平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを

― 死後の世界や輪廻転生の邪説を厳しく批判 ―

質問:

今の子供達の多くが、人は死んでも生き返ると思っているそうです。子供が子供を殺してしまうような事件が起こるのも納得してしまいます。アニメや映画の影響だと言われていますが、教団の責任は大きいような気がしてならないのです。

「死んだら浄土」とか、「亡くなられた方は仏になられた」とか、「死んだら浄土でまたあおう」と安易に言い、人の死を真剣に悲しみ、考える場を奪っているのではないかと思うのです。今までは、そのように考えておられる僧侶がいても、生意気だと思われたくなかったり、異端児扱いされるのが嫌だったり、反感を買うことを恐れ、本当の事を共に学びたい、本当の友になりたいと思う心を抑えて見て見ぬ振りをしてきました。でも、その「見て見ぬ振り」がこの様な悲しい事件を生み出したのかもしれないと思うと自分が情けなくて、勇気を出さなくてはいけないと思いながらも、なかなか出ない、と、悶々としています。考えすぎでしょうか。

返答

 迷信の根源が霊魂不滅の輪廻転生思想

 本当に、仰る通りだと思います。
 以前、「生き返る」と信じさせ、ミイラ化した遺体を叩かせた偽宗教者が居りましたが、「生まれ変わり」を説く偽仏教者も結局は同罪でしょう。現在の仏教界の中にはそうした迷信がはびこっています。そして残念なことに、浄土真宗の中にもそうした思想が紛れ込んで正法が汚されかけていますので、法を学ぶ際には気をつけなければならないでしょう。せっかく親鸞聖人が龍樹菩薩の意を汲んで「悉能摧破有無見」と『正信偈』に述べてみえるのに、有見に固執する人が後を絶ちません。

「唯だ一たびのこの命」という厳粛な現実の場に立たなければ、一体何を覚るというのでしょう。何をもって往生というのでしょう。二度と訪れないこの一日一日、やり直しの利かない生活の現場に立たない人は、真の浄土に生まれることは不可能です。安易に「死ねば仏だ」とか「信じれば浄土に生まれる」などと訳も解らず思って、詳しく内容を問わなければ、その境涯は不定聚・邪定聚で、ここには菩提心もなく諸仏を供養することもなく、だらだらと安逸を貪るだけの生活が待っているのです。曇鸞大師も親鸞聖人も「楽しみを貪るために往生を願うのであれば、往生できないのである」と、菩提心の起こらない人のことは厳しく批判されてみえます。{※資料1▼ 参照}

 釈尊の真意は、輪廻転生や死後の世界を実相として語るバラモン教を批判(否定ではない)し、宗教的真理を固定化実体化する理性を批判し、宗教的動機を問い、道理に合った正しい法を説かれたのです。しかし後世に未熟な僧侶が多数出て、仏意に反して輪廻転生を実相として理解してしまったのでしょう。正しい仏教は、死後ではなく、どう生きるかを説くのですが、こんな基本さえ今は忘れ去られようとしています。このことは、歎いても歎き足りない仏教史の汚点です。
 輪廻転生の思想は、カーストという身分差別を正当化する悪思想なのですが、この思想を固定化するところに展開するのはやはり悪辣な差別の正当化で、実際、日本においても身分差別が根付く原因になってしまいました。しかも、これが仏教の誤解からきている、ということが解ると、私は実に情けなく忸怩[じくじ]たる思いをします。これは名のある学者でさえ誤解がありますので、辞典を引く時も気をつけなければなりません。 (参照{魂という概念}{六道輪廻と浄土について}{業道輪廻転生を否定する、これで仏法者か} 等)

