が芳ばしい香り≠フように報いたもので、具体的には優れた人格や環境、良い雰囲気、全体的な[たたず]まい、長年にわたる良い評判、おのずと生まれる信頼感≠ネどの「人徳」や「土徳」が周囲に漂うことを言います。優れた人格者や素晴らしい環境の徳に触れることで[ふさ]ぎ込んでいた気持ちが晴れ、喜びに満ちた清らかな心となリ、身も快く安らかになる、ということを実際に経験された方も多いと思います(参照:{妙香合成の願})。しかし<ある国土>においては、人々の不徳の致すところ≠ノよって不祥事が起き、不正が暴かれてもみな罪を他人に押し付け、反省の心が無いため人々の和が崩れ、長年にわたって臭気芬々[シュウキフンプン]たる有様であるため評判は落ち、誰からも信頼されない状態となってしまっています。
「華」とは、まごころの智慧に咲いた華で、総じて言えば「人間としての華」であり「仏性の華」でしょう。自分の人生や縁ある環境をまごころの智慧で[いろど]ことを言います。法要の際「散華」を散らすのは、この人生の彩り≠表しています。人生はこうした彩りがなければ虚しく退屈なものです。そしてこの彩りは、何もせず自堕落に過ごしていては決して生じません。常に新鮮な感動をもって生命の鼓動に耳を傾け、その真の願いを聞き開き、日々新たに人生の彩りを生み出し続けなければ、本当に満足できる人生は創造できません。しかし<ある国土>においては、そうした彩りを得ることができず、[ひね]くれて皆から嫌われ、周囲には重苦しい雰囲気が漂っています。人々は成功した過去に執着してかえって失敗を繰り返し、苦難に耐え切れず心がふさぎ込んでしまっています。
「名宝」とは、三界の宝を越えた真実の宝(珍宝)を言います。諸仏・衆生全ての人々が本当に満足できる宝を用意するのです。それは打ち出の小槌のような宝で、必要がある時に必要なだけ現れ、不要になればすぐに消えるものでなければなりません。それは、法を受け取るこちら側の眼力と求道心が調うことなのです。しかし<ある国土>においては、宝でないものを宝としたためかえって苦痛が生じ、得た宝では満足できなかったり、宝を得るために多くの辛苦を経験したり、宝を得たら得たで執着が起こってさらに辛苦を経験しなければならない、という不満が生じています(参照:{荘厳種々事功徳成就})。
 このように、みな<用ゐて恭敬を表せんと欲す>(恭敬[クギョウ]の意をあらわそうと思う)のですが、<ある国土>においてはこれが適わない。結局、道心が整わず不遜[フソン]傲慢[ゴウマン]な心の持ち主、邪見驕慢[ジャケンキョウマン]の悪衆生が住む環境では、仏を招いても招いた甲斐が無いのです。法を聞く耳を持たない者には、どんな尊い教えも虚しく響きます

<しかも業貧しく感薄きものはこの事果さず>
善業[ゼンゴウ]とぼしくその果報[カホウ]を感ずることもうすいものは、これらのことを果たしとげることができない)
 これまで述べてきました<ある国土>の内容が<業貧しく感薄きもの>の詳細がでしょう。仏伝に即して言えば、たとえば釈尊が成道され梵天の勧請を受けてイシバタナ鹿野苑に伝道(初転法輪)に[おもむ]かれる途中、異教徒ウパカの挨拶を受けて話を交わされるのですが、結局彼は別の道をとって立ち去ってしまいました。またリッチャービ族出身のスナッカタは、一度は釈尊の弟子になりながら「ゴータマには超人の法がない」と不平を漏らして教団を去ってしまいました。釈尊が説き明かそうとしたのは真実の教法であり法に即した行であったのですが、彼らはそうした法に依るものは求めず、奇抜で不思議な教えや喝采をあびる神通力を求めていたのです。
 ところでこうした「邪見驕慢の悪衆生」とは誰のことでしょう。あの人のことでしょうか。この人のことでしょうか。他人に向けた指を自らにも向ける必要があるのではないでしょうか。

