還浄された御門徒様の学び跡 |
註*(傍線部の原文は《阿毘跋致》とある。)謹んで、龍樹菩薩の十住毘婆沙論をうかがうと、菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道がある。一つには難行道であり、二つには易行道である。
難行道とは、五濁の世、まだ仏がおられない世において、不退転の位を求めることを難行という。註*(五濁とは末世にあらわれる避けがたい五種の汚れをいい、劫濁・命濁・見濁・煩悩濁・衆生濁の五種のこと)
*難行である理由は
- かたちにとらわれた外道の善が菩薩の法を乱す。(原文 外道の相善)
- 声聞が自利のみを求めて菩薩の大慈悲を行うことを妨げる。
- 人の迷惑を考えないで悪人が他人の修行を妨げる。
- 迷いの中の善果である人間や神々に生まれることに執着して仏道の行を損なう。(原文 顛倒の善果)
- ただ自力のみであって他力のささえがない。
このようなことはみな眼前の事実である。これをたとえていえば、陸路を徒歩で行けば苦しいようなものである。
*易行道とは
ただ仏を信じ浄土の往生を願えば、如来の願力によって清らかな国に生まれ、仏にささえられ、直ちに大乗の正定聚にはいることが出きる。
正定聚とは不退転の位である。これをたとえていえば、水路を船で行けば楽しいようなものである。
曇鸞大師は「いまこの《無量寿経優婆提舎願生偈》に示された法は、大乗の極致であり、不退転の位に向かって順風を得た船のようなものである」といわれ、願生偈をつぶさに註釈されたのである。
*「無量寿」とは、浄土の如来の別名である。釈尊は王舎城や舎衛国において、大衆の中で無量寿仏の本願によって成就されたさまざまな功徳をお説きになった。そこでその荘厳功徳のすべてをおさめた名号をもって浄土三部経の本質とするのである。後代の聖者天親菩薩が、釈尊の大いなる慈悲のお心から説かれた教えをいただかれ、経にしたがって願生偈をつくられたのである。
*また衆生の願いは、軽々しいことではない。如来の尊い力がなければ、どうしてこれを達成できよう。そこで仏力をお加えくださることを乞うのである。このようなわけで(…・・世尊…)と仰いで世尊に告げられるのである。
(我一心)…われ一心にとは、天親菩薩ご自身が述べられた領解のお言葉である。その意味は、无碍光如来を念じて浄土への往生を願い、その心が変わらずにつづいて、少しも自力の心がまじらないということである。
註*傍線部…。《天親菩薩の自督の詞なり》 『督とは、観なり、卒なり、正なり』とあり《自からを勧め、率い、正して行くような信心を言う》
*「帰命尽十方无碍光如来」とは
《帰命とはすなはち五念門のなかの礼拝門であり、尽十方无碍光如来は讃嘆門である。》註*(前頁傍線部は《願生安楽国》の偈文をいう。)*「どうして《帰命》が《礼拝である》と知ることができるのであろうか」
「龍樹菩薩のつくられた易行品の阿弥陀如来をたたえる偈の中に、あるいは《稽首礼》といい、あるいは《我帰命》といい、あるいは《帰命礼》といわれている。また浄土論の後半にある論述の文のなかにも、《五念門の行を修める》といわれているが、五念門のなかで礼拝門はその一つであり、天親菩薩はすでに往生を願っておられるのであるから、礼拝されないはずがない。だから《帰命は礼拝》と知ることができる。ところが礼拝はただ尊敬することであって、かならずしも帰命とは限らない。しかし帰命にはかならず礼拝をともなう。若しこういう意味から推し量るなら、帰命のほうがその意義は重い。そこで浄土論の願生偈の方では、まず天親菩薩ご自身の領解をのべられるのであるから、帰命というべきであり、後の論述の文では、願生偈の意味を解釈するのであるから、広い意味で礼拝とされたのである。願生偈と論述の文とが互いに対応しており一層その意味が明らかとなる。
* 浄土論に
《いかんが讃嘆する。口業をもって讃嘆したてまつる。かの如来の御名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆえなり》とある。
上の文を現代語訳すると、「どのようにして讃め称えるかというと、この如来の名号を称えるのである。そしてこの如来の光明という智慧の相にかない、また阿弥陀仏の名号のいわれにかなって、如実に行を修め、本願に相応しようとするからである」
《尽十方无碍光如来》と天親菩薩はいわれているのは、「《この如来の名号によって、智慧の相である光明のいわれにかなって讃め称える》から《尽十方无碍光如来》とは讃嘆門である」と曇鸞大師は註釈されている。
そして「願生安楽国」はどうして作願門となるか」について」天親菩薩のおこころである」として次のように註釈されている。
* 「大乗の経論には《衆生は究極のところ無生であって虚空のようである。》と説かれているのにどうして天親菩薩は《願生》と言われたかと言うと、《一つには凡夫が実体と思っている『衆生』や実体と考えている『生死』は、本来存在せず、実体がなく、虚空のようなものだということである。