 しかもさらに驚くべきことに、浄土真宗の僧侶の中にも、霊魂不滅的な死後の浄土に固執し、まるで平安時代の幻想的な浄土往生を説いているような人さえ見受けられます。中世の頃ならいざ知らず、現代人がこんな迷信を信じる意味などあるのでしょうか。さらに宗旨を離れれば、「往相と還相の二種回向は輪廻転生のことである」などという邪説を、あたかも親鸞聖人の思想であるかのように説明している有名な学者さえいます。
 これでは「宗教は民衆の阿片である」とのレーニンの批判が、そのまま仏教にも当てはまってしまいます。厳しいご縁に遇われた方を慰めたい気持ちは分かりますが、道理に外れた慰めは道を誤る元でしょう。仏教者のたしなみとして、迷信を語らず、真実とその譬えとしての言葉のみを語る姿勢は貫かねばならないでしょう。

 浄土真宗では、日柄や方角などの枝葉末節の迷信に対しては厳しく批判するのですが、迷信の根源である霊魂不滅の輪廻転生思想は批判しないどころか肯定する僧侶さえ居ます。これではどっちが迷信の喧伝者か、と問われてしまいます。 釈尊や 親鸞聖人のご苦労はどこに飛んでしまったのでしょう。獅子身中の虫とも言うべき人が「仏教の威儀をもととして」いますので油断ができません。

 ご質問者は<人の死を真剣に悲しみ、考える場を奪っている>環境、また<異端児扱いされるのが嫌だったり、反感を買うことを恐れ>なければならない環境におみえになるのですね。心ある人が組織の中で孤立感を深めることはよくある話です。<勇気を出さなくてはいけないと思いながらも、なかなか出ない、と、悶々としています。考えすぎでしょうか>というような状況もよく聞くところです。

 しかし幸いなことに、浄土真宗は本音で話し合える場が沢山あります。反感を買うことを恐れず、「どうしても往生の内容や道理が解らないから聞かせて下さい」と言ってともに学べば、弥陀成仏のいわれを詳しく聞くご縁になると思います。これは、即得往生が生活の場において相続されてゆく、ということを、頭で納得するのではなく、お育てとして実感していただくことになるのです。この点で、『歎異抄』2の記述は問題点をはらんでいますので、批判すべき箇所といえるでしょう。

 ただし、以上のことは「死んだら何もかもお終いだ」という「無見」を言うのではありません。無見も虚無主義に陥りますので邪説として批判しなくてはならないのです。寿命[いのち]の本質は何なのか。有限と無限と歴史の関係を正しく見てこそ真実が明かになるのです。

 常楽我浄の四顛倒

 ところで、こうした問題を大乗仏教において語る上で、どうしても理解しておかねばならないのが、「常楽我浄」について「有為の四顛倒」と「無為の四顛倒」があるということです。これは大乗仏教の基本ですから、宗旨の別なく僧侶はとりあえず知識として必ず知っておいてほしいところです。 親鸞聖人もよく『涅槃経』を引用されてみえますが、この経典は未整理ながらも部派仏教と大乗仏教の立場の違いを端的に顕わしています。