 永き歴史を宿す真心の華

このゆゑに大悲の願を興したまへり。「願はくはわが国土にはつねにこの物を雨らして衆生の意に満てん」と。なんがゆゑぞ雨をもつて言をなすとならば、おそらくは取者のいはん。「もしつねに華と衣とを雨らさば、また虚空に填ち塞ぐべし。なにによりてか妨げざらん」と。このゆゑに雨をもつて喩へとなす。雨、時に適ひぬれば、すなはち洪滔 水漫ちて大し の患ひなし。安楽の報、あに累情の物あらんや。
▼意訳(意訳聖典より)
このゆえに大悲の願をおこされて「わが国土は、いつもこういうものを雨ふらして、衆生の意を満たせよう」と願われた。なぜ雨ということばを使われるかというと、恐らくまちがってとるものが「もし常に花や衣をふらしたならば、大空を埋めてしまうであろう。どうして妨げないのであろうか」というであろう。こういうわけで雨をもって喩えとしたのである。雨は適当な時に降れば大水の憂いはない。安楽浄土の果報に、どうして人の心をわずらわすようなものがあろうか。

<このゆゑに大悲の願を興したまへり。「願はくはわが国土にはつねにこの物を雨らして衆生の意に満てん」と>
(このゆえに大悲の願をおこされて「わが国土は、いつもこういうものを雨ふらして、衆生の意を満たせよう」と願われた)
 前節で穢土と浄土の別を見ましたが、浄土と穢土は真反対でありながらそれぞれ互いの本質を映し出しています。浄土を浄土と映して穢土があり、穢土を穢土と見さしめて浄土があるのです。「このゆゑに」とは、ある国土をみれば仏を招きたいと思っていてもその準備ができていない。慢心に驕る衆生が国土を汚し、素直に真実の法を聞こうとせず、過去の自分をかばって反省も懺悔もなく、言い訳ばかりで少しも道心が起こりません。「このゆゑに大悲の願をおこされて」、ということです。
 つまり仏は、衆生が聞法に来ないのであれば、仏みずからが衆生に遇いに行き、一切衆生に宿る聞法精神を見出しましょう。自分で供養の具足を用意できないのなら、浄土の側で香・華・名宝を整えておきましょう≠ニいう大悲の願を起こして衆生に回施されるのです(参照:{声聞無量の願}{供養如意の願}。様々な悪環境において真心が足らず仏と出会えない衆生が在れば、仏自身が真心一心となって衆生に宿り、機が熟すのを待って衆生の身に満ちわたり、日々生活の中で仏性の華を開いていこう、ということが仏の願いなのです。
 阿弥陀仏は願いに沿って自らの身を浄土として開き、身土不二[シンドフニ][ことわり]をあらわし、浄土の土徳によってあらゆる環境を根底から支えている。これが<つねにこの物を雨らして衆生の意に満てん>という意でしょう。ここで弥陀如来回向の真実信心が成就し、仏の意と衆生の意が一体となるのです。いわば本質と認識の一体と言ってもよいでしょう。詳細に言えば、私たちの生きる現場は、本質としては常に香・華・名宝が雨ふらされているのですが、無知と疑惑が止まないため認識として穢土となっていたのを、永い歴史を重ねた仏性・真心がはたらいて、その尊い報いにより私たち皆が満足できる機法一体の生活を回施された、ということが真実信心の証しなのです。

 ちなみにこうした信心の生活とは、生きる場は常に穢土でありながらも、心は恒に浄土に[]ててある状態で、親鸞聖人が「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」と仰る通りなのです。穢土の中にのみどっぷりと浸っていては穢土が穢土であると知ることはできません。心を浄土に樹ててこそ穢土を穢土と認識できるのです。またこの認識があってこそ、人は宿業の悪支配から離れることができるのです。このことを浅原才市同行は――

