聞法ノート 第三集 13
天親菩薩讃嘆
【浄土真宗の教え】
◆ 天親菩薩讃嘆
本願力にあひぬれば むなしくすぐる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
高僧和讃天親章(十三)
親鸞上人は浄土論から「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」を引用され、一多文意に「遇無空過者」とは《信心あらん人空しく生死にとどまることなし》と注釈され、「功徳大宝海」とは《この功徳を信ずる人のこころのうちに、速やかに疾く満ちたりぬと知らしめんとなり。しかれば金剛心のひとは、知らずもとめざるに、功徳の大宝その身に満ち充つがゆえに大宝海とたとえるなり》とひらかれている。まことに知らず求めざるに如来の大悲は凡夫の身に満ちみちているのである。
天親菩薩造論説 帰命无礙光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心
- 現代語訳
- ・ 天親菩薩は「浄土論」を著わして、「无礙光如来」に帰依したてまつると述べ
られた。
・ 浄土の経典に基づいて阿弥陀仏のまことをあらわされ、横超のすぐれた誓願を広くお示しになり、本願力の回向によってすべてのものを救うために、一心すなはち他力の信心の徳を明らかにされた。
- この天親章は天親菩薩の願生偈をうけてつくられている。
- * 世尊我一心 帰命尽十方 无碍光如来 願生安楽国 我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応……・
願生偈にはこのように、天親菩薩のおこころが述べられている。「お釈迦さまを心から仰いで、その大慈大悲のお心によって説かれた教えをいただいて、心から无碍光如来に帰命し念じて一心に安楽浄土への往生を願い、大乗の経典に説かれている如来の真実功徳の相によってこの願生偈を説き仏の教えにかなうことができた。」(棒線部=相応する)
利井鮮妙師は天親章の帰命について「帰命は帰順勅命の義」・「帰命をもって信順教命とし、安心とするの意。信心より起こる礼拝あり。今は帰命より起こる礼拝なれば帰命は即礼拝とのたまう。」と述べている。このことは曇鸞大師の「往生論註」(七祖編 五二頁)に「五念門のなかに礼拝はこれ一[はじめ]なり。天親菩薩すでに往生を願ず。あに礼せざるべけんや。ゆえに知りぬ、帰命はすなはち礼拝なり。しかるに礼拝はただ恭敬にして、かならずしも帰命にあらず。帰命はかならず礼拝なり。」とあることによると思われる。
この願生偈、我一心の『一心』はまた信楽の一心である。生まれたいと願う心これは本願の欲生心であり、如来から与えられ、いただいた『大悲心』であり、それをいただいた相を親鸞聖人は「疑蓋无有間雑 故名信楽」(疑蓋間雑[ぎがいけんぞう]あることなし ゆえに信楽と名づく)とお示しになった「信楽一心」なのであり、如来の大悲心(他力回向の真実信心)なるがゆえに必ず報土の正定の因となると聖人はお示しになっている。
「我一心」の《我》について桐渓順忍和上は、「曇鸞大師は、仏教では無我と説くのに、天親菩薩が《浄土論》に《世尊我一心》と《我》というたのはいかなるわけかと問い、その答えに、我というには意味は、邪見我(常に変らない我があってわたしの全体を支配していると考える我)、第二には自大語(他のものよりも勝れていると主張するための我)、第三は流布我(他のものと区別する我)とがあると示している。その中の第三の流布我ともいえる私というてよいのではないでしょうか。だから、なにが浄土へ参るのかという問いにたいしては、私が参いらしていただくのだというてよいでしょう。その私とはどんなものかということになると、仏教でいう無我の我であり…・」と述べておられる。
- * 往生論註原文読み下し
- 「問いて曰く、仏法の中に我なし。このなかになにをもってか我と称する。
答へていわく「我」というは三の根本あり。一には邪見語、二つには自大語、三にはこれ流布語なり。いま我というは天親菩薩の自指の言にして、流布語を用いる。邪見と自大にあらず。」(七祖編 五二頁)
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆聚
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
- 現代語訳
- ・ 本願の名号に帰し、大いなる功徳の海に入れば、浄土に往生する身と定まる。
・ 阿弥陀仏の浄土に往生すれば、直ちに真如を覚った身となり、
・ さらに迷いの世界に還り、神通力をあらわして自在に衆生を救うことができる。)
- 教行信証行巻に親鸞聖人が浄土論から
- 「仏の本願力を観ずるに、まうあふ遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに大宝海を満足せしむ。」(註釈版一五四頁) と引かれている。
- 「一念多念文意」に、
- 「《遇》はまうあふといふ、まふあふと申すは本願力を信ずるなり」、
「《むなしく過ぐる人なし》とは《信心あらん人、むなしく生死にとどまるなし》」、
「大宝海」とは「よろずの善根功徳満ちきわまるを海に譬えたまう」、
それゆえ「この功徳を信ずる人の心のうちに速やかに疾くみちたりぬと知らしめんとなり。しかれば金剛心の人は、知らずもとめざるに、功徳の大宝その身に満ち充つるがゆえに大宝海とたとえるなり。」と註釈されている。
正信偈、「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆聚」とはそのお心なのである。
- 天親菩薩は浄土論 解義分に五種の功徳門を示された。
- 近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門の五種である。最初の四種は「入の功徳」、第五番目の園林遊戯地門は「出の功徳を成就する」とある。その入の四門は「礼拝・讃嘆・作願・観察」に比定される。
「入の第三門とは《一心専念にかしこに生ぜんと作願し、奢摩他寂静三昧の行を修するのゆえに、蓮華蔵世界に入るを得。》」とある
- 「蓮華蔵世界」について利井鮮妙師は次のように注解されている。
- *「蓮華蔵世界とは浄土経の中にこの表現はない。華厳経等に出ている。論主(親鸞聖人)は彼の名をとりて安楽世界の異称としたまう。
蓮華は是れ正覚果なり。蔵は舎攝の義にして、一切功徳を舎攝し、亦十方一切の刹土を舎攝するが故なり。
- *問 弥陀浄土を明かすに何ぞ他経の名をとりたまうや?
