平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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「極楽」(阿弥陀如来の極楽浄土)については前回の {浄土理解の相違点} で詳しく述べましたが、今回の質問に関連する事柄を簡単に述べますと――
まず、「宿業」は衆生が歴史的に造ってきたあらゆる業(身口意)の集合であり、心の眼が開けると、この宿業の因縁を背負った泥田のような現実社会が見えると同時に、業の始まりからずっと寄り添って尊い仏性を植え育て「全ての人に蓮華のような人間としての華を開いた人生を願ってほしい」とはたらく世界があることが覚れます。またこうした信を得た人を通して、覚りの功徳持つ世界(如来世間)が明らかになり、またこの世界が宿業の現実社会に功徳を展開する土徳を持っていることも解ります。この世界を「浄土・極楽浄土」と呼ぶのです。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈 より
意訳▼(現代語版 より)
すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
上記は至心釈ですが、親鸞聖人は「信楽」・「欲生」と、さらに深く如来の心を追求されてみえます({本願の三心} 参照)。
ところで一般には、「地獄・極楽は死後の世界」と思ってみえる方が多くみえますが、これでは「諸法無我」を印とする仏教の教えではありません。霊魂不滅の説は仏教が真っ先に批判した考えです。本当は、地獄も「この世、この場の深きにある」のです。
「地獄は死後の世界だろう」という認識は、人生の問題に目覚めていない人間が、経典の言葉を理屈のみで受け取ったために生まれた誤解でしょう。また、仏教が「新しい酒を古い皮袋に盛る」という形式で、他宗教(特にバラモン教)の言葉を流用していることを知らず、外道の意味をそのまま用いて解釈したためにおこった誤解でしょう。
「古い皮袋に盛る」形式は、キリスト教では避けられる行為ですが、彼らが征服地や古い文化文明をとことん否定し破壊し自分達の教えを強制したことと比較すれば、宗教紛争を避けつつ法を展開した姿勢には賞賛を送るべきでしょう。しかし、だからこそ私たちの側が法を峻別する眼を持たないと、バラモン教や道教などと混ざってしまいますので注意が必要です。
総じて言えば、解っていないくせに解ったふりをしている偽僧侶の説や、情報の整理ができず頭でっかちで体験の無い学者の観念論、「仏教の威儀をもととして、天地の鬼神を尊敬す」と聖人が悲歎された有様から誤解が起ったのです。
もちろん、様々な理由から死後の問題として説くしかなかった時代や社会環境もあったでしょう。しかし今の日本では、仏の本意を説くことができる時代・環境があるのですから、誤解を誤解と示し、正しく仏法を述べなければならないでしょう。
源信僧都は地獄を見て『往生要集』を書いたと伝えられている。地獄を見る眼は知識の眼ではない。心の眼である。仏の智慧によるのである。それ故千年昔の聖者のみではない。今日のわれわれも心の眼が開けるならば、源信僧都と同じように、この世で地獄を見ることができるに違いない。親鸞聖人も「仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり 三途の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ」と、ひと度信眼が開ければ、仏の光明の徳によって、地獄、餓鬼、畜生の三悪の世界が、明らかに見えるようになると、歌っておられる。
「地」はまた「住」である。そこに生まれてそこに死す、生活の依る所であり、生活そのものである。「地」は生活の大地である。経には「行業の地」と説き、また宿業の地という。「地下一千由旬に在る」とは、巻尺を以って計った数千里下に、地下室があるというようなことではない。われらの生活を掘り下げることである。われらの住んでいる世界を、われらの生活そのものを深く見開くことである。「地下一千由旬」、何と端的な、また簡単明了な表現であろうか。われらの立っている大地を、深く掘り下げれば掘り下げるほど、今まで見えなかった世界が見えて来る。しかし掘り下げると言っても、われらの居る場所を離れたどこかの違った世界のことではない。われらがそこに置かれている生活環境の眼の前の事実である。われらはそこに居りながら、それと気づかずにいた世界のことである。それを「この閻浮提の下、一千由旬にして等活地獄あり」と説かれたのである。
島田幸昭 著『地獄探訪』 より
地獄というのは、浄土とか宿業もそうですが、常識で考えている間は見えませんが、信眼が開かれれば見える世界です。仏性・まごころの眼で見れば、完全ではなくても、それぞれの境遇の中から見える世界です。