境涯に心が居ってはつまりません
浄土に心が居って境涯をするのでなけりゃなつまりません
これが南無阿弥陀仏であります
(浅原才市)
と味わってみえます。

<なんがゆゑぞ雨をもつて言をなすとならば、おそらくは取者のいはん。「もしつねに華と衣とを雨らさば、また虚空に填ち塞ぐべし。なにによりてか妨げざらん」と。このゆゑに雨をもつて喩へとなす。雨、時に適ひぬれば、すなはち洪滔 水漫ちて大し の患ひなし。安楽の報、あに累情の物あらんや>
(なぜ雨ということばを使われるかというと、恐らくまちがってとるものが「もし常に花や衣をふらしたならば、大空を埋めてしまうであろう。どうして妨げないのであろうか」というであろう。こういうわけで雨をもって喩えとしたのである。雨は適当な時に降れば大水の憂いはない。安楽浄土の果報に、どうして人の心をわずらわすようなものがあろうか)
 この指摘は、仏意の[かゆ]い所に手が届く%_と、またそこに気づいた曇鸞大師の注意力のたまものでしょう。なお浄土三部経のうち「雨をもつて喩へとなす」箇所は以下の通りです。

天より妙華を雨らして
(『仏説無量寿経』9 巻上 正宗分 法蔵修行)
即時に四方より自然に風起りて、あまねく宝樹を吹くに、五つの音声を出し、無量の妙華を雨らす
『仏説無量寿経』29 巻下 正宗分 衆生往生果)
なほ大雨のごとし、甘露の法を雨らして、衆生を潤すがゆゑに
(『仏説無量寿経』30 巻下 正宗分 衆生往生果)
釈・梵・護世の諸天、虚空のなかにありてあまねく天華を雨らしてもつて供養したてまつる
(『仏説観無量寿経』4 序分 発起序 厭苦縁)
黄金を地とし、昼夜六時に天の曼陀羅華を雨らす
(『仏説阿弥陀経』3 正宗分 依正段)

 

昼夜六時にマンダラの華を雨ふらす

「マンダラの華」は、天上界に咲くという架空の華ですが、今日では朝鮮朝顔をマンダラ華と呼んでいます。「マンダラ」とは「意にかなう」という意味で、どんな人にも好かれ、その華を見、その香りをかぐ人は、意を快くして、どんな意が沈み、顔がやつれていても、身も心も軽やかになり、新たな命が甦って、どんな苦難も乗り越えて行く力が湧き出るという華です。「華」とは『華厳経』では、仏華、まごころの智慧に咲いた華と説かれています。
極楽はまごころの華をもって荘厳されている。涅槃の世界は本来清浄であって、生じたという始めもなければ、滅するという終りもない栄枯盛衰を超えていますが、浄土は本願に報われて新たに出来た始めがあり、常に生死浄穢の危機にさらされているために、断えず浄土自体を更新せねばなりません。曇鸞大師はそれを、法蔵菩薩の願力によって、浄土は絶えずその生命を支えられ、弥陀の仏力によって、常に浄土としての徳を保持しているといっておられます。阿弥陀の浄土は、ともすればそこに住んでいる国中人天によって汚され、浄土しての価値が損なわれる危機にさらされるから、極楽が極楽としての生命を保つために「昼夜六時にマンダラの華を雨ふらして」、「黄金の地」を新たに荘厳するのでしょうか。
ここでも先の「天楽を作す」と同じように、「華がふる」といわずに、「華を雨ふらす」と人為的に説かれているのですが、誰が降らすのでしょうか。一つには法蔵菩薩の願力の然らしめる所でしょうが、ある経には、釈尊が静かに石の上に座って修行しておられた。そこを通りかかった悪童が、「くそ坊主」といって石を投げた。石は釈尊の右肩に当って、その傷口から美しい華が散ったと説かれています。傷口から出たのは鮮血に違いないが、それを釈尊は供養の華と受けとられたのです。身に降りかかって来る好悪善悪共に、極楽の土徳が天華として受けとらせるのでしょう。
<中略>
「衣コク」とは華籠のことです。「衆の妙華」とは、野山に咲く自然の花ではない。まごころの華です。葱一本、ハンカチ一枚にでも座席をゆずる。落ちている紙屑を屑籠に入れる。お早う、お休みと朝晩の挨拶をする。こんにちは、ご苦労さんと行き交う人に言葉をかける。全てまごころの華でないものはありません。「花」は草花で、一年草の花のことですが、「華」は永い年月の暑さ寒さに堪えて来た樹の華のことです。同じ「こんにちは」という一言でも、その人柄によって、またその時の気分によって、響きが違い、受けとる相手の心にも大きな差が出て来ます。念仏の心に咲く華は、私一代の命の花ではありません。三十五億年の深い歴史を宿す血の華であり、如来の「不可思議兆戴永劫において、三業に修する所、一念一刹那も清浄ならざることなく、真心ならざることなく」して成就された、至徳の結晶です。

