還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第二集 26

安楽集 引文(第十七願のお心)

【浄土真宗の教え】
『安楽集』(『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文 20、35)

 安楽集 道綽禅師

 親鸞聖人は正信偈に道綽禅師を次のようにを讃嘆されている。

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称 三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

 すなはち「道綽禅師が《聖道門でどのように自力作善をしてもさとりを開くことは難しく、ただ念仏の教えのみがよく浄土に導き入れてくださるのであり、すべての徳が円満されている名号を専らに称名することをすすめられた。三信と三不信の教えを懇切に示し、正法・像法・末法・法滅いつの時代においても、本願念仏の法は変わらず、斉しく人々を救いつづけることを明らかにされ、たとえ一生涯悪を造りつづけても、阿弥陀仏の本願に値遇し信順するならば、浄土に往生しこの上ないさとりを開く》と示された」と述べておられる。

 教行信証 行文類には安楽集から次のような引文がある。

* 《観仏三昧経》を引かれ、
* 「釈尊が父の王(浄飯王)に念仏三昧を勧められたことについて、浄飯王が《仏のさとりの徳は真如実相第一義空ということであるがどうしてそれをわたしに教えてくださらないのか》と質されたのに対して釈尊は《仏の徳ははかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえられており、凡夫はとうてい修められるものではない。そこで念仏三昧を修めることを勧めたのです。》・・・《念仏の功徳は伊蘭の広大な林があって、伊蘭のそれはもう耐え切れぬいやな匂いが満ちているが、そこに一本の栴檀の種が生じ芽を出し、少しばかり木に成長しただけで、その伊蘭の林はかぐわしい香りを放ち、見るものに皆たぐい希なすぐれた思いを起こさせる。そのような功徳が念仏には具わっている》・・・《念仏の行を保ちつづけることができたなら、かならず阿弥陀仏のもとに生まれることができる。ひとたび往生することができたなら、すべての悪をあらためて大いなる慈悲の心を生じさせてくださることは、栴檀の木が伊蘭の林のいやなにおいを変えてしまうようなものです》とおおせになった」

*《伊蘭の林》とは三毒や三障などの衆生の持つ数限りない重い罪のたとえであり、《栴檀》は衆生の念仏の心にたとえたものである。《少しばかり木に成長する》とはどのような人も絶えることなく念仏したならば、往生の要因が成就することをいうのである。

* 五会法事讃 (唐 法照)のなかで《凡夫には仏の智慧やさとりはとうてい修められるものではない》ことを次のように語られている。

「釈尊は父の浄飯王仰せになった。
《王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが凡夫にどうしてできましょうか》

* 一声の念仏の功徳によってすべての罪障を断つことができるのだろうか。

* 答えていう。さまざまな大乗の経典によって、念仏三昧の功徳が思いはかることのできないすぐれたものであることを明かにしよう。

・もし人が菩提心をもって念仏三昧を修めたなら、すべての煩悩、すべての罪の障りはことごとく断たれ滅する。
・ もし人が菩提心をもって念仏三昧を行じたなら、すべての悪魔や障害も妨げることができない。
・ たとえば人が身体を見えなくする薬を用いてさまざまなところを歩き回っても、他の人々はこの人を見ることができない。もし人が菩提心をもって念仏三昧を行じたなら、すべての悪神や障りもこの人を見ることはできないし、さまたげれられることはない。
 なぜなら念仏三昧はすべての三昧の中の王だからである。

以上は華厳経の引文

・ 《大智度論》に

《他のさまざまな三昧には、たとえば貪欲だけを除いて瞋恚や愚痴を除くことができない三昧、瞋恚だけを除いて愚痴や貪欲を除けない三昧もあり、あるいは現在の罪障だけを除いて、過去や未来のすべての罪障を除くことができない三昧があるが、もし常に念仏三昧を修めたなら、現在・過去・未来を問わずすべての障りごとが除かれる。》

と説かれている。

・《讃阿弥陀仏偈》には、

「……たとえ三千大千世界に火が満ち満ちていても、その中をひるまずに進んでゆき、阿弥陀仏の名号を聞くがよい。仏の名号を聞けば、不退転の位に至る。だからこころをこめて礼拝したてまつる」

とある。

*また。目連所聞経も引かれた上、

「《お釈迦さまが目連に説かれた…・・無量寿仏の国は往生しやすくさとりやすいのに、人々は念仏の行を修めて往生するということができない。かえって九十五種の邪道につかえている。わたしはこのような人を目無し人といい、真実を聞く耳が無い人という。…・・》
経典には既にこのように説かれている。どうして難行道を捨てて易行道によらないのであろうか」

 安楽集は、上下二巻、十二大門より構成され、上巻(第一大門〜第三大門)において《釈迦入滅後の第四の五百年にあたる今こそ仏の名号を称すべき時である。》と時機相応の教えは念仏三昧であるとされている。

 親鸞聖人はこの要点を教行信証に引かれたのであり、そして正信偈に「唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称…・・」と讃嘆されたことである。

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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