ご本願を味わう 第二十一願

具足諸相の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国中人天不悉成満三十二大人相者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく三十二大人相を成満せずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて、仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、その仏国土に生まれるであろう菩薩たちが皆、偉大な人物に具わる三十二の特徴を身に具えるようにならないのであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、どんな人でも、みんな目覚めた人と同じ尊い意味を持つ人生を送るであろう。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 今の十方衆生を呼んでの自覚の三願で、心の眼が開けましたから、いよいよこれから何をするのか、念仏生活とはどんなことをするのか、経の言葉でいえば、正定聚不退転の菩薩の生活です。今日求められている宗教的人間像とは、どんな人かということが明らかにされるのです。今日までは何宗に限らず、この問題が不明瞭なままに終っています。・・・だからさとったあとは、何をしようと勝手だということになり勝ちでしょう。
<中略>
 人生は一寸先も解らぬ闇夜でしょう。どうなってもよいというのは、やけくそか、歴史的現実に目をつぶった世捨て人です。この真っ暗な闇夜の人生を過ちなく旅するのには、灯がなければならぬ。それも一つではいけない。二つ必要です。一つは行く手を照らす灯台、一つは足元を照らす提灯。提灯が古くさければ懐中電灯でも、ヘッド・ライトでもよいでしょう。提灯がなければ、足元が見えぬから、何につまづくか、どんな所へ転げ落ちるか解りません。しかし行く手を照らす理想の光がなければ、方角を見失い、道に迷うてしまいます。第二十一願から第三十二願までは、願の有っている目標、つまり理想を明らかにしています。ここまで来いよと。第三十三願からあとの願は、自分の立っているここからの一歩の歩み出し、日々の生活の具体的内容を明らかにしています。その中第二十一願と第二十二願は、総願といって、一口で念仏生活はこれだと、輪廓を示したのです。第二十三願からあとは、その具体的内容です。その中で第二十一願から第三十願までが、第十九願の人間成就とは、こういう人間になることだと、その内容を、また第三十一願と第三十二願が、第二十願の自分じぶんの国を創造するというが、どんな国を造ったらよいのか。それに答えた願なのです。
<中略>
 仏教も初めの頃は、人相は問題になりませんでした。出家仏教ですから。妻を捨て、世間を捨てて、一人山の中で修行している人には、人相が良かろうが悪かろうが問題ではありません。
<中略>
私たちの生活は、この顔と声でほとんど占められているのと違いますか。そこで大乗仏教では、三大アソーギ劫という永い間修行して、善根功徳を積まねばならぬが、最後の仏になる一歩手前で、百大劫の間かかって、相好を成就するといわれているのです。・・・それをこの『大無量寿経』では、さとった立場から自覚的に、大局観に立って、一生何をしてもよろしいが、自分の顔と声が美しく、人から親しまれるような人間になるように生きなさいと、一番あとにあった相好成就ということを最初に持って来て、人生生活の羅針盤にしておるのです。何をしてもよいといいましても、朝から晩まで、この婆が、この爺がと、心でにらんでおれば、どんな美しい人でも、いつの間にか恐ろしい鬼のような人相になっており、声や言葉もとげとげして来ますよ。どんな難解な仏教哲学も、どんな難しい仏道の修行も、この相好成就というかんたん明瞭なことにこもっていることを見出だしたのです。どうですか、素晴らしい発見、素晴らしいさとりでしょう。これは絶対間違いのない事実でしょう。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 如来のお心に遇ったよろこびは、内面にとどまらず、顔をはじめ全身にあらわれるのです。逆にいいますと、内面にとどまらず全身にあらわれて、はじめて、本当のよろこびであるということです。
 親鸞聖人は、

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」は心によろこばしむるなり  (一念多念証文)