島田幸昭著『阿弥陀経探訪』 より

 日々新たなる創造的生活

経にのたまはく、「日夜六時に宝衣を雨り宝華を雨る。宝質柔軟にしてその上を履み践むにすなはち下ること四寸、足を挙ぐる時に随ひて還復すること故のごとし。用ゐること訖りぬれば、宝地に入ること水の坎に入るがごとし」と。このゆゑに「雨華衣荘厳無量香普薫」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
経(《大経》・《小経》)に説かれてある。
 「日夜に六度、宝衣をふらし、宝華をふらせる。そのものの質が柔らかで、その上をふめば四寸下り、足を上げるにしたがってまたもとどおりにかえる。用い終われば地面の中に入ることは、水が穴に入るのと同じようである」と。こういうわけであるから「華衣の荘厳を雨ふらし 無量の香普く薫ず」といわれたのである。

<経にのたまはく、「日夜六時に宝衣を雨り宝華を雨る>
(経(《大経》・《小経》)に説かれてある。 「日夜に六度、宝衣をふらし、宝華をふらせる)
 この箇所は、前節で述べた「願はくはわが国土にはつねにこの物を雨らして衆生の意に満てん」という願いが成就した浄土の姿です。
「日夜六時に」とは、一日の初めである「日没」から「初夜」「中夜」「後夜」「晨朝」「日中」の[たび]に、ということですが、四六時中いつでもその度ごとに≠ニ解釈した方が願意に沿っています。
「宝衣を雨り宝華を雨る」は、これも前節での事をまとめると、浄土では、仏の身と環境の徳により、衆生自らの生き方や価値観を変える準備が回施され、気がつけば「帰命頂礼」する供養の品がおのずと用意されている≠ニいうことになります。

<宝質柔軟にしてその上を履み践むにすなはち下ること四寸>
(そのものの質が柔らかで、その上をふめば四寸下り)
「宝質柔軟」は{触光柔軟の願}{得三法忍の願}{荘厳触功徳成就}などにありますように、浄土の服飾や香・華・名宝の性質が金剛心と一味になった素直さを持っている≠アとを表します。これは、浄土では「降りかかって来るどんな運命にも順い、どんな苦難にも耐えてゆく金剛心」が回施されることを言います。これにより、真実信心の念仏行者は柔軟心を得た八地以上の菩薩であり、普賢の徳が身に[]いているということが明かされるのです。
「その上を履み践むにすなはち下ること四寸」とは、回施された浄土の宝衣・宝華の上を私たちが歩むということです。宝衣・宝華は天然の産物ではありません。あくまでも行為的世界の果報によって生み出された環境なのです(参照:{初めて往く極楽浄土がなぜ「魂の故郷」と表現されるのでしょう? })。真心のこもった社会基盤が敷かれた上を、私たちは真っ[さら]な一歩を歩む。今自分がこの現場において、誰も為したことがないことを為すのです。すると、どんな一歩であっても浄土はその一歩を受け入れ、四寸の足跡をつけることができるのです。なぜ四寸かと言うと――苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦を表す=A四種の正修行功徳成就を表す=A常楽我浄の浄土の四徳を表す%剽l々な解釈ができますが、浄土の四徳とするのが勝義でしょう。
「常」とは、外道や声聞・縁覚の無常を越えた如来常住の報身(行為的世界の根本主体)が回施されることであり、「楽」とは、外道の苦を捨て正定聚に住するがゆえに必ず滅土に至る≠ニ、生きて甲斐あり死んで悔いの残らぬ人生が回施されることであり、「我」とは、欲望や生死に迷う穢悪の我を捨てて真の主体を立ち上げることが回施されるということであり、「浄」とは、娑婆の苦を捨てて仏菩薩の正法に帰依するということです。(参照:{「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを「#常楽我浄の四顛倒 」})。
 ですから「すなはち下ること四寸」とは、念仏行者の生活の一足一足が浄土の四徳に適った歩みとなるという意味になります。

