平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問させて下さい。
「暗質が極まると純質が極まる」
という言葉をあるHPで読んだのですが
これは例えば世の中で天才といわれるような
人たちが自己探究によって純質を極めた結果
はやくに亡くなってしまうということと
繋がってきてしまうのではないかということを
思ったのですがどうなのでしょうか。
自己探究は危険だということもジャン・コクトー
が書いていたのも思い出しました。
どういうことなのか自分でもいまいちわからないかんじです。
また自己探究をしていくこと、精神を浄化させていくということは
死につながるこわいことなのかもという不安もあるの
ですがここのあたりをどうぞ教えて下さい。
よろしくお願いいたします。
〉 「暗質が極まると純質が極まる」
〉 という言葉をあるHPで読んだのですが
〉 これは例えば世の中で天才といわれるような
〉 人たちが自己探究によって純質を極めた結果
〉 はやくに亡くなってしまうということと
〉 繋がってきてしまうのではないかということを
〉 思ったのですがどうなのでしょうか。
虚無と虚空の違いを明している中での言葉のようですが、ご質問のような意味とは少し違うように思われます。
私どものHPに{空の概念と虚無の概念の違い} という質疑応答を載せていますが、こうした内容を別の言葉で述べてみえるのではないでしょうか。
つまり、「空という概念の登場によって、虚無の概念(正確に言えば有と無の概念がともに)は意味を失った」ということを言いたいのだと思います。
〉 自己探究は危険だということもジャン・コクトー
〉 が書いていたのも思い出しました。
〉 どういうことなのか自分でもいまいちわからないかんじです。
〉 また自己探究をしていくこと、精神を浄化させていくということは
〉 死につながるこわいことなのかもという不安もあるの
〉 ですがここのあたりをどうぞ教えて下さい。
「自己探究は危険だ」ということは、よく知られている事で、
仏教でも、修行中に「魔」のさまたげがあることは、昔からよく知られている事です。
慶文法師の『正信法門』の中に――
『首楞厳』によりて三昧を修習することあり。あるいは陰魔を発動す。
『摩訶衍論』によりて三昧を修習することあり、 あるいは外魔(天魔をいふなり)を発動す。
『止観論』によりて三昧を修習することあり、あるいは時魅を発動す。
意訳▼
『首楞厳経 』によって三昧 を修める場合には、[ 五陰魔 が現れ、修行をさまたげることがある。[
『大乗起信論 』によって三昧を修める場合には、[ 天魔 が現れ、修行をさまたげることがある。[
『摩訶止観 』によって三昧を修める場合には、[ 時媚鬼 が現れ、修行をさまたげることがある。[
とありますが、人にはそれぞれ修行前から「魔種」という因があり、三昧を深めれば深めるほど、修行が縁となって魔が現われ出るのです。これは特に、<もし聖の解をなせばみな魔障を被るなり>とあるように、「自分は聖者になったのだ」とか、「ついに私はさとりを開いた」と喜んだ途端に、魔のさまたげを呼ぶのです。
実際、仏道修行の途中で成果を得たためにそれを誇り、思い上がり、むしろ道を外れ、魔の領域に足を踏み込んで、自他の人生を狂わせてしまった修行者が数知れずいたのでしょう。しかし、心深くに踏み込まなければ、無明煩悩の正体に届かず末通った道は見えてきません。
釈尊も成道の際、魔と闘う経験をされてみえますが、<魔、官属を率ゐて、来りて逼め試みる。制するに智力をもつてして、みな降伏せしむ>というように、智力をもって制してみえます。「わが心深き底あり、喜びも憂いの波も届かじと思う」という言葉も、この境涯を言うのでしょうか。
しかし智慧勝れた釈尊は成せても、ほとんどの人には成せないことです。魔の領域に入れば、魔との衝突は避けがたく、ここで多くの行者は朽ち、死屍累々とした有様を呈しているのでしょう。「精神を浄化させていく」ことは、精神をやせ細らせてしまう危険も伴っています。
また、無理なダイエットがリバウンドを呼ぶように、無理な修行をすればいつか破綻がきます。なぜなら、煩悩にまみれた自己を変革しようとすればするほど、現実の身心は反発を起こし、眠っていた魔種を目覚めさせ活性させてしまうからです。
こうした魔のさまたげを廃しながら、無明煩悩の正体に届く究極の道として、如来は念仏三昧を勧められました。仏道修行も他力と心得、つねに懺悔し、自らの力を過信しないことが肝心なのです。
そして――
いま所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力を憑む。帝王に近づけばあへて犯すものなきがごとし。
意訳▼
いま修めるところの念仏三昧は仏力をたのむのである。それはちょうど、帝王の近くにいるとだれも害を加えるものがないように、悪魔のさまたげがない。
というように、魔のさまたげの入る余地のない「浄土」から振り向けられた念仏の行は、帝王の近くにいれば誰も害を加えないようなものだといいます。
具体的には――
けだし阿弥陀仏、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明遍照摂取衆生力ましますによりてなり。
意訳▼
これはつまり、阿弥陀仏が、大いなる慈悲の力、大いなる誓願の力、大いなる智慧の力、大いなる三昧の力、自在に救う大いなる力、邪悪を砕く大いなる力、悪魔を降伏させる大いなる力、遠く未来を見通す天眼通の力、遠くの声を聞き分ける天耳通の力、すべてのものの心を知りぬく他心通の力、光明をあまねく照らして衆生を摂め取る力、それらの力をそなえておられることによる。
という功徳をそなえているからです。
憬興師は『述文賛』で――
〈今日世雄住仏所住〉といふは、普等三昧に住して、よく衆魔雄健天を制するがゆゑに
意訳▼
<煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄雄しいものとして、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります>とあるのは、普等三昧に入って、多くの悪魔や魔王を制圧しておられるからである。
と顕してみえますが、この如来回向の心を称えさせていただくのです。
また、龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』(入初地品)で――
念必定のもろもろの菩薩は、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたはず。大悲心を得て大人法を成ず。
意訳▼
念必定の菩薩がたとは、もし菩薩がこの上ないさとりを得ることを仏から約束されたなら、その菩薩は不退転の位に至って無生法忍を得るのであり、たとえ千万億の悪魔の軍勢が押し寄せても、決して心を乱されることがなく、大いなる慈悲の心を得てさとりを成就するのである。
と述べ、仏力をもって正定聚・不退転の菩薩と成ることを私達に勧めてみえます。
如来は私達の無明煩悩の源に至って光を発してみえます。ですから、仏心を「深心」ともいい、「真実信心」とも「信楽」ともいうのです。この仏心によって、私達に「不断煩悩得涅槃」という境涯が恵まれるのです。ただし、もしこの境涯を誇ってしまえば、その瞬間に魔の餌食になります。
つねに正直に懺悔し、仏徳を学び称え、菩薩道を求める中に仏願は成就されるのです。そのためには、仏願の生起本末を聞き開きつつ、如来とは何か、浄土とは何か、そこに込められた仏意とは何か、私の生活とどう関わってくるのか、ということを読み解くことが肝心でしょう。