平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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浄土真宗では、日の吉凶・占い・姓名判断等を迷信とし、これを信じないとしていますが、浄土真宗がいう迷信といえばこれらの例示ばかりが目につきます。しかし、これらに対して現代では、盲信するというよりも何となく利用しているという類の「明らかな」迷信ではないかと思います。いわば、誰にでも否定しやすい迷信というか、害も比較的少ないものではないかと思います。
一方、527{※資料1▼ 参照}で挙げたような迷信は、意外と「明らか」ではない類の迷信であり、ある状況や文脈の中では「明らか」ではなくなる類の迷信ではないかと思っております。いわば、状況によっては、人を丸抱えして、雁字搦めにしてしまうような力をもつ、有害な迷信ではないでしょうか。
やや、わかりにくい文章となりましたが、そんなことも疑問に感じました。
申し訳ございません。さらに追記させてください。
島田先生著『仏教開眼四十八願』32に述べられている、京都の高尾山の神護寺の一等の宝である砂浜にあった只の石ころのこと {※資料2▼ 参照} を例に、527で述べた私の疑問を要約いたします。
このような懇切丁寧な解説のある文章を読めば、只の石ころは只の物質であり、ある観念や精神の象徴とわかります。
しかし、「観念→物質(象徴)」の図式でいえば、先のような解説が必ず付加さ続けないと、「観念→物質(象徴)→実体(化)」として受け取られるのではと危惧します。後者の図式が一人歩きし、歴史や伝統に組み込まれ、真しやかに語られると、もう誰も「明らかに」象徴の意味を説き得なくなる危険があるのではと、思っております。
これは、他の仏教に限らず、浄土真宗においても見られないかということでもあります。
よろしくお願い致します。
「相手の問いに答えてはいけない。問いの中に答はある。相手の問いを深めてゆけ」という金子大榮氏の言葉がありますが、ご質問をうかがいますと、頂いた問いの中に既に答えが宿っているようです。
仰るように、<誰にでも否定しやすい迷信>と、<ある状況や文脈の中では「明らか」ではなくなる類の迷信>・<状況によっては、人を丸抱えして、雁字搦めにしてしまうような力をもつ、有害な迷信>は、結果として大きく違います。平成7年におきた地下鉄サリン事件では、破壊的カルト宗教が社会問題となっていました。また平成11年に出版された「救い」の正体(別冊宝島461) という本を読むと、同様な会の内情が具体的に掲載されていますが、“人生を棒に振りかねない宗教教団がある”という事実に戦慄をおぼえます。
このように、「よくある迷信」と「破壊的カルト」の差は結果としては大きいのですが、これは縁の差であり、縁が整えば単純な迷信信者も組織的迷信信者に陥ってしまいます。洗脳方法は年々進歩していますので、迷信を気にしすぎる傾向のある人は、縁が整えば容易に洗脳されてしまいます。
さらに言いますと、理性のみに頼って迷信を全く無視してするような人も、実は洗脳されやすいので注意が必要なのです。理性は人間にとっては薄っぺらな幕に過ぎず、ここを突破することは容易であり、理性で自分を支えている人は本当は危険なのです(参照:{三大宗教の存在に矛盾は無いのでしょうか?})。所謂「エリート」と呼ばれていた人たちが破壊的カルト教団に入って犯罪を犯した事実は忘れてはならないでしょう。理性の迷信化が最も恐ろしいのです。
人の心に芽ばえたある種の宗教感情が迷信化する過程を知らないと、迷信はどんな場にも入り込みます。ご質問に仰る通り、素朴な迷信はまだ害が少なくて済みますが、理性の迷信は人を大量殺戮するに至ることがあり、事実西洋の宗教はこの轍を何度も踏んでいます。
そこで問題となってくるのが、因である自分の人生観です。
人生観が、自分の人生を成就させる方向に向いていれば、いくら危険な縁が整っても、迷いが迷いを生む連鎖は止めることができます。たとえ一時的に迷っても、すぐに立て直すことができるのです。そのため、迷信と正信を見分ける心の目を持つことが必須となってきます。
