ご本願を味わう 第三十八願

衣服随念の願

【浄土真宗の教え】

漢文
設我得仏国中人天欲得衣服随念即至如仏所讃応法妙服自然在身若有裁縫擣染浣濯者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が衣服を欲しいと思えば、思いのままにすぐ現れ、仏のお心にかなった尊い衣服をおのずから身につけているでしょう。裁縫や染め直しや洗濯などをしなければならないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者の中の誰かが、衣服の洗濯や乾燥や裁縫や染色をしようと思い立つと同時に如来が許された宝のような立派な新調の衣服を自分の身につけていることも気がつかないで、衣服の洗濯や乾燥や裁縫や染色の仕事をしなければならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、人びとが素晴らしい心の装いをしたいと思うならば、みな思い通りになるであろう。それはみんなにほめたたえられる目覚めた人の教えの衣服となって、自然に身につくに違いない。もしその衣服を修理したり、染め直したり、汚れて洗濯しなければならない、などということがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 この願もまた大変に重宝な願です。この願の相手は「国の中の人天」ですが、これは前にもありましたように、念仏者の果報を現わす時に、いつも人天と呼ばれています。
<中略>
 さて「応法の妙服」とは、一体、何を象徴しているのでしょうか。「衣服」は、仏教では「慚愧の服は諸の荘厳の中で、最も第一とする」とか、「慚愧の衣」を着るといわれていて、衣服は慚愧の象徴とされているものです。これは前の第三十七願の「五体投地」の大懺悔を受けての願ですから、ここでも慚愧の心を象徴しておるのでしょう。けさも申しましたように、懺悔は慚愧の心のもっと深い心をいうのですから。
 「衣服を得んと欲う」とは、日々の生活において、あれが欲しい、これが欲しいと、不足や不満が出て来ることでしょう。衣服を以て生活用具を代表させたのだと思います。そういう不足の心が起こった時、念仏の徳によって、わが身の愚かさと能なしが知らされると、自然に慚愧の心が生まれて来て、「親鸞におきては」、「私にとっては」、何一つ不足のいえるものはない。これでちょうどよかったのだ。それどころか、私にとっては過ぎた果報である。勿体ないと、いつでも現在に満足を見出だして、落ちつくことができる。不足不満の心が起これば、その度びにお念仏が出て、「慚愧の衣」を身に着れば、いつでもそこが幸せの真っ只中であります。
 「裁縫」するとは、生活に不足不満が出た時、これから事新しく、着物を新調する必要のないことでしょう。「擣染」とは、さらしたり、染め直すことでしょうから、人生が色あせて、生活に倦怠を感ずることでしょうか。また「洗濯」するとは、生活に疲れると、いろんな心の垢がつくことをいうのでしょうか。もちろん生活に不満がないとか、倦怠を感じないとか、また疲れを知らないといいましても、唯だないのではありません。さっき申しましたように、生活に疲れ、倦怠を覚え、不満が出て来るのですが、そのたびに念仏に呼びさまされて、自己に立ち帰れば、いつでもあるがままで、生活が満たされることをいっているのでしょう。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

キリスト教の説話にも、アダムとイブが神の禁を破って知恵の木の実を食べて、羞恥心を起こしてイチジクの葉で恥部をかくしたという話がありますが、仏教には、

慚恥の服は諸の荘厳に於て最も第一となす

(遺教経)

というお言葉があります。すなわち、恥かしいという慚愧の心持ちによって身にまとうものが「衣」であり、この「慚愧の衣」こそが、身を飾るに最もふさわしいものであり、第一であるといわれるのです。
<中略>
 特に最近は、ファッション性が強く、自らをより強く、またより美しく見せる傾向が強くなり、他を圧倒するような衣服や、自己主張だけの衣服になっているように思います。  本当に自らを身を飾るとは、他を圧倒することでも、自己主張でもないと思います。文字通り「慚愧の服」こそが、身を飾る「最も第一となす」のです。時と処によって衣服はこれからもどんどん変わっていくでしょうが、「慚恥の服」こそ「最も第一」であり、「仏のおぼしめしにかのうた尊い服」であることは変わらないでしょう。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 この願成就の文は上巻と申されますが、そこには極楽の話をしてあるのです。

処するところの宮殿・衣服・飲食・衆妙華香・荘厳の具、第六天の自然のもののごとし。(三六※)

 これは生活の一つの飾りというのですか、主として仏を供養する道具ということです。それが一番大事なことであるからというので、こういう字も出てくるのであります。第六天の自然の物の如しというのは、第六天という天に行くと、自然に欲しいものがととのえられておるということでありますから、そのように自然に身に在らんです。こういう極楽のけっこうなようすを書いてあります。しかしそれは死後の極楽のことではないと思うのです。本願の文は衣服随念の願でありますが、願成就は、宮殿・衣服・飲食とあります。ですから私は住の問題も食の問題もその他一般の道具、使用するもの皆かくの如しということで、自分の生活に最も必要なものだけは、思うように自ら身にあるようにして下さるということでしょう。今の言葉で言えば必需の生活というのでしょう。荘厳の具といいますから、衣食住、生きてゆかなければならぬだけのものはちゃんと自然に身にくるようにさせねばおかぬというのが衣服随念の願であります。
 これは親鸞聖人をみるにつけ、もっと近く蓮如上人をみるにつけ、みんなの仏物のお与えの暮し、信を喜ぶ者になればなおさらそういうようにさせねばおかぬ、という本願のすがたがみえることであります。もし我儘をいうならば、もっとたくさんお金がほしいし、もっと道具もいろいろ欲しいのであります。金持ちの家へ行ったらあれもこれも皆欲しくなってきますし、どんな貧乏な家へ行っても私の欲しいものが一つや二つはきっとあるものです。しかし欲張らなくても妙なもので、高貴なものはともかく、私になくてはならぬものだけはちゃんと具えて下さるものです。これは不思議不思議のほかはありません。皆さんにもなくてはならぬものだけはきっと具えて下さるものです。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 三六=浄土真宗聖典註釈版 P36 『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳)

今までの十方の衆生が国中の人天となり、彼岸の世界へ姿を映すのであります。国中の人天という言葉でありますが、やはり私はこの不合理性を自覚したところ他方の衆生がその姿を彼岸の世界へ映す、それが第三十八・第三十九の二つの願であると思うのであります。
<中略>
 その身の荘厳が「念に随って即ち至ること、仏の所讃の応法の妙服の如く」懺悔荘厳の服でありますから、法に適った衣であります。この前にわれわれの所有物はわれわれの人格を現わすということを申しましたが、もっと直接的にいえば着物というのは人格を現わす。どういう着物を着ているかということは、その人がどういう人であるかということを現わすのであって、美しい着物というのは、その人の人格に適った着物が一番美しい着物なんでしょう。
<中略>
この衣服随念、応法妙服ということは、この世における慚愧の姿が彼の世に現われた姿というものを象徴されたものではなかろうかと思うのであります。すなわち信仰生活の美しさというものを、衣服随念というものに現わされたのではなかろうかと思うのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

(参照:{取り繕いの無い懺悔を}

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