と、阿弥陀如来のお心に遇った「信心」のよろこびをあきらかにしてくださっています。  「信心」のよろこびが姿の上には、「三十二相の仏のすがた」となってあらわれるのです。「もし、そのようにならなかったら、わたしは決してさとりを開きません」とまで、阿弥陀如来はいいきられているのです。
<中略>
 眼は紺碧にして眼睫は牝牛の如し(目紺青相・牛王睫相)
といわれる相を味わってみますと、これは、如来の眼は紺碧の海のように澄み、まつ毛は牝牛のように長し、そして乱れていないということです。・・・阿弥陀如来のあたたかい心をよろこんで生きるものは、常に、自らのあり方を恥じ、ご恩をよろこんで生きますから、眼も紺碧の海のように澄み、まつ毛も乱れないのです。また、眼が澄むことによって、ものごとが素直に見ることができるようになり、他人のことを思いやる心も自然にでてきます。
<中略>
 最良の味感を有すること(得最上味相)
というのがあります。如来は舌相が清浄で、それぞれのものの味を最高に味わうことができるというのです。私たちの場合はそれぞれのものの味を素直に味わうというよりも、それぞれの好みや、その時の気分で、うまいとか、まずいとかと、文句をいいながら頂きますから、結局、そのものの味をよく味わわないままでいることが多いのです。・・・どのようなものを頂いても、それらの一つ一つの味を味わっていくとき、人生は豊かにふくらみます。信心よろこぶ人は、「最良の味感を有する」人となるのです。
<中略>
 肩先が甚だ円いこと(肩膊円満相)
というのがあります。如来の肩先は大変円いということです。・・・私たちが、すぐに目をつり上げたり、腹を立てるのは、弱さをかくそうとする姿です。阿弥陀如来の大きなお心にであうとき、畏れるものがなくなり、私たちの肩先も円くなるのです。肩をいからせてつかれる人生が、肩先の円いやさしい人生に転じられるのです。
<中略>
 半身獅子の如し(獅子上身相)
というのがあります。これは獅子が何ものをも畏れないように、如来に畏れるものがないので、如来の上半身は獅子の如く威風堂々としているというのです。私たちは自ら敵をつくり、うしろめたいものをつくって身を縮めて生きています。
<中略>
 皮膚は細滑にして黄金の如し(身真金色相・皮膚細滑相)
という相について味わってみますと、如来の身体は金色に輝き、膚はきわめて細やかであり滑らかであるといわれるのです。・・・膚の細やかさは、感覚の繊細さをあらわし、膚の滑らかさは、人あたりのよさをあらわしているのでしょう。共に、信心よろこぶ人のあり方であります。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 おおよそ、二十願までで衆生が如来の御国に往生する因、即ち原因をお誓いになったのでありますが、二十一の三十二相を具えるという願からは、その生まれたものの利益、即ち原因に対しての結果をお述べになるのでありまして、三十二相を具える利益、次に環相廻向をたまわるという利益、そうして供養諸仏、諸仏を供養することが自由にできるようにさせてやりたい、こういう願であります。
<中略>

これその人のたうときにあらず、仏智をえらるるが故なれば、いよいよ仏智のありがたきほどを存ずべきことなり。(一〇六八)※

 信心の人を見ると、誰でもとおっしゃるのですから、鬼瓦のような顔をした人でも、非常に不別嬪で顔がゆがんでおるような人であっても、まず見ればすなわちとうとくなり候、蓮如上人は、又それに自惚れぬように、誰が見てもそう見えるのは、これはその人が尊いのではないのだ、仏智を得られるが故なればそうなるのであって、仏智の尊さというものを知らねばならぬ。人を見ずしてそのもとの仏智を尊べよ、本願のお力を尊ばねばならんぞ、ということをおっしゃったのであります。又非常に、可愛がられないようなものが可愛がられたり、尊ばれないようなものが尊ばれるようになれば、それは自分がえらくなったからだと思うなよ。仏智がお働き下さったがためだから、自惚れてはならぬ。即ち三十二大人相を具せずんばおかんとおっしゃったが、それは仏智、願力のお力であるということを忘れるな。こういうようなことを暗示しておられるのではないかと思うのであります。
 ・・・土のついたようなお婆さんであっても、お念仏を喜ぶ信心の人を見ると、それは非常な美人を見ているよりももっと立派ですな。是人名分陀利華で、善導大師が上々人、希有人、最勝人、好人、妙好人とおっしゃるように、非常にうるわしい立派な人であるとおっしゃることは、この三十二大人相を具せねばおかぬとおっしゃる願力のおかげであろうと思うのであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 一〇六八 =浄土真宗聖典註釈版 P1299『蓮如上人御一代記聞書』210 「これその人のたふときにあらず、仏智をえらるるがゆゑなれば、弥陀仏智のありがたきほどを存ずべきことなりと云々」)

だから念仏往生ということは、われわれの人生においてもっとも正しい生活態度であるということになりましょう。その正しい生活態度から造られた肉体相好は、すなわち三十二大人相でなくてはならないのであります。もう一つほかの言葉で申しますと、われわれの心が救われたならば、たとい蒼い顔をしている人でも、だんだん法の話がわかってきて、魂が救われてきますと、その蒼い顔に色が出てきて美しい顔色になってくるのであります。どういう関係が精神と肉体の間にあるか、学問上のことにはいろいろ千差万別の説があってわかりませんけれども、とにかくわれわれの精神が救われますと、それがすぐ肉体に影響して、そうして色艶のない者にも色艶が出てくる。こういうことであります。ほんとうに仏の道がわかるならば相好が変るということは、当然すぎるほど当然なことであろうと思うのであります。人相の悪い人でも人相がよくなり、貧相な人でも福々した人になるのであります。申すまでもなく肉体にも運命があって、弱い人が強くなるとか、やせた者が肥えるとかいうことにはならないでしょうが、しかしやせたなりで、何かしら肥えたように見える、病んでいても病んだなりに、どこかしら健康が恢復したようになるということは、これは当然なことであります。そこで十方衆生を呼んでの三つの本願についで、相好の本願が出てきたということは、そこに自然の移りゆきが見られるのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