迷信と正信を分けるものは、書き込んでいただいたご質問に明確に記されています。
〉 このような懇切丁寧な解説のある文章を読めば、只の石ころは只の物質であり、ある観念や精神の象徴とわかります。
〉 しかし、「観念→物質(象徴)」の図式でいえば、先のような解説が必ず付加さ続けないと、「観念→物質(象徴)→実体(化)」として受け取られるのではと危惧します。後者の図式が一人歩きし、歴史や伝統に組み込まれ、真しやかに語られると、もう誰も「明らかに」象徴の意味を説き得なくなる危険があるのではと、思っております。
ご質問では、「このような懇切丁寧な解説のある文章を読めば」ということが、極めて例の少ないことであり、現実には期待できない事を指してみえると思うのですが、親鸞聖人はまさにここに注目されてみえるのです。どこまでも「なぜこれが宝なのか」「本当の意図はどこにあるのか」と、まごころを問う姿勢が、真実のはたらきを受けとる受信機となります。これを仏教では「菩提心」というのです。仏教は感情や理性の宗教ではなく「まごころの宗教」といえるでしょう。
実は、ご質問にありました高尾山にある石を拾われた明慧上人は、法然上人の『選択本願念仏集』を徹底的に批判し『摧邪輪』を著されました。その中で法然上人のことを「近代法滅の主、まさにこれ汝をもって張本人となす」とか「汝は即ち畜生のごとし、また是れ業障深重の人なり」とまで厳しく批判するのですが、これは「法滅の化儀に執して菩提心を撥去すれば、今時に経道即ち滅すべし」というように、菩提心を蔑ろにする『選択本願念仏集』の説に対して、徹底的に批判を加えているのです。
以前、{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?} に菩提心の大切さを書きましたが、親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』を顕わされた理由は、こうした高僧がたの批判に真摯に応える意図がかなりの比重を占めていたと言えるでしょう。ここで聖人は、曇鸞大師の『往生論註』を下敷きに、独自の発揮をして仏意に相応しようとされたのでした。
浄土真宗では、「本願成就のいわれを聞き開く」ということを盛んに勧めるのですが、これは曇鸞大師のお言葉を受けて仏意に添おうとされた精神そのものなのです。聖人がこの菩提心を大事に大事に温め育て、現在の私たちにまで相続されてきたのです。
しかるに仏の所説の十二部経のなかに論議経あり、「優婆提舎」と名づく。もしまた仏のもろもろの弟子、仏の経教を解して仏義と相応すれば、仏また許して「優婆提舎」と名づく。仏法の相に入るをもつてのゆゑなり。この間に論といふは、ただこれ論議のみ。あにまさしくかの名を訳することを得んや。
『往生論註』2 より
第二行は論主(天親)みづから、「われ仏経(浄土三部経)によりて『論』を造りて仏教と相応す、服するところ宗ある」ことを述ぶ。なんがゆゑぞいふとならば、これ優婆提舎の名を成ぜんがためのゆゑなり。
『往生論註』5 より
次は「優婆提舎」の名を成じ、また上を成じて下を起す偈なり。
我依修多羅 真実功徳相
説願偈総持 与仏教相応
この一行、いかんが「優婆提舎」の名を成じ、いかんが上の三門を成じ下の二門を起す。偈に「我依修多羅 与仏教相応」といふ。「修多羅」はこれ仏経の名なり。われ仏経の義を論じて、経と相応す、仏法の相に入るをもつてのゆゑに優婆提舎と名づく。
『往生論註』7 より
意訳▼(聖典意訳 より)
ところで、仏の説かれた十二部経の中に論議経がある。それを優婆提舎 という。もしまた、仏の弟子たちが仏のお経を解釈して、経のいわれによくかなうものは、仏はまた優婆提舎 と名ずけることを許される。仏の説かれた内容にかなうからである。この国において「論」というのは、ただ論議というだけであるから、どうして[ 優婆提舎 の名前を正しく翻訳することができようか。[
第二行は、天親菩薩がみずから「わたしは仏の説かれた経典をよりどころとして、この《浄土論》を作り、仏の教にかない、その信受するのにはもとづくところがある。」と述べられる。どうしてこのことをいうかといえば、優婆提舎 と名づけるわけを成立せしめるためである。[