- ・答 蓮華蔵世界に諸土を会入するの名なるがゆえに、弥陀浄土は十方法界を統御することを表さんが為に彼の名を用いたまう。
- *問 彼の名をとりて之に名づくるときはその体は同じきや?
- ・答 彼は毘盧舎那仏のいるところ、こちらは弥陀の浄土、
むこうは毘盧舎那仏の行力により成ずるところ、こちらは法蔵願力の成ずるところ。
彼の土は普賢等の六大菩薩の居る所を得て余人の入ることのできないところ、此の土は極重悪人皆おなじく入ることを得るもの。
しかれば全く同じとはいえない。
- 浄土論解義分(七祖編 四一頁)に
- 「かくのごとく菩薩は智慧心、方便心、無障心、勝真心をもってよく清浄の仏国土に生ず。知るべし。これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順し、所作に随いて自在に成就すと名づく。…・・」
- そして五種の門とは…・
- ・「また五種の門ありてぜんじ慚次に五種の功徳を成就す。知るべし。
なにものか五門。
一つには近門[こんもん]
二つには大会衆門[だいえしゅう]
三つには宅門
四つには屋門
五つには園林遊戯門[おんりんゆうげもんもん] なり。
はじめの四種は入の功徳を成就し、第五門は出の功徳を成就す。
- *入第一門とは、
- 阿弥陀仏を礼拝し、かの国に生ぜんとなすをもってのゆえに、安楽世界に生ずるを得。
- * 入第二門とは、
- 阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して如来の御名を称し、如来の光智相によりて修行するをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得。
- * 入第三門とは、
- 一心専念にかしこに生ぜんと作願し、奢摩他寂静三昧の行を修ずるをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得。
- * 入第四門とは、
- 専念にかの妙荘厳を観察し毘婆沙那を修するをもってのゆえに、かのところに至りて種々の法味楽を受用することを得。
- * 出第五門とは、
- 大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して遊戯し、神通をもって教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえなり。
- 菩薩は入の四種の門をもって自利の行成就す。知るべし。
菩薩は出の第五門の回向ををもって利益他の行成就す。知るべし。」
- と説かれている。
- 前述の傍線部、親鸞聖人は、
- 《菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまえり。菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまえり。》
と読みかえられた。
天親菩薩章の後半は、このことを顕示されているのである。すなはち「さとりを開くための功徳に満ちた名号の大宝海に入り、現生に正定聚の位に住す利益をいただき、命終して浄土に生まれ仏とならせていただく」と往相回向の利益を示し、「遊煩悩林現神通 入生死薗示応化」の二句で「浄土に往生して弥陀同体のさとりを開きさらにはこの煩悩にまみれたこの世に還り来て衆生を教化救済する」還相回向を示されているところである。
出第五門の文中「教化地」について曇鸞大師は論註(七祖篇 一五一頁)において「教化地はすなはち菩薩の自娯楽の地なり。このゆえに園林遊戯地門と称す。」
と註釈されている。
「自娯楽の地」とは衆生の教化を自からの楽しみとする地位をいうとある。還相の菩薩のおこころなのである。
天親論主は一心に 無碍光に帰命す
本願力に乗ずれば 報土に至るとのべたまふ
高僧和讃 天親章(十六)
[釈勝榮/門徒推進委員]
◆ 編集註
「我一心」の《我》について、桐渓順忍和上はもちろん、曇鸞大師も多くの諸師も「流布我」ということで決着しているようですが、これでは余りにも意味が軽すぎます。他の経典が「如是我聞」で始まるのに対し、『仏説無量寿経』は「我聞如是」で始まります。「我」に万感の思いが込められていることを無視しては、仏意を損ね、仏教と相応できなくなります。
『涅槃経』には、有為の四顛倒と無為の四顛倒の問題が挙げられ、「無我とは生死のことであり、我とは如来のことである」と明かされています。
すると、「我一心」の「我」こそ、この如来蔵・仏性の「真我」なのではないでしょうか
(参照:{礼拝門・讃嘆門・作願門}#「我一心」の主体は)。
「蓮華蔵世界」と「安楽世界」の関係については、場所に違いがあるわけではありません。浄土の違いは「人の相違」によります。「行業の果報」、つまり<それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうある>「地」が「浄土」ですから、境地に違いがある訳です。
毘盧舎那仏は法身であり、現代で言えば宇宙的存在であり、眼に見えぬ宇宙的真理を象徴しています。
阿弥陀仏は真実報身であり、法身である宇宙的真理が姿を現し、名を名告り、願いと誓いをかけ、兆載永劫の修行によって成就された人類の歴史的支柱です。先祖の真心が、血と汗と涙と報い染み込んだ身が阿弥陀如来です。
ですから、毘盧舎那仏の蓮華蔵世界に生まれることと、阿弥陀仏の安楽国に生まれることを願う違いは、宇宙的存在としての覚りと、歴史的・社会的責任を担う中での覚りの違いでしょう。したがって、二つの浄土に優劣をつけることはできません。しかし、現代人にとってどちらの浄土の方が縁が深いかは明らかでしょう。
(参照:{法身と報身の違い})
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