平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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人類の生み出した最も悲惨な負の遺産といえば、政府国家が絡んだ「核兵器」、企業や人類全体が絡む「環境破壊」等が挙げられるが、組織の横暴を最大に用いる「カルト」もそれらに負けず劣らぬ巨悪である。カルトの恐ろしさは、人間の善意を逆手に取るところにあり、人格が支配され家庭を根本から破壊する結果をもたらす。「核兵器」が生命の破壊、「環境破壊」が物質の汚染なら、「カルト」は精神の汚染の最たるものであろう。
これまで専門書としてはいくつか出ていたが、この『「救い」の正体』は、難解な用語は極力避けられていて、一般の人にも読みやすい。学生等へのカルト対策としてはうってつけの本である。
◆ カルトの実体
カルトを「熱狂的な宗教(組織)信者集団」程度に思っていては甘い。家庭は確実に崩壊し、「しつけ」と称する幼児虐待が横行、社会的にも敵対した相手には執拗な攻撃を繰り返す。また、個人の意見は踏みにじられ、ひたすら組織の拡大に邁進させられる。
洗脳されたら、その人にまともな人生はありません。人生がそこで終わってしまうのです。[P.75]
母は怒り始めたらものすごくて、本当に怖かったですよ。
思いっきり殴られると、子どもですから大声で泣く。ところが、泣くと反省していないって、またやられる。それで、泣くときはいつも唇を噛んで堪え忍んだものです。(カルトに入っていた母からの仕打ち)[P.136〜137]
カルト宗教にマインドコントロールされると、性格はもちろん、顔つきまで変わってきます。表情がなくなって、能面のようになってゆくんです
[P.166]
ひどい場合は多重人格者や自殺者まで排出する。そのため家族は何とか脱会させようと必死になるが、そのための闘いの過程描写は実に凄まじい。また、脱会は必ずしも成功するとは限らない。
かつてカルトはキリスト教系の組織に多発していたが、最近は宗教以外のカルト、仏教の名を語るカルト、浄土真宗の名を用いたカルトさえ発生している。
◆ カルトに導くテクニック
そうした洗脳に「私の家族は大丈夫」と、根拠もなく安心していると危険である。カルトに導くテクニックは巧妙で、生半可な対策ではとても追っつかない。その様々な手段についても本書は触れている。
カルトの大半は宗教なのだが、カルトの正体を暴くことに熱心なあまり、宗教本来の持つ深い世界まで否定しかねないコメントをよく聞く。実は本書もその傾向が「無きにしもあらず」と言える。
宗教は比較できない一線もあるが、充分に比較可能な次元もあり、問題として浮かび上がってくるカルトの危険性には、充分に練り上げられた宗教との比較が不可欠だったのではないだろうか。「比較されるのも迷惑」という各宗の思惑はあるだろうが、正統と異端の微妙な違いなどは、宗教体験(信心の体験)からしか語ることができない。
「異端の排除は目的としていない」という姿勢はわかるし、そこまで踏み込むと「やぶ蛇」になるかも知れないが、「なぜ宗教に人は引きつけられるのか」という普遍的なテーマを(何人かは)バックボーンに持った上で、その対極としてカルトを語るべきだったのではないだろうか。
そうした視点さえあれば、本書の最後に掲載された米本氏の発言――「鎌倉仏教だって、できたときはカルトだったんだからさ。そこを押さえとかないと、この反カルトのカルト性の座談会だって、不毛なだけなんだよ」、などという「不毛な」発言が掲載されることは無かっただろう。
蛇足第二段となるかも知れないが、最後に私のカルトに対する意見を――
俗の中の俗である家庭を「聖なる場にしなければ!」という強迫観念が嘘を生み、嘘が家庭を崩壊に導いてしまう。カルトはその観念を凝縮し、崩壊のサイクルを爆発的に早めてゆく。
俗なる家庭が俗であることを受け入れ、許しあう中でこそ人は育ち、俗に流されっぱなしの自己に変革をもたらす土壌となる。
そういうはたらきの場こそ浄土ではないだろうか。