次に「優婆提舎 」と名づけるわけを成り立たせ、また上の三念門をうけ下の二念門を起こす偈[
我修多羅 の 真実功徳相に依って[
願偈総持 を説いて 仏教と相応す[
この一行が、どうして優婆提舎 」の名を成り立たせるのか。どうして上の三念門をうけ、下の二念門を起こすことになるのか。偈に「我[ 修多羅 [
これはおそらく人類史上においても画期的な視点と言えるでしょう。宗教が迷信に陥らないためにはこの精神を受け継ぐしかありません。つまり「
さらに、この結果出された説についても、私たちは丸呑みするのではなく、何度も何度もその因縁果を問うこと。問う姿勢こそが、迷信を避けて正信に帰する要めなのです。結果である事実はそのままでは抜け殻ですが、真実を問う姿勢が事実にいのちを与えます。
現代の事情に合わせて言いますと、どんな物事にも歴史があるのであり、現在目の前に展開している有様についても、深い歴史をたずねてゆくことが真実に至る道となります。こうした姿勢を保ち続けることを人生観の要めとするのです。
たとえばこれは、今の日本文化全体の欠点についても言えることですが、「歴史性の喪失が日本人を脆弱にし日本文化を枯渇させている」ということがあります。言葉も「読み書きさえできればいい」ということで、言葉本来の意味とその展開を教えないので、日本人の奥底に流れている本当の歴史を学ぶ機会を失っているのです。こうした薄弱な地盤では、聖人のような深くて逞しい人間は育ちません。
「最初の因はどこにあるのか」、「その因の展開に何が関っているのか」、そして「現在の結果が最初の因にかなっているのかどうか」、そうした「いわれを聞き開く」という精神が真実信心なのであり、この精神こそが全てに優先するのです。
言葉ということで言えば、『仏説阿弥陀経』では、「彼の土をなぜ極楽と名づけるのか」、「彼の仏をなぜ阿弥陀と号するのか」と釈尊自ら問い、自らその故を説くのですが、これは「何故か、と問いなさい」という意がこもっているのでしょう。問い続けることが菩提心であり、信心であり、仏性なのであり、これが仏の寿命なのです。「仏の寿命が限りない」という事は、こうした問いが相続されることによって成立するのです。
問いを忘れてしまえば、たとえ言葉は同じであっても精神が廃れてしまいます。精神が廃れば、言葉や事柄に対して各自が勝手な解釈をしますので、次第に仏意が隠されてしまうのです。本質的にはこれを「自力」というのです。仏意にかなっているかどうか問わなければ、煩悩や社会の毒に容易に染まってしまうのです。
こうなれば仏の寿命は尽きてしまい、仏の抜け殻だけが残り、抜け殻を住みかに無数の迷信がはびこってゆくのです。そしてこの迷信的な解釈に、組織的な支配思想が加われば、人を洗脳することになります。これは日本においても、また他の国々においても蔓延している悲惨な有様でしょう。
自力称名のひとはみな
如来の本願信ぜねば
うたがふつみのふかきゆゑ
七宝の獄にぞいましむる
信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし
『正像末和讃』 誡疑讃 65、66 より
さらに言いますと、宗教の迷信性を打破するためには、信徒の主体性の確立が必須となります。これは前述の「問い続ける」姿勢にもつながるのですが、「自灯明・法灯明」の原則が無くなれば、信心は朽ちて信仰に堕することになります。
「信仰」は、自分以外の何かに盲目的に従うことであり、「信心」は自らが主体となって立ち上がった姿をいいます。前者には問いがなく、後者には問いがあります。なぜ宗教は平和を妨げるのか(町田宗鳳 著/講談社) の紹介にも書きましたが、これは批判精神の有無が分けるのです。
ですからご質問の――<「観念→物質(象徴)→実体(化)」として受け取られるのではと危惧します。後者の図式が一人歩きし、歴史や伝統に組み込まれ、真しやかに語られると、もう誰も「明らかに」象徴の意味を説き得なくなる危険がある>という危険も、みずから批判精神を持ち、問いを保ち続け、「経の意味とよく相応し、仏の説かれた内容にかなう」ように願って学び続けることで打破できるのであり、この相続こそが仏教・浄土真宗のいのちなのです。そしてこの精神を法蔵菩薩と名づけるのです。
