還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第三集 14

曇鸞大師讃嘆

【浄土真宗の教え】

 曇鸞大師讃嘆

いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議といふことは 弥陀の弘誓になづけたり

高僧和讃 曇鸞章(三三)

 教行信証眞仏土巻引文に「往生論註上・下」より次の引文がある。
「菩提心を起すことのできない声聞が阿弥陀仏の不可思議な本願のはたらきにより摂取され浄土に往生し、またそのはたらきにより必ず無上菩提心をおこさせる。…・このように菩提心をおこすことができないものに菩提心をおこさせるから、これを不可思議とするのである。だから五種の不可思議の中で仏法が最も不可思議なのである

「不可思議なはたらきとは総じて浄土の功徳のはたらきが思いはかることのできないことを指すのである。さまざまな経の中に五種の不可思議が説かれている。

(教行信証現代語訳四二五〜四二六頁)

 そして、「浄土論」の「荘厳不虚作住持功徳成就」を註釈され「…・・仏力がいつわりでなく変らないのは、因位の法蔵菩薩の四十八願と、果位の阿弥陀仏の自由自在な不可思議な力とにもとづくのである。願は力を成り立たせ、力は願にもとづいている。願は無駄に終わることなく、力は目的なく空転することはない。果位の力と因位の願とが合致して、少しも食い違いが無いから成就というのである」(現代語版四二七頁)と説かれている。

 先に挙げたご和讃はこの曇鸞大師の註釈を受けて讃嘆されたものである。そして先の傍線部読み下し文は「願もって力を成ず。力もって願につく。願徒然[とねん]ならず。力虚説[こせつ]ならず。力願あいかのうて、畢竟[たが]はず。ゆえに成就という」となっている。どの言葉で文をいただいてもありがたい。
 このところをご開山聖人は「いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議といふことは 弥陀の弘誓になづけたり」といただかれたことである。
 中国、梁の天子は曇鸞大師を菩薩とあがめられ大師を礼拝されたという。その曇鸞大師を親鸞聖人は一番といってもよいくらいに尊崇されていた。そのしるしのひとつに高僧和讃曇鸞章は三十四首あり、他の祖師がたに比べ群を抜いて多い。それはあるいは正信偈で讃嘆できなかったところを和讃で改めて称えられたのではないかともお聞ききしています。

本師曇鸞梁天子  常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教  焚焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解  報土因果顕誓願
往還回向由他力  正定之因唯信心
惑染凡夫信心発  証知生死即涅槃 
必至無量光明土  諸有衆生皆普化

現代語訳
・曇鷲大師は、梁の武帝が常に菩薩と仰がれた方である。
・ 菩提流支三蔵から浄土の経典を授けられたので、仙経を焼き捨てて浄土の教えに帰依された。
・ 天親菩薩の『浄土論』を註釈して、浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし、往相も還相も他力の回向であると示された。
・ 「浄土へ往生するための因は、ただ信心一つである。煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、仏のさとりを開くことができる。はかり知れない光明の浄土に至ると、あらゆる迷いの衆生を導くことができる」と述べられた。

意訳 (しんじんのうた)
 曇鸞大師 徳たかく 梁の天子に あがめらる 三蔵流支に みちびかれ
 仙経すてて 弥陀に帰す 天親の論 釈しては 浄土にうまるる 因も果も
 往くも還るも 他力ぞと ただ信心を すすめけり

 曇鸞大師は浄土の教えに遇う前、思念され「人命は老少不定である、ならば長生不死の仙術を学ぼう」と志されて江南の仙人(一説に道士 陶弘景という)から仙術を学び仙経十巻を得られ故郷に帰られるとき、菩提流支に出遇われた、
「仏法の中にも仙術のような長生不死の法があるか」と尋ねられたところ、「世の中の経のどこにそのような法があろうか。唯、仏法には無量寿を得ることができる法がある」と答えられ、「観無量寿経」(一説には無量寿経を授けたともいう)を授けられたという伝えがある。
 そこで曇鸞大師は翻然として大いに慚愧され仙経十巻を焼き捨てられ専らに阿弥陀如来の極楽浄土に往生する教えに帰依されたことを正信偈には、「焚焼仙経帰楽邦」とあらわされている。楽邦とは浄土、そのお浄土は法蔵菩薩が因位のとき、四十八の願いを起され、はかりしれない長い時間を超えてご修行の結果、素晴らしいしつらいの浄土(ゆえに報土という)が完成されたものである、浄土論に示された浄土の荘厳はひとえに阿弥陀如来の願力によるものであることを「報土因果顕誓願」と示されているのである。
 先に「楽邦」とは「浄土」のことと書き示したが、「楽をするために浄土に生まれたいと願うこと」を「為楽願生」という。
 教行信証 証文類 還相回向釈引文(註釈版三二六頁)に「楽しみのために浄土に生まれたいと願っても浄土に生まれることはできない」と次のように往生論註 菩提心釈(七祖篇一〇〇頁)を引かれ次のようにお示しになってている。
「このゆえにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くることひま間なきを聞きて、楽のためのゆえに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし」
 現代語訳:(このようなわけであるから、浄土に生まれたいと願う人は、必ず無上菩提心《この上ないさとりを求める心》をおこさなければならない。この無上菩提心をおこさずに、浄土で絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪るために浄土に生まれたいと願うのであれば、往生できないのである。)
 曇鸞大師が、「還相も往相も他力の回向である。浄土へ往生する因はただ信心ひとつである」と示されたことを「往還回向由他力 正定之因唯信心」と正信偈に讃嘆されている。