 たとえば、部派経典の『涅槃経』と違い、大乗経典の『涅槃経』(哀歎品[あいたんぽん])では、以下のようなことが記されています。――

 釈尊が自身の入滅を宣言されると、人々は驚き翻意させようとします。しかし釈尊は入滅が一切衆生のための慈悲の方便であることが示されます。そこで比丘たちは、自分たちの到達した境地を釈尊に申し上げ指示を仰ぎます。「無我なるものを我と思い、苦を楽と思い、無常を常と思ってとらわれている私の顛倒を破くため、無我・苦・無常を観じ修得しました」と。
 すると釈尊は、「それはよいことだ」とほめます。しかしまた、「それだけでは十分でない」とも言われます。
 楽でないものを楽と思い、常でないものを常と思い、自我でないものを自我と思い、清浄でないものを清浄と思っているので、修行者は、苦相・無常相・無我相・不浄相を修するが、しかしまた、常なるものを無常と思い、我なるものを無我と思い、清浄なるものを不浄と思い、楽を苦と思っている間違いを指摘します。
 ここでは有為の四顛倒と無為の四顛倒が語られ、常楽我浄の四顛倒は消極面では否定しますが、積極面ではそれを肯定します。現象の世界は、無常・苦・無我・不浄ですが、永遠の世界では、常・楽・我・浄であるということです。
 そして「無我とは生死のことであり、我とは如来のことである。無常とは声聞・縁覚のことであり、常とは如来の法身である。苦とはすべての外道のことであり、楽とは涅槃のことである。不浄とはこの世界の在り方であり、浄とは仏菩薩の正法である」と不顛倒の境地を現します。
 これによって釈尊入滅も現象面では諸行無常を示しますが、そのこと自体に如来法身が常住であることが示されているのです。
 また、乳薬には毒もあれば甘露もあることを比喩に、我(アートマン)の存在を諭します。
「(如来は)大医王としてこの世に出現し、外教の邪医を調伏すべく、無我と教えたが、条件の調ったところで、また我(アートマン)が有ると教えるのだ。それは拇指(おやゆび)の大きさだったり、芥子粒ほどであったりするのではない。そのような我は存在しないから、如来は諸法無我を教えたのだ。しかし、真実には我がないわけではない。では何が真実の我であるのか。それは真実なるもの、常住・不変で衆生たちの主であり、依りどころたるものをさすのである」と。

 常楽我浄の四顛倒は、「四諦品[したいぼん]」においては「如来の甚深の境界、常住不変微密法身を知らずして『これ食身、これ法身に非ず』と謂う。如来の道徳、威力を知らず。これを名づけて苦と為す」、とあり、「四倒品[しとうぼん]」においても「もし如来これ無常と説かば、大罪苦と名づく」と語られます。

 迷った人々が「我」と聞いて思うのは、親指や芥子粒のような存在。つまり霊魂不滅の邪説によって我執・我欲が固定化し、それによって想像され執着する「我」です。この不滅の霊魂が輪廻転生するという説が、カーストはじめ差別を固定化させてきてしまった正体です。

「このような我は無い」とは、部派も大乗の『涅槃経』も言うことは同じです。またそうした「我」の概念を、「亀毛[きもう]」とか「兎角[とかく]」ともいい、批判しています。「亀毛」とは、亀の甲羅についた藻を毛と見間違うことで、これは例えば曇鸞大師も『往生論註』(巻上・総説分・作願門・願生問答6)で――「凡夫の謂ふところのごとき実の衆生、凡夫の見るところのごとき実の生死は、この所見の事、畢竟じて所有なきこと、亀毛のごとく、虚空のごとし」(現代語訳:凡夫の思うような固定した衆生があって、凡夫の考えるように、それが実にここに死んでかしこに生まれるというようなこと、そういうことは本来ないので、ちょうど亀に毛のないようにその体がなく、虚空のように空無である)というように用いています。

 ですから、我執によって見た我は本質ではなく無常であり生死を超えることはできませんが、如来こそが常住であり真の我なのです。如来の寿[いのち]であり本質は菩提心ですから、如来の菩提心と同じ菩提心を発こすこと(同発菩提心・他力の菩提心)が重要なのです。この如来の本体であり全ての仏・菩薩を生む先生こそが真実報身の阿弥陀如来であり、この阿弥陀仏の真土不二の浄土から回向される智慧と功徳こそが私に満ち満ちて下さる功徳であり、私の寿命[いのち]そのものなのです。 (参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?} {法身と報身の違い}

 このように、如来に遇うということがいかに大切であるか、常住・金剛の菩提心を回向されることがいかに大切であるかがわかるでしょう。私の寿命の本質は菩提心であり、これは私の存在の奥底に伏流する心であり、これは決して失われることの無い心であり、先人たち全ての叫びを宿し、未来を切り開く鍵となり、社会を支え歴史を創造する力なのです。

 具体的には、大無量寿経を依りどころとして「聞く」。この「聞」は、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」{※資料2▼ 参照} と 親鸞聖人が仰るように、四十八願と、その因果によって浄土が建立される浄土のありさまを、我が身の世界として聞き、我等が家庭、我等が社会・国に伏流する本質として見出すことです。玉石混交の故に解らなかった現実の娑婆の有様と、一切を清浄・荘厳たらしめんとする浄土を見分ける智慧を得たことなのです。