二つには、あらゆるものは因縁によって生ずるのであるから、もとより実体として生ずるのではなく、そのように実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。天親菩薩が『願生』(生まれようと願う)といわれたのは因縁によって生ずるという意味でいわれているのであり、因縁によって生ずるのであるから仮に『生まれる』というのであって、凡夫の考えるように実体としての衆生がいて、実体として生まれたり死んだりするということではない」
註*《無生》・・「大乗の空観では、生滅変化しているように見えるのはにんげんのあやまった所産に過ぎない」と考える。これに対し「小乗の考え方は一切万物が生滅して無常である」とする。
* 「どういう意味で《往生》と説くのか」
「答えていう。この世界で仮に人と名づけられるものが五念門を修める場合、前後は因果相続する。この世界の仮に人と名づけられるものと、浄土の仮に人と名づけられるものとは、まったく同じであるとも、まったく異なっているということもできない。往生する前の心と往生した後の心との関係もまた同じである。なぜかといえば、若しまったく同じであるなら、因果の別がないことになり、まったく異なっているなら、相続していないことになる。天親菩薩が《往生》ということを説かれているのは、この不一不異の道理に立つものである」
願生偈には「往生」の語は偈文の最後のくだりに次のように示されている。
我願皆往生 示仏法如仏 我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国
前述の註釈文は非常にむつかしいが、阿弥陀仏は一切衆生の浄土往生を願われている。その阿弥陀仏のはたらきは、尽十方无碍光という智慧の相であり、衆生はそのおいわれにかない如来の名号によって仏をほめたたえ、心から信順し帰命する。今ここに生かされている衆生(わたし)は、如来の十二光を蒙るという縁をいただいている身であり、如来に信順し帰命するその身はかならず浄土に生まれてさとりを得て仏となることが約束されている。
浄土に生まれることも、この世での生を終わることも、「実体をともなった生死、生滅」ではないかもしれないが、また人の生滅が仮の姿であれ、また往生した自分も、する前の自分も同じでないかもしれないが、阿弥陀仏の光の中で因果相続されて、この世においても、またかの土においても仏の慈悲の中に生かされていることになるのではないか。
*浄土論に「我依修多羅」とある。修多羅とは釈迦直説の十二部経のことである。
ここに「依修多羅」としていわれているのは阿含経などの小乗経典ではなく、大乗の経典のことである。
註*(原文…・・不捨一切苦悩衆生 心常作願回向為首 得成就大悲心故…)*浄土論に「《いかんが回向する》(回向してくださるとはどういうことであろうか)
仏は苦しみ悩むすべての衆生を捨てることができず、いつも衆生に功徳を施そうと願われ、その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである。
阿弥陀仏の回向に二種の相がある。
一つには往相、二つには還相の回向である。
往相の回向とは仏ご自身の功徳を他のすべての衆生に施して、皆共に浄土に往生させてくださることである。
註*(原文…・・往相者以巳功徳 回施一切衆生 作願共往生阿弥陀如来安楽浄土…
読み下し文…己が功徳を以って一切衆生に回施して作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。)
注の読み下し文は本来(共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり)と読むが、親鸞聖人は浄土往生は阿弥陀如来より作願し、回施いただいた功徳によるものであって、衆生の己が願心のはたらきによるものではないとして、このように読み替え洗えている。
還相の回向について、親鸞聖人は教行信証 証巻にご自身「還相の回向とは思いのままに衆生を教え導くという真実の証に具わるはたらきを、他力によって恵まれることである」と定義されている。
* 往生論註に曇鸞大師は
「還相とはかの土に生じ終わりて、奢摩他・毘婆舎那を得、方便力成就すれば、生死の稠林に回入して一切衆生を教化して、ともに仏道に向かうなり」と註釈されている。 親鸞聖人は正信念仏偈 曇鸞大師章で次のように讃嘆されている。
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還回向唯他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化
釈勝榮さんがこの章を書かれる際、私どものサイトに質問をしていただき、このことがご縁で本の内容を掲載させていただく運びとなりました。当時の質疑応答の内容は、{往生論註の「願生」について― 不一不異の道理 ―}、 {往生論註「願生」について 2― 有限の身に満たされる無限の功徳 ―} に掲載してあります。
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