還浄された御門徒様の学び跡 |
このとき釈尊は阿闍世の為に月愛三昧に入られ、三昧が終わって大いなる光明を放たれ、その光明は阿闍世の全身のできものをたちどころに治癒した。
耆婆[ぎば]:
「――如来はあらゆる衆生を平等に見られるが、罪あるものには特にこころをかけてくださる。たとえば王さまのおこされた慙愧の心のように、善の心のある衆生をただご覧になるのです。善の心があるなら、慈しみの心をかけてくださるのです。王さま、この光明は如来が月愛三昧に入って放たれたものに違いありません」
阿闍世王[あじゃせおう]:
「月愛三昧とはどのようなものか」
耆婆:
「たとえば月に光がすべての青い蓮の華を鮮やかに咲かせるようなものであります。
月愛三昧もまた同じです。衆生に善の心を起こさせます。たとえば月の光が道行く人の心に喜びをおこさせるようなものです。さとりへの道を修めるものの心に喜びをおこさせます。あらゆる善の中でもっともすぐれたものであり、甘露のあじわいであり、すべての衆生が願いもとめるものであります。だから月愛三昧といいます」
釈尊:
「どのような衆生もこの上ないさとりに近づくためには、まず善き友を縁にするに越したことはない。すべての衆生がつくる罪には総じて二通りある。一つには軽いもの、二つには重いものである。心と口につくる罪は軽く、身と口につくる罪は重いのである」と説き、以下に阿闍世王の犯した罪と身口意のかかわり、また父王の過去の罪、善根悪果のすがたを説き、阿闍世を苦悩からすくい、導いたのである。
阿闍世王:
「世尊、わたしはもし世尊にお遇いしなかったら、はかりしれない長い間地獄に堕ちて、限りない苦しみを受けなければならなかったでしょう。わたしは今、仏を見奉りました。そこで仏が得られた功徳を見たてまつって、衆生の煩悩を絶ちきり、悪い心を破りたいと思います」
釈尊:
「王よ、よいことである。わたしは今、そなたが必ず衆生の悪い心を破ることを知っている」
阿闍世王:
「世尊、もしわたしが、間違いなくさまざまな悪い心をやぶることができるなら、わたしは、常に無間地獄にあって、はかり知れな長い間、あらゆる人々の為に苦悩を受けるようになっても、それを苦しみとはいたしません」
阿闍世王は慙愧の心をもったが故にすくわれ、さらに利他の心を起こしたのである。それがゆえに、そのとき、マガダ国の数限りない人々は無上菩提心を起こした。そのために阿闍世王の罪は軽くなったのである。そして阿闍世王とともに母君韋提希夫人も王の妃も女官もみなともに無上菩提心をおこしたという。
親鸞聖人は教行信証 信文類三(一一八)にこのようにいわれている。
「いま釈尊の真実の教えによると、救われがたい五逆・謗法・一闡提のもの、すなはち、治しがたい重病人とたとえられたものも、阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓願にまかせ、他力回向の信心に帰すれば、如来は深く哀れみ、救ってくださる。たとえば、醍醐の妙薬がすべての病を治すのと同じである。五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々は、なにものにも砕かれない他力金剛の信心をいただき、尊い本願の妙薬をしっかりとたもたねばならない」
また、涅槃経には、「阿闍世王が無間地獄におちることを恐れている」のに対し、「王の罪ではない」として、次のように説かれている。
釈尊:
「すべての衆生がつくる罪に二つある。心と口につくる罪は軽く、身と口と心につくる罪は重い。
王は心に思い口に言うだけで、身に行はないからその報いは軽い。
王は、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよと命じただけである。
王がもし家来に、王を殺せと命じたら家来は直ちにそうしたであろう。そのとき首を切ったとしても、命じただけで王の罪にはならない。まして王はそのように命じていないのだからどうして罪になろうか」
「王にもし罪があるなら、仏がたにも罪があるであろう。なぜなら、父王、頻婆婆羅王[ひんばしゃらおう]は、いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであり、仏がたが供養を受けなかったら王位にはつかなかったのであり、王位につかなかったらそなたが国を奪うため父王を殺害することはなかったであろう。そなたが父を殺しそれが罪になるなら、わたしを含め仏がたにも罪があるはずである。仏がたに罪がないのだからどうしてそなたに罪があろうか」
「昔、父王、頻婆婆羅王は、鹿狩に出かけたとき、一頭も獲物を得ることができなかった。そのときひとりの仙人がいたが、王は《この仙人がいたから獲物が獲れなかったのだ》と腹を立て家来に殺させてしまった。
このとき仙人は、《わたしには罪はない。それなのにおまえは心と口で非道にもわたしを殺す。わたしも来世では、またおまえがしたように心と口でおまえを殺す》と誓を立てたという。それを聞いて父王は心に後悔の念を起こし、仙人の亡骸を供養した。その功徳で地獄に堕ちなかったのである。まして王は殺せと命じたわけではないのに地獄に堕ちるはずがあろうか。
父王は自分の罪の報いを受けたのである。王には父王を殺したという罪はない。
罪があれば罪の報いがあり、罪がなければ罪の報いもない。
そなたの父王に罪がないなら、どうして殺されるという罪の報いがあろうか。