<足を挙ぐる時に随ひて還復すること故のごとし>
(足を上げるにしたがってまたもとどおりにかえる)
 念仏行者の生活は浄土の「常楽我浄」の四徳が回施された歩みですから、過去に為した立派な一歩を誇りに思いたい気持ちが衆生の側には起きるのですが、浄土はその執着を許さず、すぐに元通りの地に戻ってしまいます。行者の中にはあの日あの時に感じた喜びを決して忘れません≠ニかあの感動を唯一の心の支えにしています≠ニ言うような人もいて、それは一見「いい話」のようですが、過去は過去、現在の支えにはならないのです。こうした点も浅原才市同行は――

これ 才市
よろこびはあてにならぬ
消えて逃げるぞ
逃げぬお慈悲は 親の恩
と見破っています。過去の経験に執われた人生ほど惨めな人生はありません。色あせた過去の栄光などさっさと捨てて、自らの新たな一歩を今踏み出すことが真実信心の生活なのです。

<用ゐること訖りぬれば、宝地に入ること水の坎に入るがごとし>
(用い終われば地面の中に入ることは、水が穴に入るのと同じようである)
 これは宗教で一番恐ろしい「法執」を避けるためでしょう。浄土の宝衣・宝華は確かに素晴らしく清浄で見事な彩りがあるのですが、どんな立派なものでも必要がなくなれば用いないのが道理です。有名な[いかだ][たと]え≠烽りますが、河を渡るのに必要な筏も陸を行くには邪魔になります。正しいことや立派なことも執着すべきではなく、すぐに捨て離れなければなりません。成功の裏にある執着を見落とし「株を守りて兎を待つ」人が多いのは娑婆の常。こうした娑婆の常があるゆえに、執着のない「宝地に入る」浄土の常なる徳を観察せしめるのでしょう。
 これは教えの用い方や語り方という点でも重要です。仏教は基本的に対機説法で説かれていますので、機(相手の状態や問題点)が変われば教えも変えねばなりません。頑張り過ぎる人には休むことの大切さを説き、怠け過ぎる人には精進の大切さを説く必要があるのです。誰かれ構わず同じ教えを述べても、この人は私を理解しようともせず自説を押し付けてくる≠ニ相手は辟易[ヘキエキ]して去っていってしまうでしょう。また時として、目の前の問題にそぐわない[たと]えを持ち出して自分の失敗の言い訳としている人もいます。これは結果として仏法を[おとし]めてしまっているのですが、一向に反省はなく「いや経典にはこう書かれてあるではないか」と言質[ゲンチ]を取ったように力説する人も居るようです。こうした人のことを獅子身中の虫≠ニ言うのでしょう。<水の[あな]に入るがごとし>という比喩をもう一度かみしめねばなりません。