もし菩提心が朽ちてしまえば、仏教も浄土真宗も名ばかりの抜け殻になってしまい、悪臭紛々とした邪教に陥ってしまうでしょう。また、「実際そうなりかけていないか」という問いが発せられない限り、現状を改革することはできません。
あらゆる人々が真摯に道を求める心を相続していってほしい、と念じて止みません。
527 御礼および再質問です
Q&A「行における本尊の位置づけ」、ご教授ありがとうございました。
中仏通信で学んでおりますが、ここまで質問することは難しく、こうして真摯にご回答いただけることは本当に有難いことと思い、感謝致しております。いままで真宗の教えとご縁がなかった者にとって、自分の中にある仏教や宗教に対する先入観が邪魔をして教えが素直を入ってこないことに焦燥感を抱いておりました。私も学ぶ構えが問題なのではと思っており、どうも方向違いの疑問が先立ってしまう自分にあきれるものがあります。どうか、ご指導をお願い申し上げます。
この口が渇ききらないうちに、執拗で笑われそうですが、もう一点お尋ねしたことがございます。
以下、引用
<特定の本尊を崇拝する><特定・唯一の本尊(モノ)を拝まなければ、ご利益もない><行がなくても本尊さえあればよい>という迷信的な傾向に陥る可能性を予見できたからでしょう。事実、日本においてこの迷信に陥っていない人は果たしてどのくらいみえるでしょう。また、こうした明らかな迷信ではなく真面目に求道する中でも、信心の定まっていない間はどの仏をどう見たらいいのか定かではないので、聖人は正定聚に住する立場から翻って指導されたのでしょう。この点について実践的側面から五種正行について述べてみますと――
上のお示しのなかで、「<特定の本尊を崇拝する><特定・唯一の本尊(モノ)を拝まなければ、ご利益もない><行がなくても本尊さえあればよい>という迷信的な傾向」、「こうした明らかな迷信」とございます。しかし、お示しのとおり、この迷信に陥っていない人は少ないのでしょうし、また当然ながら、本人はこれを迷信とはまったく思っていないものだと思います。では、「明らかな迷信」という「明らかな」は、どう明らかなのかをお教えいただければ幸いです。
私の問題意識としては、「ただひとつの特定の物体としてモノを、どうして本尊とするのか。なかには、それを唯一絶対とし、それが滅すれば仏教も滅びるという教えさえあるが、どうして、そうした教えが成り立ち、どうして信仰されるのか。」ということです。
このことについて、仏教、浄土真宗からみて、どう「明らかな迷信」かをお示しいただければ幸いです。これは、決して他の仏教を批判するものではなく、自分の中にもある迷い、何といったらよいか、行もなく対象へ救いを求める煩悩に関して、回答を得たいという心から質問させていただくものです。
2004/06/13 08:21:26
私が足利先生からお聞きした話ですが、京都の高尾山の神護寺の一等の宝は、砂浜にあった只の石ころだったそうです。それは明慧上人が、仏教の退廃を歎いて、原始仏教の昔を慕い、仏跡を訪ねたいと、インドへ渡ろうと企てたが果さず、和歌山県の海岸に立って、遙か西の方を観めていたら、足元を海の波が洗っていた。ふとこの水は、その昔お釈迦さまが、ニレンゼン河で足を洗われた水かも知れぬと思われた。そこにあった小石、お釈迦さまの足を洗った水で洗われたかも知れぬ、その小石を拾って帰り、一生お釈迦さまお釈迦さまと、その小石を撫でられたということです。この明慧上人の仏教復興を願うご精神が染みついた石が、高尾山一等の宝となったそうです。そこであるすべてのものが宝からできているということは、存在するすべてのものが、自然存在としてそこにあるだけでなく、その一つ一つがそこに住んでいる人の人格を象徴し、歴史を物語っていることでしょう。またそういう象徴的存在であることを、それを見る人が感得して、それに喜びを感じ満足していることでしょう。たとい高価なものであっても、不平不満があったり、嫌な想い出のあるものは、真の宝ではありません。
島田幸昭 著『仏教開眼四十八願』32 より