天親菩薩のみことをも
鸞師ときのべたまはずは
他力広大威徳の
心行いかでかさとらまし

高僧和讃 曇鸞讃(三一)

 そして「たとえ煩悩に汚れた凡夫であっても、ひとたび信心がおこるならば、未来は浄土に往生して、生死がそのまま涅槃であるということをさとる、すぐれた知見を得る身となる」ことを示されたのが「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」であり、「光明無量の浄土に往生しさとりを得たものは、再びこの世に還り、迷える諸々の衆生を救うために導くことができる」と、「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」の二句に示された。
「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」の二句について利井鮮明師は「要するに彼土に至れば自在に十方世界に至りてもろもろ諸の衆生をあまねく普く化益することを顕すがこの二句なり」と説かれている。

往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり

高僧和讃 曇鸞讃(三五)

「彼土に往生し、この世に還る」、このところは、私たちの生まれ、死ぬるすがたをもって理解する世界ではない。私たちの生死は生滅の世界である。これに対し浄土への往生はその生滅を超えた世界、不生不滅の世界、「無生の生」の世界であるとお聞きしています。(聞法ノート第二集一九六頁〜参照:{往生論註の「願生」について}{往生論註「願生」について 2}

 早島鏡正先生は「浄土への往生」を「我々が浄土に生まれるとは、この世でオギャーと生まれるような生まれ方を考えますけれども、浄土の生まれ方はそうではない。仏教では浄土の生まれ方を化生といいます。変化して生まれる。肉体がそのまま転移して浄土で仏になるというのではなく、全く別の形になるから、それを化生というのです。」といわれている。

如来二種回向文抜粋(註釈版七二一頁)

弥陀の回向成就して
往相・還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行ともにえしむなれ

高僧和讃曇鸞章(三四)

[釈勝榮/門徒推進委員]

 編集註

 まず「仏法不思議にしくぞなき 」について、当然「仏法力不思議」は大切なのですが、その果位の阿弥陀如来の胸には常に因位の法蔵菩薩が宿っています。つまり「業力不可思議」も非常に重要です。もし阿弥陀如来の胸から法蔵菩薩が消えてしまったらその如来は抜け殻であり、過去の栄光にすがる頑固者に過ぎなくなってしまいます。
 勿論、本物の阿弥陀如来は抜け殻にはなりませんが、時として法を説く側が法蔵菩薩の四十八願を通さずに阿弥陀如来の功徳を説く場合があり、こうなってくるとたとえ言葉は経典からとっても、内容は抜け殻になってしまいます。如来の真実義を解したてまつらん≠ニの願いを忘れ、ただ如来は罪悪深重の凡夫である私を確実に救う≠ニ聞いても、内容も道理も手順も明らかにはなってきません。本願を身近に感じない限りどんな救いも絵に描いた餅です。そこで親鸞聖人は、常識では「法蔵の弘誓」とすべきところを「弥陀の弘誓になづけたり」と詠まれたのでしょう。
(参照:{観察門 器世間「荘厳清浄功徳成就」「#何をどう観察するのか」}

「焚焼仙経帰楽邦」については、陶弘景に学んだことを本当に焼き尽くしているのかどうか、という点は留意しなくてはなりません。仙経十巻は焼いても、奥義書まで授かった曇鸞大師の胸から道教は完全に消えてはいないのではないか≠ニ島田幸昭師も仰ってみえます。特に「自然法爾」は陶弘景の思想で、これが曇鸞を通って親鸞聖人にまで影響を与えたとなると、この邪説は早く切り捨てるか、慎重に影響を取り除く必要があるでしょう。仏教はあくまで積極的に自己実現・社会創造を図る宗教であり、自然法爾の消極的姿勢とは一線を画します。
(参照:{往生論註 1}

「化生」につきましては、解りやすく言えば以前とは境地が違う≠アとを言います。境地といっても、自らの境地が高く尊くなったのではなく、足元の現実の尊さ(願土)に目覚めること、私を覚らしめる働きが足元から湧いてくること(本願力回向)に気づく境地をいいます。するとまた、見えた自分自身の眼も見え、足元につながる尊い歴史も見えてきます。
 吉川英治は「我以外 皆我師也」と言いましたが、これは人間も動物も植物も大地も宇宙全体が私の師となる境地でありましょう。しかし仏教では、「皆我師也」と同時に、全ての師が我が世界に内在し息づいていることを発見させます。これは「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは信心をうることなり」(蓮如上人御一代記聞書237)という境地でしょう。

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