還浄された御門徒様の学び跡 |
オーム。十方の、果てなく、限りない世界に安住される、過去・未来・現在の、一切の覚った人たち、求道者たち、教えを聞く修行者たち、独り修行する修行者たちに礼したてまつる。無量の光あるものに礼したてまつる。無量のいのちあるものに礼したてまつる。不可思議な幾多のすぐれた徳性をそなえたものに礼したてまつる。
・ 無量の光ある者、勝てる者、聖者であるおんみに礼したてまつる。
おんみのなさけによって、わたしは、《幸あるところ》に往く。
・ 《幸あるところ》には、金色に輝くうるわしの林がある。
めでたき人(仏)の子らに飾られて心たのしい。
・ 名声あまねく、智慧を具えたおんみのましますところ、いろいろの珠宝の積み集められたかの《幸あるところ》に、わたしは往く。
無量寿経梵文には、最初にオーム《om=a・u・m》にはじまるこの帰敬偈が記されている。
まさに「帰命無量寿如来・南無不可思議光」《はかりしれない無量のいのち寿命(=慈悲)の仏。また思い量ることのできない光明(=智慧)の仏にまします阿弥陀如来に帰依したてまつる》そのものをあらわしているように思えてならない。
曇鸞大師は往生論註で「帰命は礼拝門である」とされた。そして「帰命はかならず礼拝をともなう」と示されている。
梵文が示す「去来現の一切の覚ったもの(仏)、無量の光あるもの・無量のいのちあるもの」を礼拝することは、すなはち「そのもの」への帰命・帰依をあらわすものなのである。「そのもの」とは《無量の光ある者、勝てる者、聖者であるおんみ》 すなはち「阿弥陀如来」ではあるまいか。
*因みにオーム(om)は、古来よりインドではa・u・mの三字からなると解釈され聖なる意味と神秘的な力を持つとされて尊ばれてきたもので、三字はそれぞれ発生・維持・終滅をあらわしこの一語で全世界が成立し、滅びる過程を象徴するという。(…・岩波文庫浄土三部経梵文和訳註)
仁王像や狛犬の「あうん阿吽」(a-hum)もまたこの梵字に由来し、同じく「万物の始まりと終り」を示すとされている。
この梵文無量寿経冒頭にある帰敬文は現存の漢訳諸本には挿入されていないのはなぜだろうか。釈尊の言葉を梵文に遺し伝えようとした菩薩たちは、無量寿経の説法をはじめる前に、お釈迦さまが過去・未来・現在の仏に帰依帰命されたことをオームにはじまる帰敬文の形で伝えているのであろうか。
正信偈が「帰命無量寿如来・南無不可思議光」とはじまるのはあらゆる礼拝・讃嘆・尊敬・供養をこの二句にこめ《心から阿弥陀仏に帰依したてまつります》ということなのである。
蓮如上人は「正信偈大意」において、
「《帰命無量寿如来》というは寿命の無量なる体なり。また唐土のことばなり。
阿弥陀如来に帰依したてまつれというこころなり。《南無不可思議光》というは、智慧の光明の徳すぐれたまえるすがたなり。《帰命無量寿如来》というは、すなはち阿弥陀如来の体なりとしらせ、この《南無阿弥陀仏》と申すは、こころをもってはかるべからず、ことばをもって説きのぶべからず、この二つの道理きわまりたるところを《南無不可思議光》とはもうしたてまつるなり。…・中略…・・されば、この如来に南無し帰命したてまつれば、摂取不捨のゆえに真実報土の往生をとぐべきものなり。」とお示しになっている。
無量寿経には、お釈迦さまが説法をはじめられる前に、禅定に入られそこから立ちあがって五種の瑞相をはなち説法されたことをつたえている。去来現の三世の諸仏の世界に入り諸仏が仏となられた正法の世界を憶念され、諸仏のこころをわがこころとしてこれより無量寿仏=阿弥陀仏の本願を、南無阿弥陀仏のおいわれを説法されたのである。そしてそのことを問うた阿難尊者に「問うこと自体が如来の威力によるものである」と説かれている。
教行信証行巻にはお念仏のおいわれ・はたらきを説き明かされている。その行巻の最後にこの正信偈がある。そして正信偈のはじまりは
帰命無量寿如来 南無不可思議光
なのである。ここに親鸞聖人の深い想念が凝縮されている。
註
1.「聖者」……(muni) 仏はしばしば「聖者」と呼ばれる。
2.「幸いあるところ」…・(skhavati)の訳。漢訳では極楽・安養浄土・安楽・無量寿仏土・無量光明土・無量清浄土・蓮華蔵世界・密厳国・清秦国などという。阿弥陀仏が成道したときに、西方十万億の国土を過ぎたところに構えた世界であって、苦難なく、安楽のみある処という。
3.「無量の光ある者」
「諸本(MM・Ashik・Kagawa)ともにAmitaprabhasyaとなっている。表現は似ているがAmitaprabhaとAmitabhaとは別なのである。漢代の支婁迦讖訳には「無極光明」、宋代の法賢人訳に「無量光」とあるのは、サンスクリット文と一致するが、チベット訳と魏の康僧鎧訳には「無量音」、唐代の菩提流支訳には『無量声』とありチベット訳と一致するから、その原文はamita―svarasyaとあったのであろう。」
以上ワイド版岩波文庫「浄土三部経」(上)二七八頁
4.「無量音」…・・無量寿経に「その第三の仏を名づけて無量音仏という」とある。…・註釈版七九頁
「帰命無量寿如来・南無不可思議光」《はかりしれない無量のいのち寿命(=慈悲)の仏。また思い量ることのできない光明(=智慧)の仏にまします阿弥陀如来に帰依したてまつる》
という理解が一般的でしょう。ただそれだけでは不徹底であり、他の経典と同じレベルに留まってしまいます。これでは『大無量寿経』の最も勝れた点である社会性(人間環境の問題点)・歴史性(真実報身・真実報土建立の苦労)を踏まえた領解は適いません。生命それ自身、血と汗と涙によって育み続けている真心が身体として報いられている、という面が抜けては阿弥陀仏の名の真意は表現できません。
「無量寿」の「寿」とは、如来が如来としての本懐を現わす寿であり、これは「金剛の菩提心」「如来回向の菩提心」の主体。そして「光明」は如来の智慧と徳の大威光です。
もう少し詳細を言えば、「歴史的真実の具現化」「無数の正定聚不退転の菩薩」「菩薩を生み出し得る道心不退の菩提心の報いた身」である主体(寿命)と、「智慧の光明」「身放の光明」の働き(光明)が、「帰命無量寿如来・南無不可思議光」の内容でありましょう。
阿弥陀仏とは、宇宙全体を身とし人民に及んで無量無辺に展開する真心の歴史を寿命としている主体であります。また阿弥陀仏とは、歴史を貫きつつその時代時代の精神に成り切り仏徳が人徳として現われる主体なのです。そして阿弥陀仏の働き(光明)は、智慧の光明によって一切衆生の上に仏を見出し尊敬し、身放の光明によって一切衆生を仏徳に感化せしめるのです。
(参照:{寿命無量の願}、{光明無量の願})
また「五種の瑞相」につきましては、{『仏説無量寿経』3a
} に詳細を載せています。
[←back] | [next→] |