 私たちは、阿弥陀仏の浄土のはたらきを身に満たし、五濁・宿業の娑婆に生きながら、浄土の功徳を発揮する場を我が国土として築いてゆく。私にしか生み出せない彩りを現実に発揮していくことが、念仏者の生きる勤めとなるのです。

 「死んだら浄土」の真意

 さて、ご質問において――
「死んだら浄土」とか、「亡くなられた方は仏になられた」とか、「死んだら浄土でまたあおう」と安易に言い、人の死を真剣に悲しみ、考える場を奪っているのではないかと思うのです。

と書いていただきましたが、「安易に」という言葉がありましたので、これを「短絡的に」とか「故を問わず・仏願の生起本末を聞かず」という意味に解しましたので、肯定して引かせていただきました。では「死んだら浄土」とか「亡くなられた方は仏になられた」等と何故言われるようになったのか。これは本当なのか嘘なのか。これらのことを明かにしなければ同様の誤解が生じてしまうので、補足説明を入れさせていただきます。

 これは経典に載っている真心の言葉を、理性で解釈してしまうからこういう誤解が生じるのです。例えば如来の本願第二願{不更悪趣の願}には、「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ」とあります。このことについて 島田幸昭師は――

「寿終わって後」というのは、浄土の人天が、浄土の命が終わって、この世に生まれた時ということです。しかしこれも前に申しましたように、中世の人たちが考えたような、死んで魂が浄土へ生まれて、一晩泊まりでまたこの世に戻って来るという、おとぎ話ではありません。このことは、さっきの三世間の話を憶い出して頂けばよいのですが、別の言葉でいえば浄土はさとりの世界、如来世間のことですから、私たちからいえば三昧の世界と思えばいいでしょう。ただし三昧といっても、冥想のことではありませんよ。心の眼が開けた、そこに見えてくる世界のことです。お釈迦さまが「奇なるかな奇なるかな、我れ心の眼を開けば、山川草木悉くすでに成仏し、一切の衆生は皆仏性を有っていた」といわれた。そういう世界だと思っておって下さい。迷いの世界とは、この眼を開けた現実の五濁悪世のことです。お経の中によく「閉目開目」という言葉が出てくるでしょう。<中略>この姿は仏は、三昧の世界の浄土を見る閉じた目と、現実の迷いの世界を見る開いた目の、二つの眼を併せ有っていることを象徴しているのです。ですから、浄土の「寿終って後」というのは、目を閉じた三昧の世界から立って、目を開いた現実の生活に戻った時ということです。もっと解りやすくいえば、仏壇の前に坐っていたものが、茶の間へ来た時ということです。

と懇切丁寧に教えていただいておりますが、こうした言葉の奥に示される真心を知らず、表面の意味だけで理解しようとするから迷信に堕してしまうのです。

「寿終わって後」はまた、宿業によって菩提心が徹底しないわが身を歎く涙の言葉としても用いられます(参照:{女人往生の願}})。「せめて臨終後には」という言葉には、頭では解っていながら、回向された智慧がなかなか身につかない現実が懺悔されているのでしょう。真心のある人は正定聚の菩薩であるが故に、「私は既に正定聚の菩薩である」などとは宣言できないのです。
 親鸞聖人も、「私は信心頂いておりますから、当然正定聚不退転の菩薩です」などとは仰られず、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『正像末和讃』 悲歎述懐 94)と歎かれ、曇鸞大師も、「鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」(『高僧和讃』 曇鸞讃25)とありますように、正定聚の菩薩だからこそ、正定聚の菩薩として徹底しない我が身を歎くのです。

 また経典に聞きますと、『仏説観無量寿経』には「三種の心を発して即便往生す」とありますが、「即便往生」は「即(得)往生」と「便往生」に分けることができます。「即得往生」について『仏説無量寿経』では――