また、地獄の業果を受ける時には、はっきりとは見えないけれど、その苦しみだけは身心に深く刻み込まれます。ですから、苦しみを受けた時に地獄の正体がはっきりと見えていれば、その状態を作り変える因縁も準備できます。逆に言えば、地獄が見えないと身心を苦しめているものの正体がわからず、いつまでたっても苦から脱出できないのです。
ですから、地獄の苦を受けた時には少しでも地獄の有様を見ることが苦からの脱出の第一歩であり、地獄を見ようとせずに苦から脱出したと思っても、実は苦の原因は身心の奥底に深く進入して、底知れぬ深い苦しみの準備を開始しているのです。
さらに言えば、宿業もそうですが、地獄を見たその眼も同時に見ることが重要です。宿業や地獄を見る眼そのものも見ないと、地獄を見た途端に絶望に陥る可能性があるからです。
そこで源信僧都は、「厭離穢土」の第一に地獄を挙げてみえます。
【02】大文第一に、厭離穢土といふは、それ三界は安きことなし、もつとも厭離すべし。
いまその相を明かすに、総べて七種あり。
一は地獄、二は餓鬼、三は畜生、四は阿修羅、五は人、六は天、七は総結なり。
【03】第一の地獄に、また分ちて八となす。
一は等活、二は黒縄、三は衆合、四は叫喚、五は大叫喚、六は焦熱、七は大焦熱、八は無間なり。
【04】初めに等活地獄といふは、この閻浮提の下、一千由旬にあり。
縦広一万由旬なり。
このなかの罪人、たがひにつねに害心を懐けり。
もしたまたまあひ見れば、猟者の鹿に逢へるがごとくして、おのおの鉄の爪をもつてたがひに掴み裂く。
血肉すでに尽きて、ただ残骨のみあり。
あるいは獄卒、手に鉄の杖・鉄の棒を執りて、頭より足に至るまで、あまねくみな打ち築くに、身体破砕すること、なほ沙揣のごとし。
あるいはきはめて利き刀をもつて分々に肉を割くこと、廚者の魚肉を屠るがごとし。
涼風来りて吹くに、尋いで活ること故のごとし。
■[コツ]然としてまた起きて、前のごとく苦を受く。
あるいはいはく、空中に声ありていはく、「このもろもろの有情、また等しく活るべし、また等しく活るべし」と。
あるいはいはく、獄卒、鉄の叉をもつて地を打ちて、唱へて「活活」といふ。
かくのごとき等の苦、つぶさに述すべからず。
以上、『智度論』・『瑜伽論』・『諸経要集』によりて、これを撰す。
人間の五十年をもつて四天王天の一日一夜となして、その寿五百歳なり。
四天王天の寿をもつてこの地獄の一日一夜となして、その寿五百歳なり。
殺生せるもの、このなかに堕つ。
『往生要集』 巻上 厭離穢土 地獄 等活 より
分り易い文章ですから意訳するまでもありませんが、最後の「殺生せるもの、このなかに堕つ」という言葉が肝要です。地獄は「殺生」によって造られるのです。地獄の基礎工事は殺生です。
ただ、「殺生」といっても刃などで生き物を殺すことではありません。自他の「仏性」を無視することを「殺生」と言うのです。相手のまごころを無にすることが地獄の基礎工事となります。なぜなら相手のまごころを無視した業は、同時に自分のまごころの働き場を失ってしまうからです。
仏性が働く場、まごころが通じる場を「幸せのある処」と仏教ではよんでいますが、「地獄」は中国語の意訳であり、オリジナルのインドでは「ナラカ」・「ナラク(奈落)」といって、幸せの無い処をこう呼んでいます。
ですから、地獄を離れるには、仏性を見て仏性のはたらきを拝むことです。一切衆生のもつ仏性を発見することが肝心で、相手のまごころを見て、自分のまごころと感応していくことが本当の幸せであり喜びとなります。これを「供養」といい、阿弥陀如来は信心獲得の念仏者に一切衆生を供養していくことが願われています({供養諸仏の願} 参照)。
これは親鸞聖人も経を引用して述べてみえるように、覚った人は「一切衆生悉有仏性」と眼見し、手の中にある木の実を見るように一切衆生の仏性を見ることができます。覚りに至らない衆生でも、仏の言葉を信じて相手の仏性を「聞見」することはできます。はっきりとは見えないけれど、仏の言葉の確かさに肯づいていくうちに少しづつ見えてきて、信心の徳により等正覚の菩薩となれば、仏と全く同じではないが等しく眼見することさえできるのです。
簡略的に言えば、殺生すれば地獄が出来上がり、供養(尊敬して相手から学ぶ)すれば極楽浄土が姿を現わすのです。相手のまごころを無視する人や、仏教をよく知ったふりをして相手の仏性を無視する人は、特に地獄を作り出す張本人といえるでしょう。
つまり、「煩悩具足の凡夫」という言葉も、慚愧の言葉でなく実体として受け取ってしまえば「地獄の所業」と言えるでしょう。しかもこれを相手に強要して、「お前は煩悩具足の凡夫だ。それが分らんのか!」と言えば、「手に鉄の杖・鉄の棒を執りて、頭より足に至るまで、あまねくみな打ち築くに、身体破砕すること、なほ沙揣のごとし」と表現される通りの光景がそこに展開します。仏法を説く時は、見たり聞いたものにとらわれるのではなく、見えた眼を見、聞こえた耳を聞いて、余程領解を深めて説かなければならないでしょう。
