世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく十方の無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土の生ける者どもが、わたくしの名を聞いて、五体投地の礼によってわたくしに敬礼し、求道者の行いを実行しているのに、神々と人間との世間から敬礼されないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より
私の目覚めた眼の世界では、私たちの思いも及ばない世界中の人びとが、恵まれた人も貧しい人もみな、私の名南無阿弥陀仏の声を聞いてその全身を挙げて私を信頼し、喜びのあまり、脇目も振らず道を求めるようになるであろう。その姿を見る者はみな、あの素晴らしい人だとほめたたえるに違いない。もしそうならなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。
『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より
「五体を地に投げて、稽首し礼を作す」とは、深い懺悔、大懺悔をいうのです。「五体を投げる」とは、大地に跪くというのと同じ気持ちで、次の「稽首」と共に、インドの最敬礼です。稽首は、自分の頭を相手の足につける礼のことです。それでは何に対して懺悔し、何に向かって敬礼するのでしょうか。天に向かって懺悔するのでもなく、西方に向かって敬礼するのでもない。「わが魂の底深く」に、聞こえた「わが名字」に対してです。「わが名字」は、光明と本願の成就した相ですから、念仏において聞こえる名字の内に働く、光明のお照らしに遇うて、わが身の浅ましい相を知らされた時、おのずから懺悔となるのです。親鸞聖人は、「仏の六字を称うるは、即ち懺悔になるなり」といっておられます。しかもそれは念々に起こる煩悩を懺悔するのではない。念々に起こる煩悩において、煩悩を起こさせている、深くして底のない、無始以来の宿業の懺悔です。人間であることの懺悔です。
しかもそれは懺悔に止まらない。懺悔が懺悔に止まるなら、それは真実の懺悔ではありません。光明と共にある本願力に催されて、重い宿業を背負うて、人生創造に起ち上がる。それを「歓喜信楽して、菩薩の行を修する」といっているのでしょう。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より
慚愧は、確かなものに遇って、自らの相があきらかになったときに、湧き出してくる心であり、行動であります。この慚愧の心は、つねに「うやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の行にいそしむ」行動となるのです。 この慚愧について、親鸞聖人は『涅槃経』を引用してあきらかにしてくださいます。すなわち、
二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
と慚愧とはどういうものかをあきらかにし、つづいてこの慚愧によって開ける「いのち」の世界があきらかにされます。すなわち、
慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
とあきされています。この「能く父母・師長を恭敬す」という行動が「うやうやしく礼拝し」ということであり、「父母・兄弟・姉妹ある」というところに立っての行動が、「喜び信じて菩薩の行にいそしむ」ということなのです。
<中略>
ここで注意しておかなければならないことは、慚愧は、「私に慚愧の心あり」というところにあるのではなくて、「無慚・無愧のこの身」という悲しみの中にあるのです。すなわち慚愧は、「無慚・無愧のこの身」を生きる生活者に、その本当のあり方を見ることができるのです。ですから、
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき(正像末和讃)
と、生きられた親鸞聖人の生き方こそ、慚愧の生活であり、言葉にかえれば信心の生活であります。この「法に遇った歓喜」「自らに遇った慚愧」の上に、信心の行者の日暮しがあります。
藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より
この成就の願文は、
功慧殊勝にして尊敬せざることなし。三垢障を滅しもろもろの神通にあそぶ。因力、縁力、意力、願力、方便之力。(五二※)
こうあるところが成就の文であると古人が言っておられます。
<中略>
信心歓喜してその人はどうなるかといったら、先に挙げましたように、菩薩の行を修せんであって、歓喜信楽の身の上になるということ、自分の喜びをすぐ人に伝えて人をも喜ばさんという心が起こって、これを仕事にするのが菩薩の行というので、講義の本を開いてみましたが、昔の学者はこれを五念門といっておられるのであります。
礼拝門(自利)
讃嘆門(自利)
作願門(自利)
観察門(自利)
廻向門(利他)
この自利利他の行を菩薩の行というのであります。信の人は天であっても人であっても、あらゆる世界の衆生は菩薩の行を修するようになり、もっとおしつめて言ったら利他の行を主としてやるようになる。そうさせたいという願でありますから、もしそうならないならば、聞我名字ということがないからであるということを知らねばならぬ。
<中略>
妻は夫に敬われたい、夫は妻に敬われたい、兄は弟に、弟は兄に敬われたい、嫁も姑も金持ちも貧乏人も各自に皆敬われたいのであります。けれども実際はといったら、いつでも敬われずに憎まれたり嫌われたりしておって、なかなか人から敬ってもらえないのがすべての人間の苦痛というものであります。敬われたいけれども敬われない。こういうものをどうすればよいかといえば、それは聞我名字ということであります。ここに自分の助かる道があるというのです。五体を地に投げて稽首作礼して歓喜信楽するというほどに、自分の幸せを喜びながら、そうして他のものを助けたいというような、いたわる心の持ち主とならしめたい。そして一切の人天に敬われるようにしたいという願です。その人は何もほかに善いことはない。欲も深い、腹立ちも変わらぬ、日常の行為も、もともと変わらぬけれども聞我名字ということが本当に一つできると、この我身と変わったしあわせ者とならしむるというのです。聞我名字の信ということによってそういうことになさしめねばおかぬというのが他力本願であります。
<中略>
信を喜ぶ人になれたからこそ敬われる人になれたのであります。それゆえ私どもは本当に人格完成といいますか、家庭から敬われ、世間の人から敬われ、多くの人々からも敬われたいと思うならば、名号を聞き開いて信を得るということただ一つが大事であります。信の人は心をゆるしてつきあうことができます。
蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より
不合理性とことをだんだんおしてくると、不合理性に目をさました状態は、さきほど申しましたようにわれわれの自覚している罪悪感ではなくして、自覚の光の及ばない底知れない罪悪の無限の暗黒面というものに気がついたということで、その気のついたわれわれの状態が五体投地稽首作礼であります。大地にひざまずいて合掌念仏するという、そういう境地ではありませんか。だからこういう言葉は、みな「女人成仏の願」ということからおしてきている本願でありまして、「歓喜信楽して菩薩の行を修せん」仏の名号を聞いて信心歓喜して道を求めていくのであります。「諸天世人敬ひを致さずといふことなけん」、そうなってきますというと、自分が不合理性を自覚して、自分が自分に目をさまし、自分の浅ましさを知れば知るほど、かえって人は尊敬する。けっして軽蔑しない。それが如来の願いであります。
金子大榮著『四十八願講義』 より
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