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。

『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 十八願成就 より

意訳▼(現代語版 より)
すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。

と述べてあり、「願生彼国 即得往生 住不退転」こそが往生の要めと聞かせていただいております。
 では「便往生」については、方便の往生だから即得往生の後は不必要になるのか、さらに「当得往生」はどういう意味で経典で使われているのでしょう。また「皆当往生」という言葉もありますが、これはどういう内容なのでしょう。

 簡単に説明しますと「当来」ということが問題になっているのです。これは例えば、「未来」は「未だ来たらず」で、永遠に訪れない先の時をいいます。「将来」は「まさに来たらんとする」で、来ることが充分期待できる時をいいます。そして「当来」は「まさに来たらんとすべし」で、必ず当然訪れる時をいいます。
 この「当来において往生する」ということが、一念往生・即得往生を得た正定聚・不退転の菩薩の死をもって得る往生です。信の一念が開けた念仏者に対し「死んだら浄土」と言われるのは、こうした義があるからです。

 しかし短絡的に「当来は死後」と決めつけてしまうと、内容が問われませんので何の解決にもなりません。仏教は決めつけが最もいけないのです。当来については、「一念往生」と「十念往生」の関係をはっきりさせなければなりません。
「願生彼国 即得往生 住不退転」の信の一念の時、これは「至心・信楽・欲生の三心」、つまり如来の菩提心が回向された瞬間を言うのですが、真実報身よりふりむけられた三心(合して一心)によって「住不退転」(入正定聚)を得る。「生まれんと願うその時即に往生」で、当然生きている時のことですから「不体失往生」ともいいます。ここでは如来の智慧を得ることができ、この境地は「念仏三昧」とも「般舟三昧」とも「諸仏現前三昧」とも言いますが、諸仏に出遇うことが適う境地です。生活の場で言いますと、現実に目の前の人々を諸仏と見て尊敬し、相手の世界を諸仏国土と味わい尋ねていく姿勢が整うことを言います。(参照:{本願の三心}
 そして、実際に尋ね歩いて念仏三昧する、つまり諸仏現前三昧を継続させていくこと。信の一念が継続して、現実に周りに居る人々を尊敬し続けていき、さらに「往覲偈」にあるように、行者自らと行者自身の国土が浄土の功徳で満たされてゆくことを十念といいます。これは第十八願に、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん」の「十念」の解釈で、梵語の意を汲むと、信心が一生相続してゆく相が十念なのです。「十は満数で、その一念が一生相続して行く相を誓われたもの」という島田幸昭師の領解は見事としか言いようがありません。
 つまり、「即得往生」が「一念往生」・「不体失往生」ならば、「当得往生」は「十念往生」であり、本当はこれが「便往生」の内容なのです。すると「便往生は方便の往生」という決めつけも問題で、生活や形に現われるからこその方便であり、これは即往生の前の方便ではなく、即往生の後の展開であると受け取るべきでしょう。

 以上のように一念が一生相続するのが十念で、生きている今の自分は、まだ寿命が残っている可能性があるのですから、「十念が満たされた」とは言い切れません。ただし、次の瞬間に死ぬ可能性もあるのですから、「十念が満たされていない」とも言い切れません。「一日一日に死んで、一日一日に生きる」という意味では、一念往生も十念往生も同じなのです。しかし全体として言えば、長年「念仏のお育てにあずかる」という意味で十念往生が満たされるのは、結局臨終においてしかありません。「当得往生」を「臨終往生」とも「体失往生」と言うのも、こうした面があるからです。(参照:{後生の一大事について}

私という柿
熟するのは
私の 死後になりそうだな
何しろ この柿
熟するのに
まだながい年月が
かかるので

(榎本栄一)

