聞法ノート 第三集 15
道綽禅師讃嘆
【浄土真宗の教え】
◆ 道綽禅師讃嘆
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
- 現代語訳
- ・ 道綽禅師は、聖道門の教えによってさとるのは難しく、浄土門の教えによってのみさとりに到る事のできることを明かにされた。
・ 自力の行はいくら修めても劣っているとして、ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをお勧めになる。
・ 三信と三不信の教えを懇切に示し、正法・像法・末法・法滅、いつの時代においても、本願念仏の法は変らず人々を救いつづけることを明らかにされた。
・「たとい一生悪を造り続けても、阿弥陀仏の本願を信じれば、浄土に往生しこの上ない悟りを開く」と述べられた。
七祖篇補註に学ぶ道綽禅師の教え(七祖篇補註一三九〇頁〜)
- *阿弥陀仏は応化身仏ではなく報身仏である。
- ・ 道綽禅師、善導大師の時代、聖道の諸師は阿弥陀仏を応化身(衆生の根機に応じて仮にあらわれた仏身、報身より低位の仏)とみる説をたてていた。道綽禅師、善導大師の両師はこれに反論し阿弥陀仏が報身であることを明らかにした。
すなはち、「安楽集」第一大門において「現在の弥陀はこれ報仏、極楽宝荘厳国はこれ報土なり。しかるに古旧あい伝えて、みな阿弥陀仏はこれ化身、土もまた化土なりといえり。これを大失となす。」といい、「大乗同性経」を引用して、《浄土における成仏は報身、穢土における成仏は化身である》と示し《阿弥陀仏は浄土において成仏したのであるから報身である》と論じた。 (七祖篇補註一三九一頁)
- *時と機が相応しなければ、証果に達することができない
- ・ 機とは、法(教法)に対する言葉である。一般に機と衆生は同じような意味に用いられているが、衆生(有情)は「生きとし生けるもの」という意味であり、その衆生が教法に対したときに機といわれるのである。
・ その機はまた「根」という宗教的素質をもっているので、根機とも機根ともいわれる。
・ 道綽禅師は、正像末の三時の変遷によって機根が劣悪化していくことを「大集月蔵経」の五個の五百年説によって示して、今時が五百年の入末法時に当ることを指摘している。その末法時の衆生は仏の名号を称する以外にさとりへの道が絶たれているとして、浄土の一門に通入すべきことを勧め、機根の浮浅暗鈍なるものの救いを明らかにしている。 (七祖篇補註一三九四頁)
- *約時被機「時に約し機に被らしめて勧めて浄土に帰せしむ」
- ・ 道綽禅師は時代と人間の現実を直視し、時と機の双方に相応する教えでなければ、有効性をもたないと認識されていた。教理の浅深ではなく。時機相応という点に教の意義を見出されたのである。禅師はその見地から、時機に相応しない聖道の教えの無効性を指摘し、時機に相応する浄土の一門のみ通入すべき道と定めてこれを「安楽集」の要諦としてあらわし、浄土の法門の顕揚につとめられたのである。 (七祖篇補註一三九六頁)
- * しかれば大聖弘慈[ぐじ]をもって勧めて極楽に帰せしむ。もしここにおいて進趣せんと欲せば、勝果かないがたし。ただ浄土の一門のみありて、情をもって願いいて趣入すべし。もし衆典を披[ひら]き尋ねんと欲せば、勧むるところいよいよ多し。ついにもって真言を採り集めて助けて往益を修せしむ。なんとなれば、前[さき]に生ずるものは後[のち]を導き、後に去かんものは前を訪ひ連続無窮にして休止[くし]せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり。
- (七祖篇安楽集一八四頁)
- *「安楽集」には諸行、観念、称名が往生の行として示されている。
- ・ 第三大門の聖浄二門の釈では、第十八願文を「観経」下下品の文と会合して
「もし衆生ありてたとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずば正覚をとらじ。」と示し、称名念仏の一行が末法濁世の機に相応する行業として明かされており、道綽禅師の行業論の主意が本願所誓の称名一行にあったことが窺われる。 (七祖篇補註一三九八頁)
- *三信・三不信
- ・ 道綽禅師は「安楽集」に十二大門を分って経論を引証し、末法時における時機相応の証悟の道として浄土往生の特色を示して、「信を勧め往くことを求め」させている。第三大門には、広く十一箇の問答を設けて、浄土往生に対する疑いを除いている。とくにその最後の第十一問答には、曇鸞大師の三不信をそのまま引用し、「この三心(信)を具してもし生ぜずといはば、この処[ことはり]あることなからん」(上)と述べて、淳心・一心・相続心という三信を強調している (七祖篇補註一四〇二頁)
- *曇鸞大師「三信・三不信」
- ・ 「往生論註に「かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の志願を満てたまふ。しかるに名[みな]を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすならば、いはく、如来はこれ実相身なり、これ為物身なりと知らざればなり。
また三種の不相応あり。一には信心淳からず、存ずるがごとく亡ずるごときゆゑなり。
二には信心一ならず、決定なきがゆへなり。
三には信心相続せず。余念間[へだつ]るがゆゑなり。転々してあひ成ず。信心あつ淳からざるをもってのゆゑに決定なし。
決定なきゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信なきがゆゑに心淳からず。」 (七祖篇往生論註一〇三頁〜)
- *このようにたとえ「如来を信じて」念仏もうす称名であっても、
- 凡夫の信心は淳くない(ときにはあり、ときにはなくなったりする)、
一つでない(いろいろなものを信じて信心決定しない)、
相続しない(自力のこころがまじり、信がフラフラする)
という三つの不信がある、と無明の原因を明かにされ、往生の要因である真実の信心について、淳心・一心・相続心の三信(心)を示された。 (中央仏教学院通信教育テキスト真宗T二年次より)
この三信・三不信を道綽禅師は安楽集第二大門に詳述され、このことを親鸞聖人
は正信偈で讃嘆されたのである。
- * 利井鮮妙師は「三不とは自力の信は不相応なるがゆえに三不という。三信とは、他力信心にして、淳心・一心・相続心是なり。」とされている。
-
- *「実相身・為物身」
- 仏のすがたを三身で説くとき「法身・報身・応身」で説かれる。安楽集第三大門には「如来はこれ実相身、これ為物身なりと知らず」とある。 (七祖篇安楽集二三二頁)
- 曇鸞大師は仏を二種の法身として説かれた。
- ・「諸仏・菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身なり。
法性法身により方便法身を生ず。方便法身により法性法身を出ず。この二の法身は異にして分かつべからず。一にして同ずべからず。」 (七祖篇往生論註一三九頁)
・ また方便法身を更に究明されて,究竟の真理であるところの自利円満の身=実相身、衆生(物)のために利益を施す利他円満の身=為物身とされた。阿弥陀仏はこの二身の徳を具足する仏であるが、それは仏身の全体を指して実相身とし、同じにまた為物身とするものであって、仏身を二分して自利の面を実相身、利他の面を為物身とするものではない。 (七祖篇補註 一三九一頁)
縦令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかひたり
高僧和讃 道綽章(六一)
[釈勝榮/門徒推進委員]
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