 重々無尽の世界観

 ここでこの「荘厳雨功徳成就」に相当する解義分を引き、さらに詳細を学んでみましょう。

 厳雨功徳成就とは、偈に「雨華衣荘厳 無量香普薫」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。『経』(大経・上)にのたまはく、「風吹きて華を散らしてあまねく仏土に満つ。色の次第に随ひて雑乱せず。柔軟光沢にして馨香芬烈なり。足その上を履むに蹈み下ること四寸、足を挙げをはるに随ひて、還復すること故のごとし。華用ゐること已訖りぬれば、地はすなはち開裂して、次いでをもつて化没し、清浄にして遺りなし。その時節に随ひて、風吹きて華を散ずること、かくのごとく六反す。また衆宝の蓮華、世界に周遍せり。一々の宝華に百千億の葉あり。その葉の光明、無量種の色なり。青き色には青き光、白き色には白き光、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。イヨウ煥爛として日月よりも明曜なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身の色は紫金にして相好は殊特なり。一々の諸仏また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説く。かくのごとき諸仏、おのおの無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ」と。華、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。

『往生論註』71(巻下 解義分 観察体相章 器世間)

▼意訳(意訳聖典より)
 荘厳雨功徳成就とは、偈に「華衣の荘厳を雨ふらし 無量の香普く薫ず」
 と言える故なり。
 これがどうして不思議であるかというと、経(《大経》)に「風が吹くと花が散ってあまねく浄土に敷きつめられる。それらの花はそれぞれの色でよくまとまり、決して入り乱れることがない。そうして、柔らかく光沢があって芳しい香りを放っている。その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足を挙げるとすぐまた元にかえる。そして花が不用になれば、たちまち地面が開いて次第にその中へ没し、すっかり清掃されて一つの花も残らない。時がくれば、また風が吹いて花を散らす。こういうことが日に六たび繰り返される。
またいろいろな宝でできた蓮華がいたる所に咲いている。一一の花には百千億の花びらがあり、その花びらには無数の色彩がある。青い色には青い光があり、白い色には白い光があり、玄・黄・朱・紫の色の光もまた同様である。その燦然とかがやくさかんなありさまは、日月よりもなお明るい。一一の花の中より三十六百千億の光を放ち、一一の光の中より三十六百千億の仏が出られる。その仏身は紫磨金色に輝いて、相好がことのほかすぐれておいでになる。これらの諸仏が、またそれぞれ百千の光明を放ち、あまねく十方の世界に出られて微妙の法を説き、無数の衆生を教化して、仏の正しい道に入らしめたもうたのである」と説かれてある。花が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

<風吹きて華を散らしてあまねく仏土に満つ>
(風が吹くと花が散ってあまねく浄土に敷きつめられる)
 総説分では「つねにこの物を雨らして」とありますが、解義分では風が出てきました。これは前章の{荘厳虚空功徳成就「#苦難の人生によって法が語られる」})や{「極楽の余り風」の本当の意味}で説明しましたが、恐ろしい人生顛倒の熱風・寒風・暴風さえ浄土の徳によって涼風に転じられた風です。この風に乗ってまごころの智慧に咲いた華が社会の底力となって敷きつめられる≠ニいうことですから、解義分の方がより生活に身近な表現となっています。

<色の次第に随ひて雑乱せず>
(それらの花はそれぞれの色でよくまとまり、決して入り乱れることがない)
 何気ない表現ですがこれは重要な箇所です。たとえば、「世の中にはたくさん宗教があるが目指すところは結局同じだろう」と言う人がいます。また、「どうせ人間なんて同じじゃないか」とか、「あの国の人間はみな信用できない」というように粗雑にものを見ている人が居ます。こうなると玉石混交で、宝があってもその輝きは失われ、個性は発揮されず、家や地域の特色も生かされません。本当は、一人ひとりの個性や、家や地域の歴史的特性を鑑みた上で、人間や世界のことを語るべきなのです。親子の別もない、師と弟子の立場もないような平等は悪平等で、これが粗雑な世界観となって現代社会の根底を揺るがしているのです。現在、「グローバリズム」という嵐が、その本来の意に反して地球規模で格差を助長し、各地で財政のみならず歴史的価値観の破壊をもたらしているのは、色の次第に随わず雑乱した′級ハの混乱でしょう。グローバリズムは、個人や地域の特性が最大限に生かされることと同時でなければ価値はありません。