父王はこの世で王になるという善果と、殺されるという悪の果報を得た。だから父王は善とも悪ともいえない。善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である。
殺したことが善悪不定ならどうして地獄に堕ちるといえようか」
「衆生の錯乱には総じて四通りある。
一つには貪欲
二つには薬によるもの
三つには呪われたことによるもの
四つには過去の行いによるものである。
わたしの弟子たちの中にもこの四つの錯乱がある。錯乱したものが多くの悪をつくったとしても、わたしはこの人が戒律を犯したとはしない。
衆生が錯乱してつくった悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。
王が国王につきたいという心から父王を殺害したのであって、それは貪欲による錯乱からしたことである。どうして罪になろうか。……云々」
そして《空》の概念を説かれている。
「涅槃が有でもなく無でもなくて、しかも有であるようなものである。殺害もまた同じであり、有でもなく無でもなくて、しかも有なのである。慙愧の心有る人には有ではなく、慙愧の心がない人には無ではないのであって、その報いを受ける人から言えば有なのである。
涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人には有ではなく、それをさとらない人には無ではないのであって、涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人から言えば無であるとすることはできない。なぜかというと、変ることなく存在することにとらわれている人には、悪い行いの報いがあるからである。だから、涅槃が変ることなく存在することにとらわれているひとからいえば、無であるとすることができないのである。このようなわけで、有でもなく無でもなくて、しかも有なのである」と。
形而上学の問答は深遠で、わたしたちにはなかなか理解しがたいものがある。しかしこの問答の後に続く阿闍世王の言葉は悪の衆生が仏により導かれて行くものの崇高な感動がある。それが『無上菩提心をおこす』ということなのであろうか。
『涅槃経』に書かれてある罪悪観、例えば「そなたが父を殺しそれが罪になるなら、わたしを含め仏がたにも罪があるはずである。仏がたに罪がないのだからどうしてそなたに罪があろうか」とか「善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である」という記述は、一般の常識とは異なります。これは国などの定める法律とは視点が違うのです。仏教における極刑は教団追放であって、それ以上のものではありません。仏法と世俗の法は、つながりは大切ですが、混同は避けなければならないでしょう。
仏教において語られる罪悪は、すべて「覚りへの道を妨害する」という視点で述べられています。戒律もこの視点で成立していますし、教えもここを外して理解してはいけません。覚りへの道は「無上菩提心」として語られ、内容は「願作仏心」と「度衆生心」です。つまり、さとりの功徳を自らに受け入れ「自覚覚他・覚行円満」の人生を送るという自利=「願作仏心」と、さとりの功徳を全ての衆生にふり向ける利他=「度衆生心」に背くことを罪とするのです。
ですから、「阿闍世王は慙愧の心をもったが故にすくわれ、さらに利他の心を起こしたのである。それがゆえに、そのとき、マガダ国の数限りない人々は無上菩提心を起こした。そのために阿闍世王の罪は軽くなったのである」と言えるわけです。
また、「涅槃が有でもなく無でもなくて、しかも有であるようなものである」とは、涅槃というのは「これ」と指摘できる実体はありませんから「有」とはいえません。しかし涅槃が無いと理解するのも間違いです。常住の涅槃を覚っていて、しかも常住にとらわれていない人にしてみれば、涅槃は親しい境地ですから「有であるようなもの」といえるわけです。
同様の意味で、「慙愧の心有る人には有ではなく」とは、殺害をしても、人びとにその罪を告白し、大いに慚愧をもって無上菩提心を起こせば、「願作仏心」と「度衆生心」に添い、罪は残らない。アジャセも「慙愧の心を持ち、利他の心を起こした」ゆえに罪は軽減されたわけです。ただ慚愧の心の無い人は、無上菩提心に背いたままでですから、殺害の罪悪はそのまま残るのであり、その報いを受けるので殺害の罪は有るといえます。
「涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人」というのは、慚愧の心から無上菩提心をおこしている人ですから、殺害は「有ではなく」軽減されているのですが、「それをさとらない人」や「涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人」は、真には慚愧できず、無上菩提心をおこしているとは言えませんので、「無であるとすることはできない」のです。
ですから殺害は「有でもなく無でもなくて、しかも有なのである」といえるのです。諸仏は世間の考え方に合わせて「殺害」を「有」としてその因果を説きますが、真意は慚愧と無上菩提心を起こすことを勧めてみえるのです。
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