なお、『往生要集』にあるように、地獄は代表的なものだけでも、「等活地獄」・「黒縄地獄」・「衆合地獄」・「叫喚地獄」・「大叫喚地獄」・「焦熱地獄」・「大焦熱地獄」・「無間地獄」の8種がありますが、それぞれの名前が地獄のありさまを明瞭に表しています。
例えば「等活地獄」は、「等しく活きることを強要される世界」といわれます。他人と同じであることを強要されると、その人自身の存在の意味が破壊されてしまいます。
そして尊い仏性を打ち砕かれた人は、今度は他人を木っ端微塵に粉砕してゆくことになります。自分と考えが違う人を許さず、自分と等しい意見にしようと害心を抱き、たまたま意見の違う者と出会えば、つかみ裂いて争う。「血肉すでに尽きて、ただ残骨のみ」となって、「争いは懲りた」と思っていても、地獄の業が見えない限り、仏性が育たない限り、時が来れば同じことを繰り返すのです。
ですから「人間の五十年をもつて四天王天の一日一夜となして、その寿五百歳なり。四天王天の寿をもつてこの地獄の一日一夜となして、その寿五百歳なり」という表現も、たとえば歴史上繰り返された宗教戦争の有様を見れば、誇張した表現とは言えないでしょう。
また「黒縄地獄」は、熱鉄の縄が身に絡まり、身が焼け切られる世界です。
世俗の繋がりは業の繋がりでもあるでしょう。家庭や学校や会社や組織や国といった繋がりは、自身を活かす場であるとともに、組織の締め付けが個人に強要される場でもあります。閉じた場にはどれほどの恐ろしい業が渦巻いているか、心の眼が開けば見えてきます。
具体的にいえば、家庭内で児童が虐待され、学校でのいじめで身心を傷つけ、会社ぐるみで犯罪を行い社員は口止めを強要され、宗教団体が信者に絶対服従を強いる、といった有様をいうのでしょうか。生活を成り立たせ身を活かしているつながりが、反面、身を縛り肉を刻む縄となっているのです。
他の地獄につきましては、機会がありましたら「具体的にどういうことを言うのか」という問いをもって『往生要集』を読んでみてください。源信僧都の見た世界がそのまま見えてくると思います。
さらに付け加えれば、結果的にいえば、最悪の地獄の苦よりもっと激しい苦を生むのが天上世界である、ということも書いてありますが、味わい深い話です。
「悪人が救われるのなら、オウム教団の麻原が阿弥陀仏を信じれば救われるのですか?」ということですが、全ては因縁によって果を生じるのであって、救われる因縁がなければ誰も救われません。そして「自業自得」の道理は真実ですから、自身の因縁は誰も代わっては成してくれません。本人の自覚や行動がなければ救いはないのです。
ただし、宗教的な救いは、誰かが判決を下して救うかどうか決める問題ではなく、生きている現実が「幸せのある処」か「幸せの無い処」かが問われ、またそうした因縁をつくっているかどうかが問われるのです。
前述の「地獄・極楽の分かれ目」で述べましたとおり、相手に自分の説を強要したり、社会全体を憎んで無差別殺人を犯し、自己満足で信者を従属させるような人は既に地獄の業が深いと思われます。今後この業が救われる可能性があるとすれば、本人自身が「慚愧・懺悔」を行うしかないでしょう。
たとえば『観無量寿経』や『涅槃経』に、父を殺害し、母を幽閉した阿闍世王の物語がありますが、阿闍世とその母親は、釈尊の導きによってともに救われていきます。その時に要となったのが、「慚愧」と「菩提心」です。
仏ののたまはく、〈大王、善いかな善いかな、われいまなんぢかならずよく衆生の悪心を破壊することを知れり〉と。
〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉と。
そのときに摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもつてのゆゑに、阿闍世王所有の重罪すなはち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮、采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。
そのときに阿闍世王、耆婆に語りていはまく、〈耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ〉と。
『涅槃経』(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 逆謗摂取釈【116】に引用) より
意訳▼(現代語版 より)
釈尊が仰せになる。<王よ、よいことである。わたしは今、そなたが必ず衆生の悪い心を破ることを知っている>と。
阿闍世が申しあげる。<世尊、もしわたしが、間違いなくさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄にあって、はかり知れな長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません>と。