 ここまでは、現在生きている人間の問題として当得往生を解してみましたが、先祖・先人たちについてはどうでしょう。「故人になれば皆な仏」というのは、本質としては即得往生から当得往生に至るのですが、即得往生を得た念仏の行者でも宿業・悪業が消えることは無いので、周囲の人間にとってみても、中々「仏・菩薩」とは尊敬できないのです。しかし、故人となられてから、あらためてそのご生涯を振り返ってみると、「一つひとつの行為には毒が混じっていたかも知れないが、行為の奥に潜む本質は仏そのもの、菩薩としての生涯を全うされたのだなぁ」と、歎じることになります。『恵信尼消息』も、聖人生前は文通も途絶えていたのに、示寂後には菩薩と見る心境で手紙を書かれてみえます。ここに先祖供養(追善供養ではない)の本質があるのではないでしょうか。

 なお、信心の生活の実際の内容と実践方法につきましては、 {正定聚・不退転の菩薩について} を参照して下さい。

 さらに言えば――

この語を説きたまふとき、韋提希、五百の侍女とともに仏の所説を聞く。時に応じてすなはち極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり。五百の侍女、阿耨多羅三藐三菩提心を発して、かの国に生ぜんと願ず。世尊、ことごとく、「みなまさに往生すべし。かの国に生じをはりて、諸仏現前三昧を得ん」と記したまへり。無量の諸天、無上道心を発せり。

『仏説観無量寿経』 得益分 31

意訳▼(現代語版 より)
 釈尊がこのようにお説きになると、韋提希は五百人の侍女とともにその教えを聞いて、たちまち極楽世界の広大なすぐれた光景を見たてまつった。さらに阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができて、心から喜び、これまでにはない尊いことであるとほめたたえ、すべての迷いが晴れて無生法忍のさとりを得た。
 そして五百人の侍女も、それぞれこの上ないさとりを求める心を起して、その国に生れたいと願った。そこで釈尊はすべてのものに対して、みな往生することができ、その国に生れたなら諸仏現前三昧を得ると約束され、これを聞いた数限りない天人も、みなこの上ないさとりを求める心を起したのである。

にある「皆当往生」は、個人だけではなく、「一切衆生が当得往生する」という内容なのではないでしょうか。ここにおいて、「死ねば皆な仏である」という言い方も可能なのですが、これもやはり内容を問わなければなりません。一切衆生が「皆当往生」するにも因果を無視することはできないのです。何もせずに「死ねばみな仏」などという道理はありません。

 これは今まで述べてきましたように、一人ひとりが「即得往生」し、三心の一念が継続して「十念往生」・「当得往生」し、やがて社会に広がって「皆当往生」となるのですが、当然ここには念仏の功徳と、それを自らの国において行じる念仏行者の内容が問われることになります。念仏の功徳は、それを行じる行者を通してのみ現われるのですから、念仏の行者には社会に対してそれだけの責任があると言えるのです。「死ねば皆な仏である」と言うのは、社会的立場に立って「私にそれだけの内容があるのか?」と問われる言葉でありましょう。社会的自覚に立たないところで「死ねば皆な仏」などと言うのは、自らに問われる課題を放棄していますので、結果として迷信と一つも違わないと言えるでしょう。(参照:{名号のはたらきと勅命}
 ですから先に、釈尊について、「宗教的真理を固定化実体化する理性を批判し、宗教的動機を問い、道理に合った正しい法を説かれた」と書きましたように、真理も安易に理性で固定化・実体化すれば、一瞬でこのような邪説が展開してしまうのです。
 こうした邪説がいかに世にはびこっていることでしょう。

 聖典等資料

※資料1

 王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。

曇鸞著『往生論注』巻下 解義分 善巧摂化章 菩提心釈 より
(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
 王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな、無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心はそのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を摂[おさ]め取って、阿弥陀仏の浄土に生まれさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生まれようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀如来の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。
 総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自から積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。

※資料2

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

顕浄土真実教行証文類 信文類三(末) 信一念釈 65

意訳▼(現代語版 より)
 ところで、『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末[しょうきほんまつ]を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至[ないし]」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心[ふたごころ]がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなはち清らかな報土に生まれるまことの因である。
 金剛の信心を得たなら、他力によって速やかに五悪趣[ごあくしゅ]・八難処[はちなんじょ]という迷いの世界をめぐり続ける世間の道を越え出て、この世において、必ず十種の利益を得させていただくのである。