<柔軟光沢にして馨香芬烈なり>から<かくのごとく六反す>までは前節の総説分と同じ内容です。

<また衆宝の蓮華、世界に周遍せり>
(またいろいろな宝でできた蓮華がいたる所に咲いている)
「蓮華」は大乗仏教を象徴する華です。この論註の下巻には、論の「衆生の淤泥華を開く」を解釈して――

「淤泥華」といふは、『経』(維摩経)に、「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなはち蓮華を生ず」とのたまへり。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆してつねに絶えざらしむ。

『往生論註』93

淤泥華[オデイケ]」とは、経《維摩経》に「高原の陸地には蓮華は生じないが、湿った泥の中に蓮華が生ずる」と説かれている。これは、この土の凡夫が煩悩の泥の中にあって、浄土から出られた菩薩に導かれて、よく仏の正覚をひらく華、すなわち信心を生ずるのにたとえたのである。まことに仏法僧の三宝を十方世界にひろめて、つねに絶えないようにするのである。

(聖典意訳)

と明らかにしています。凡夫は煩悩の泥の中に根を張り、煩悩を養分としてこそ真実信心が開かれる、という道理を蓮華に喩えているのです。たとえ心を浄土に樹てていても、宿業の現実に根を張らないような根無し草人間は本物ではありません。空想的・逃避的な浄土は化土であり、真実報土ではないのです。ただし「煩悩を養分として」と言っても、煩悩の泥に[まみ]れ染まってしまうのではありません。鳩摩羅什はこの点について――
たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ。
と警告しています。

 つまり、浄土のはたらきにより、煩悩を煩悩と明らかにすることによってかえって無上菩提心が回施され、今この立場において私が人間としての華を開くことができる、ということが重要なのです。ですから、この蓮華の華が閉じているのか開いているのか、という点も問題になります。浄土に往生したと言っても胎生往生では蓮華が閉じている状態で、そこは「七宝の獄」であり、「五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない」のです。『十住毘婆沙論』易行品11弥陀章に、「もし人善根を種うるも、疑へばすなはち華開けず。信心清浄なれば、華開けてすなはち仏を見たてまつる」と言明されている通りです(参照:{「蓮莟を模す」の間違い})。
 なお「衆宝の蓮華」とありますが、これはそれぞれの場所的自覚が華開いた「蓮華」が世界中に咲いていることを表しています。単なる「人」ではなく、立場の徳によって育まれた「人間」です。親は親としての立場があり、社長は社長として、政治家は政治家として、学生は学生としての立場があるでしょう。「花咲かじじい」の飼っている犬は「ここ掘れワンワン」と宝のありかを示しました。今から「自分探し」に出かける必要はないのです。今自分自身が立っている歴史的立場において人間の華を開くことが「衆宝の蓮華」でありましょう。

<一々の宝華に百千億の葉あり。その葉の光明、無量種の色なり>
(一一の花には百千億の花びらがあり、その花びらには無数の色彩がある)
「百千億」は、歴史を通した全人類の数を言います。今自分自身が立っている歴史的立場において人間の華を開く、その華は自分一人の華でありながら、内容的には劫初[ゴウショ]よりつくり営んできた人類真心の成果が全て詰まっています。華開くのは私個人ですが、私の立っている足元の座は個人ではない。人類の真心の徳によって支えられている座なのです。
「その葉の光明、無量種の色なり」は、真心の徳には人それぞれ個性があることを表しています。先に<色の次第に随ひて雑乱せず>とありましたが、ここでその実際の有様が表現されているのでしょう。

<青き色には青き光、白き色には白き光、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。イヨウ煥爛として日月よりも明曜なり>
(青い色には青い光があり、白い色には白い光があり、玄・黄・朱・紫の色の光もまた同様である。その燦然とかがやくさかんなありさまは、日月よりもなお明るい)
 これは『仏説阿弥陀経』にも同様の表現がありますが、一人ひとりが各自の個性を全発揮し輝くことは太陽や月よりも明るい、ということを表しています。これは諸仏の人間を見る目が実に優れて肯定的だということでもあるでしょう(参照:{無有好醜の願})。

