還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第二集 24

浄土論 引文(第十七願のお心)

【浄土真宗の教え】
『浄土論』(『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文 16・17)/『一念多念証文』16/『十住毘婆沙論』11(『浄土和讃』 徳号列示)

 浄土論(往生論) 天親菩薩

親鸞聖人は天親菩薩浄土論より次の二節を引用されている。

1: わたしは大乗の経典に説かれている真実の功徳をそなえた名号の相により、この願生偈を説き、阿弥陀仏の本願のはたらきを示して、ほとけの教えにかなうことができた。阿弥陀仏の本願のはたらきに遇って、いたずらに迷いの生死を繰り返すものはなく、速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださる。

2: 法蔵菩薩は礼拝・讃嘆・作願・観察の四種の門において、自利の行を成就されたと、知るべきである。そして、第五の回向門において、衆生に功徳を施される利他の行を成就されたと、知るべきである。菩薩はこのように五念門の行を修めて自利利他を行じ、速やかにこの上ないさとりを成就されたのである。

  註*(傍線部は原文には菩薩とのみあるが、文脈より法蔵菩薩と現代語訳されている)

引用1について、天親菩薩は浄土論「願生偈」に

世尊我一心 帰命尽十方 无碍光如来 願生安楽国
我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 與仏教相応

と《心から尽十方無碍光如来に帰命され、一心に安楽国土に生まれたいと願われ》、そして《わたしは大乗の経典に説かれている真実の功徳をそなえた名号の相により、この願生偈を説き、阿弥陀仏の本願のはたらきを示して仏の教えにかなうことができた》と述べられたことである。
 偈頌には浄土の清浄功徳と阿弥陀仏・諸菩薩の荘厳相を説かれている。その中からさらに親鸞聖人は浄土論願生偈帰敬文に次いで次の文を

観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海
と引かれた。

聖人は「一念多念文意」にこの文をひらかれて、
「仏の本願力を観ずるに、まうあうてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに大宝海を満足せしむ」と読まれ、
「観」は《願力を心にうかべると申す。また知るという心なり》とされ、
《本願力を信知すること》とみられている。
「遇う」は《会いたてまつる》
「むなしくすぐるひとなし」というは《信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなし》ということである。
「功徳」とは《名号》のこと。
「大宝海」とは《よろずの善根功徳満ちコきわまるを海にたとえたまう》
「この功徳を信ずる人のこころのうちに、速やかにと疾く満ちたりぬと知らしめんとなり。しかれば金剛心のひとは、知らずもとめざるに、功徳の大宝その身に満ち充つがゆえに大宝海とたとえるなり」と訓じられている。

知らずもとめざるに名号の功徳は凡夫の身に満ちみちるありがたさ、不可思議さがしみるおもいがする御釈である。

引用2について
天親菩薩は願生偈の目的について「かの安楽世界を観じて阿弥陀仏を見たてまつることを示現す。かの国に生ぜんと願ずるがゆえなり」と示されている。
そのためには「五念門を修し、行成就しぬれば、ついに安楽国土に生じて阿弥陀仏を見たてまつることができる」とされた。

*浄土論に説かれた五念門は次のとうり。

一 礼拝門
身業をもって阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつりき。かの国に生ずる意をなすがゆえに、礼拝する。
二 讃嘆門
かの如来のみ名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆえに讃嘆する。
三 作願門
心に常に願を作し、一心にもっぱら畢竟して安楽国土の往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆえ、作願する。
 註*傍線部 親鸞聖人の読まれ方
 《心に常に作願したまえり。一心に専念して畢竟して安楽国土に往生して、実のごとく奢摩他を修行せんとおもふがゆえにのたまえり。》
 註 奢摩他(しゃまた)とは散乱した心を離れ、想いを止めて心が寂静になった状態をいう……(往生論註より曇鸞大師釈)
四 観察門
智慧を持って観察し、正念にかしこを観ず。如実に毘婆沙那を修行せんと欲するがゆえに、観察する。
 註(毘婆沙那とは正見、禅定によって得られる静かな心で対象を正しく観察すること)
観察門はさらに区分されて
 一、仏国土の荘厳功徳成就を観察する。十七種あり。
 二、阿弥陀仏の功徳荘厳成就を観察する。 八種あり。
 三、諸菩薩の功徳荘厳成就を観察する。四種あり。
と観察門を二十九種に分かち荘厳功徳相を説き明かされた。
五 回向門
一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に願をなし、回向を首となす。
大悲心を成就することをえんとするがゆえに、回向する。
註(親鸞聖人は、傍線部の「回向する」を《回向したまえり》と読まれた。阿弥陀仏の衆生に回施される大悲心とされたのである。)

五念門の引用について、親鸞聖人は、さらに浄土論の最後のくだりより次の個所を引かれている。

「(法蔵)菩薩は礼拝・讃嘆・作願・観察の四種の門において、自利の行を成就されたと、知るべきである。そして、第五の回向門において、衆生に功徳を施される利他の行を成就されたと、知るべきである。菩薩は、このように五念門の行を修めて自利利他を行じ、速やかにこのうえないさとりを成就されたのである」
このおこころはいかがなことなのだろうか、聴聞したい。

* 浄土論 解義分に五念門の果徳としての五果門を次のように示されている。

「また五種の門ありて暫次に五種の功徳を成就す。知るべし。
なにものか五門。
  一つには近門[こんもん]
  二つには大会衆門[だいえしゅうもん]
  三つには宅門
  四つには屋門
  五つには園林遊戯門[おんりんゆうげもんもん]
  なり。
はじめの四種は入の功徳を成就し、第五門は出の功徳を成就す。

*入第一門とは、阿弥陀仏を礼拝し、かの国に生ぜんとなすをもってのゆえに、安楽世界に生ずるを得。
* 入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して如来の御名を称し、如来の光智相によりて修行するをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得。
* 入第三門とは、一心専念にかしこに生ぜんと作願し、奢摩他寂静三昧の行を修ずるをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得。
* 入第四門とは、専念にかの妙荘厳を観察し毘婆沙那を修するをもってのゆえに、かのところに至りて種々の法味楽を受用することを得。
* 出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して遊戯し、神通をもって教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえなり。
菩薩は入の四種の門をもって自利の行成就す。知るべし。
菩薩は出の第五門の回向ををもって利益他の行成就す。知るべし。

前述の傍線部、親鸞聖人は、
菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまえり。菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまえり。

と読みかえられた。
ここで菩薩とは、法蔵菩薩のことであり、法蔵菩薩が修行成就された五種の往生行・自利・利他の行のすべての功徳が南無阿弥陀仏の名号に具わっており、それが衆生に回向されているとお示しになっていることである。願生偈の伝えようとするところは、名号徳を示すためのこの二種の引文に尽きるということを親鸞聖人は仰せになっているのではないか。

*十住毘婆沙論曰く

自在人 我礼 清浄人 帰命 無量徳 称讃

『浄土和讃』徳号列示


(参照:「浄土論」名目の解釈

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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