※資料3

「宿命」とは、「前世から定まっている運命」ということが、今日の社会通念となっていますが、仏教ではそういう考えを、「宿作外道」といって嫌っています。仏教でいう「宿命」とは、現在自己に与えられておる運命や、その時降りかかった運命を、何ぜこんなことになったんだろうと、自分の運命を恨んだり呪うたりしていた心が翻って、ああそうか、こうならねばならぬ自分であったか、こういう運命を生きねばならぬ自分であったかと、「さとる」ことをいうのです。宿作外道とよく似ていますが、どこが違うか、違い目が解りますか。宿作外道は、前世というものがあって、すでに自分がこの世に生れた時から、ちゃんとこうなるように決っているのだと、頭で考えて、自分に言い聞かせているので、それは前世の借金払いという考えですが、あきらめるための「窮余の一策」でしょう。その前世とはどこのことでしょう。その前世とはどこのことですか。どんな悪いことをしましたかと、突っ込んで聞いて見れば、何んにも解ってはいません。ただそうだろうという感じがするだけです。私の母はいつも「だろう根性」を捨てよと誡めていました。仏教の言葉は、この宿命に限らず、すべてさとった人の胸から出たまごころの言葉です。自覚の内容となっている言葉ですから、まだ自覚しておらない人が、その言葉だけ聞けば、言葉が抜け殻となって死んでしまいます。仏教でいう「宿命」とは、前世があるかないか、そういうことは一切関係なしに、頭で考えるのではない。まごころの智慧をもって、現在只今の事実をさとるのです。あきらめるのではない。引き受けるのです。いやじゃいやじゃと、逃げたい心一ぱいであったが、ああそうか。こういう運命を生きねばならぬ自分であったか。受けなければならぬ運命は受けていこう。このまま生きていきましょうと、与えられた過去的な一切のものを背負うて、それに執われず、さあ用意ができた。今までの一切は、今の自分を産み出す用意であった。これからどう生きるかと、明るい自由な立場に立って、新たに自分の運命を切り開いてゆく、前向きの態度のことをいうのです。外道の宿命は、ぶきみな暗さや影がつきまといますが、仏教には現実の厳しさを踏まえて、常に明るさ、さっきの「不断の智的快活」があります。
<中略>
 真宗の人は、宿命と宿業をごっちゃに使って、皆宿業といっています。ついでですから、いっておきましょう。「宿業」も前世の業といわれていますが、これも宿作外道の考えです。そういう考えの根底にあるものは、「輪廻転生」とか、「霊魂不滅」ということですが、仏教は「無我説」の上に立っていますから、お釈迦さまが一番排斥された思想なのです。日本の仏教には、いろんな迷信が雑りこんでいて、どこまでが迷信か、どこまでが仏教、正法真宗か解らなくなっていて、素人ではない、プロの仏教学者でさえ見分けがつかなくなっている人がたくさんいるのです。今東西両本願寺が、しきりに迷信打破の運動を展開していますが、一番根深い迷信は霊魂不滅の考えだと思っています。この考えが正しい人生観を根本から狂わせている。根本無明の一面です。私はこれが人間の最も深い所に巣くうている魔王の「我執」の側近にひかえている悪魔の大将だと思っています。
<中略>
 この願は、もちろん自分の宿命が解ることには違いありませんが、ことさらに「百千億ナユタ」と、全人類の数を以て、過去の時間の長さを現わしているのは、自分一人の運命は自分一人のものではなく、人類の歴史的宿命であることを言おうとしているのではないかと思います。ここにも大乗仏教の一即一切、一切即一の人生観がでれいるのでしょう。ひとりの人の一挙手一投足が、全世界を動かすとか、三千大千世界が、わずか芥子粒の中に宿っているといっています。

島田幸昭 著『仏教開眼四十八願』第五 得宿命智の願 より



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