<一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す>
(一一の花の中より三十六百千億の光を放ち、一一の光の中より三十六百千億の仏が出られる)
 インドは掛け算の国と言われるように、ここでも全人類の数である百千億に、青・白・玄・黄・朱・紫の六色が、それぞれ六色と重なりあって「三十六百千億(360兆)の光明を放ち」となり、さらにその三十六百千億の光明の一つひとつの光の中より三十六百千億の仏が出られる。つまりここでは、浄土の一々の華は、あらゆる人や物事が互いに無限の関係をもち融合一体化して私に座を与える≠ニいうことが表現されているのです。一体どれだけの仏があるのか計算するのも難しいほどですが、私が今生きて立っている現場はそれだけ多くの徳が込められている、ということを示しているのです。ちなみに六は(最小の完全数ゆえか)古代インドでは満数をいい、この経典が編纂された頃から次第に十の満数に移行していきました。現代で言えば、歴史的に積み重なった十人十色の個性や文化が、十人十色の真心と映えあって尊い存在を生み出している、ということになるでしょう。

<身の色は紫金にして相好は殊特なり>
(その仏身は紫磨金色に輝いて、相好がことのほかすぐれておいでになる)
「身の色は紫金にして」というのは、諸仏の性質がまごころの[かたまり]≠ナあることを示し、「不断の智的快活」の人格を真金色や紫金色にたとえたのでしょう。(参照:{悉皆金色の願})。
「相好は殊特なり」は{具足諸相の願}にあるように三十二大人相者としての仏徳を満足させていることを言います。

<一々の諸仏また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説く。かくのごとき諸仏、おのおの無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ>
(これらの諸仏が、またそれぞれ百千の光明を放ち、あまねく十方の世界に出られて微妙の法を説き、無数の衆生を教化して、仏の正しい道に入らしめたもうたのである)
 一切衆生を教化して仏の正しい道に入らしめるために、このように天文学的な数の諸仏が大活躍し、さらに天文学的な数の光明(はたらき)によって法を説く、ということですが、これは具体的にどういう内容を言うのでしょう。特に「微妙の法を説く」場はどこでしょう。
 一般的に想像するには、寺院や説教所、もしくはホールなどの法話会場ということになります。確かに長い歴史を通してみれば、何億、何十億、いやもっと多くの説法の場があったでしょう。しかし先に「一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す」とありました。
 こうなると無限とも思える数の諸仏。とてもそれだけの僧侶はいませんし、人類の総数さえ越えてしまいます。これは先にも言いましたが、私が今生きて生活する現場には全人類重々無尽の歴史徳が込められている≠ニいうことを表し、さらに、仏法が説かれるのは寺院や説教所ばかりではなく、人と人、人と物事が出会う場それぞれが仏まします聞法の場≠ニいうことも示しているのでしょう。生きて生活する場、出会いの場、別れの場、喜んだり悩んだりする場、それぞれが仏まします場であり、今現在説法の場なのです。自分の経験のみならず人類の歩み一切が無限に関係性を持って一人ひとりを支え育てる、そうでなければ一切衆生の教化など適うはずもありません。

一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし

一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり

相好ごとに百千の ひかりを十方にはなちてぞ つねに妙法ときひろめ 衆生を仏道にいらしむる

『浄土和讃』42〜44 讃弥陀偈讃

 資料

観察門 器世間「荘厳雨功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【一八】
 雨花衣荘厳 無量香普勲
此二句名荘厳雨功徳成就仏本何故興此荘厳見有国土欲以服飾布地延請所尊或欲以香花名宝用表恭敬而業貧感薄是事不果是故興大悲願願我国土常雨此物満衆生意何故以雨為言恐取者云若常雨花衣亦応填塞虚空何縁不妨是故以雨為喩雨適時則無洪滔{水漫大他高反}之患安楽報豈有累情之物乎経言日夜六時雨宝衣雨宝華宝質柔軟履践其上則下四寸随挙足時還復如故用訖入宝地如水入坎是故言雨花衣荘厳無量香普薫

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