 三十二大人相

三十二相を『大智度論』より列挙し、諸師の領解も同時に示します。

  1. 足下安平立相[そくげあんびょうりゅうそう]: 偏平足で、立つと大地に足が密着する。/どっしりと大地に足が着き、落着いている/大きな足跡を残す。

  2. 足下二輪相[そくげにりんそう](千輻輪相[せんぷくりんそう]) : 足の裏に、転輪聖王が乗る車の輪のような紋がある。/皆がなびき、生活にさまたげがなくなる。

  3. 長指相[ちょうしそう] :手の指が、美しく細く長い。(手は慈悲をあらわす)

  4. 足跟広平相[そくこんこうびょうそう]: 円く長いかかと。

  5. 手足指縵網相[しゅそくしまんもうそう]: 手足の指に水かきのような膜がある。/苦悩に満ちた世界を泳ぎ渡りきる。/人々を慈悲のはたらきで漏れなく救う。/どんな小さなことでも、見のがさない。

  6. 手足柔軟相[しゅそくにゅうなんそう] :手足が柔軟である。/愛情が行動に現われる。

  7. 足趺高満相[そくふこうまんそう]: 高い足の甲。

  8. 伊泥延膊相[いにえんせんそう]: 腿が鹿王のように円く発達。/行動が敏捷で、心が軽快。

  9. 正立手摩膝相[しょうりゅうしゅましつ相]: 直立した時、手が膝をなでるくらいの長さがある。/慈悲のはたらきが遠く確実におよぶ。

  10. (馬)陰蔵相[めおんぞうそう]: (馬のように)平常は陰部が体内に隠されている。/智慧により性欲がコントロールされている。

  11. 身広長等相[しんこうちょうとうそう]: 身長と広げた両手幅が同等。/バランスのとれた人格。/全てが満遍に調っている。

  12. 毛上向相[もうじょうこうそう]: 身体の毛がすべて上向きに生えている。/菩提心・向上心に満ちている。

  13. 一一孔一毛生相[いちいちくいちもうそう]: 菩提心に無理がなく無碍である。/常に道の第一歩に立っている。

  14. 金色相[こんじきそう]: 全身が微妙金色に輝いている。/全身が真心のかたまりで輝いている。(悉皆金色の願 参照)

  15. 丈光相[じょうこうそう]: 身体の周囲に一丈の長さの光が輝いている。/徳が周囲におよぶ。/その時その時の足元を照らし、自分の居る所を幸せにする。

  16. 細薄皮相[さいはくひそう] :膚が細やかであり滑らか。感覚が繊細で人あたりがよい。/人間関係が滑らか。

  17. 七処隆満相[しちしょりゅうまんそう]: 両手・両足・両肩・頭の肉が隆起。 /人格がふくよか。

  18. 両腋下隆満相[りょうえきげりゅまんそう]: 脇の下の豊富な肉。/人格がふくよか。

  19. 上身如獅子相[じょうしんにょししそう]: 獅子のように堂々とした上半身。/畏れるものがないので、獅子の如く威風堂々としている。/王者の風格を具えている。

  20. 大直身相[だいじきしんそう]: 端正な身体。/正直で偽りなく、信頼感を与える。

  21. 肩円満相[けんえんまんそう]: 豊かな肩の肉。/心豊かでおのずと貫禄が出る。

  22. 四十歯相[しじゅうしそう]: 四十本の歯。/物事の深い意味をよく噛みしめる。/「四」は浄土の常楽我浄の四徳をたとえている。

  23. 歯斉相[しせいそう]: よい歯並び。/人生をよく咀嚼できる。

  24. 牙白相[げびゃくそう]: 白く美しい犬歯。/私ごとの憤りが、公の憤りに高められる。

  25. 獅子頬相[ししきょうそう]: 頬が獅子のように隆起。/厳しい人生を生き抜くたくましさがあり、人に安心感を与える。

  26. 味中得上味相[みちゅうとくじょうみそう]: すぐれた味覚。/最良の味感を有する。/経験を真底味わうことができる。

  27. 大舌相[だいぜっそう]: 耳に達し、顔を覆うほどの長い舌。/一言ひとことが、永遠真実に契っている。

  28. 梵声相[ぼんじょうそう]: すばらしい声。/声も言葉も、まごころから出て深みがある。

  29. 真青眼相[しんしょうげんそう]: 紺碧の海のように澄んだ青い瞳。/見る目が底光りして、見方に無限の深みがある。

  30. 牛眼睫相[ごげんせいそう]: 牛のようなりっぱ乱れのないまつげ。/ものごとを素直に見ることができる。

  31. 頂髻相[ちょうけいそう]: 髻[もとどり]のように頭の頂上の肉が隆起している。/どこまで測っても、如来の尊さや智慧の頂上は見えない。/智慧の高さは、測っただけは自分のものになっているが、測っても測っても先がある。

  32. 白毫相[びゃくもうそう]: 眉間に白毛が右旋していて、常に光を発している。/白毛は老いの徳、右旋は順境を現わす。/智慧が自然[ジネン]で、常に人々を照らしている。/人生経験を通った具体的な智慧と慈悲がはたらく。/この相が三十二相の中心。

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