そのとき、摩伽陀国の数限りない人々は、ことごとく無上菩提心をおこした。このような多くの人々が無上菩提心をおこしたので、阿闍世王の重い罪も軽くなった。そして阿闍世とともに韋提希夫人や妃や女官たちも、ことごとくみな無上菩提心をおこしたのである。
そのとき、阿闍世が耆婆にいった。<耆婆よ、わたしは命終ることなくすでに清らかな身となることができた。短い命を捨てて長い命を得、無常の身を捨てて不滅の身を得た。そしてまた、多くの人々に無上菩提心をおこさせたのである>と。
このように、自分の業を深く慚愧し、「あらゆる人々のために、自らが長く無間地獄にあってもそれを苦しみとしない」という心が起こり、これが縁となって多くの人々が無上菩提心をおこしたため、阿闍世の「重い罪も軽くなった」のです(月愛三昧 参照)。
ですから、簡単に「麻原が阿弥陀仏を信じれば救われるのですか?」と問われても、信ずる内容が問題となるでしょう。これは、{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?} にも書きましたが、信心は無上菩提心であり、無上菩提心とは願作仏心・度衆生心であり、真剣に仏に成ろうと願い、衆生とともに覚りを得ようという心が発こって来なければなりません。
しかし、裁判における松本智津夫の意見陳述を読んだり、行状を聞くと、今のところそうした機会が訪れた形跡はなく、「弟子たちが勝手に殺人を犯した」とか「無罪釈放の決定がすでに出ている」というような自己弁護を繰り返しているだけです。
おそらく、社会の問題には何の関心もなく、弟子の処遇にも関心がなく。ただ単に、ひたすら自分の無罪釈放だけに意識を集中しているのでしょう。これではとても無上菩提心を発こしているとは考えられません。現実の苦しみや罪の意識から逃げに逃げているのでしょう。
これは、自ら作った地獄世界をそのまま見ることが恐ろしいのです。神秘主義に走る人間の奥底には、こうした逃避的な性格が反映されています。
ここで問題なのは、こうした度を越した反社会性や強い我執は、社会に絶望感を抱いている人や、自分の意見を持たない人にとっては、時として魅力に映ってしまうことがあるということです。現代社会は、こうした空虚な心を生み出しやすい環境にあり、学校においても、歴史や道理をわきまえて論を展開する教育ができていないのではないか、と懸念されるのです。
地下鉄サリン事件の後も、国民の精神文化について大々的な対話はされることなく、傷ついた被害者を支援する動きも極めて緩慢でした。
こうしたままでは、いずれ第2第3の麻原彰晃が出てくるでしょう。麻原は1人でできたのではありません。松本智津夫という俗人を核に、閉ざされた地獄的な環境によって組織が麻原を作り出したのです。まごころが通じない地獄的環境によって、単なる俗人の戯言に皆が油を注ぎ、大きくなって誰も火を止めることができなくなったのです。
教育の現場、特に幼児期や小学校までは、まごころを育てる教育に重きを置かなければ、後から育てるのはなかなか困難です。教師も互いの存在の尊さを自覚して教育に当って欲しいのです。特に、国語や歴史を学ぶ時、先人たちの試行錯誤を尊ぶようにしなければまごころは育ちません。まごころが育っていれば、ある一線を超えた行為は簡単にできるものではありません。身体が受け付けなくなるのです。
そこで提言したいのは、先人たちの成功はもちろんのこと、失敗した歴史も、けなすのではなく、どういう心情でそれを行ったのか、双方のまごころを学び、どういう経緯で通い合ったのか、どういうすれ違いで通い合わなかったのか、ということを学ぶ必要があるということです。
たとえば「ゆとり教育」が提唱されながら迷走を重ねた現場には心痛みますが、詰め込み教育が反省されてどの方向に子どもたちの教育環境を整えるつもりなのでしょう。どう再編成するつもりでここまで来たのでしょう。このままでは、以前よりもっと悪い方向で詰め込み教育が復活し、親の資産などによって子どもが運命づけられるような体制になりかねません。
地下鉄サリン事件から長い歳月が流れようとしていますが、一連の事件から学ばなければならないのは、元信者はもちろん、こういった人物や組織を生みだしてしまった国民であり、教育の不備をかかえる社会でしょう。環境が変わらなければ、また形を変えた同種の犯罪が起ります。
特に宗教界は、「あれは邪教だから」という単純な割り切りをせず、「宗教の持っている洗脳性・地獄的側面が自らと教団の中には無いだろうか」と問うべきでしょう。そして、その地獄を作り出す因縁を明らかにするとともに、それを浄める因縁を明らかにし展開する、という社会的課題を背負っているといえるでしょう。
麻原が救われるかどうかは本人の問題です。しかし、地下鉄サリン事件等が残した課題は私たち1人1人が真摯に受け止め、社会や人間関係を再構築するきっかけとしなくては、社会そのものが救われていきません。私たちは、まごころの教育の課題にもっと眼をむけていくべきではないでしょうか。