平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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今日、日本文化論で、「シャーマニズムと宗教は深い係わり合いがあり、伝統的な仏教も(浄土真宗も)、関係者は“われわれは超越した不思議な力を信じるようなところから進歩した”と怒るかもしれないが、実は深いかかわりがあって、それをどうにか隠そうとしている。日本人には無意識のどこかでシャーマニズムを信じる思考が昔からあり(卑弥呼とかの例をあげてました)、仏教のように学問化した宗教ではどこか満たされない人はシャーマニズムが売りの新興宗教にはしるひともいる。」と説明がありました。
でも、あらかじめ、先生からは「生徒から質問があったから、独断と偏見で答えたけれど、本当は違う分野の先生に答えて欲しいところで、自分はあまりこういうことは言いたくなかった」と前置きがありました。
それから、日本はどこかでシャーマニズムの信仰がある説明で、「小学生(特に女の子)が別に学校から教わるわけでもないのに自然と”こっくりさん”にはまる時期があり、ある年齢とともにそんなことをやったことも忘れてしまう。これは意識されずに無意識の領域ですることだからある年齢を過ぎると、やったことすら忘れて意識に残らない。それから、学校の遊びの中にも取り込まれていて、“かごめかごめ”などは超越した不思議な力をもつシャーマンが見えないものをあてるということが形が残って遊びになっている。この遊びは誰からおしつけられたものでもない。無意識の領域が関係している。」 というようなことでした。
なんとなく分かるところもあるけれど、「シャーマニズムと浄土真宗もすごく関係が深いけれど、それを隠そうとしている部分がある」というところが分かりませんでした。
結局宗教は不思議な力を信じるシャーマニズムと同じだけれど、学問にして隠してる、みたいな話でしたが、どうなのでしょう。
日本文化論の先生のお話ですが、ある面では当っていると言えるでしょう。しかしもう少し深く仏教を見ていくと、事実として否定することも可能です。これは近代から現代にかけての歴史的な経過とシステムの問題も関わってきますが、詳しく話しますと複雑になりますので、要点だけ紹介させていただきます。
さて、「シャーマニズム」とは、神などが人(巫女等)にのりうつった状態(神ががり)によって、予言を行ったり神託・託宣を受ける宗教行為をいいます。“こっくりさん”は、そうしたシャーマニズムの変形した一種ですが、子どもが「無意識の領域ですること」ではないでしょう。これは大人が教えたり、本などで情報を得なければ、子どもが自主的に行うことはないと思います。
“かごめかごめ”は少し傾向が違うかも知れません。江戸初期のとある有名な僧侶が関わっている、という説もありますが、真偽を確かめられませんので、ここでは紹介をひかえさせていただきます。
ちなみに、シャーマニズムは日本だけの文化ではありません。形態は違いますが、世界中で広く行われてきた宗教です。人々は飢饉や災害などを恐れ、シャーマンを通したお告げに頼って進む方向を決定していたのです。
しかし、多民族を包括する文明が誕生すると、より明確な指針と普遍性が求められ、あやふやな方法で示された道では民衆を動かすことはできなくなります。こうした傾向の中でシャーマニズムは次第に原始的な古い宗教形態として否定されていきました。
では、私たちの生活の中で、こうした古い迷信的な宗教は完全に滅んだのかというと、決してそうではなく、形を変えて残っていたり、人によっては現状打破のために真剣に頼ったりする場合も少なくありません。
仏教は、特に浄土真宗は、こうした迷信的宗教を批判し、覚りを求める心を中心に発展し今日に到っていますが、批判の仕方を間違うとむしろ逆効果になる、ということは僧侶としてよく経験することです。
なぜかといいますと、私たちの社会は人類が歴史的に経験したことすべてを背負って動いているのです。このことを忘れると上滑りした論になってしまうのです。つまり、迷信を批判することは大切ですが、否定することはできないのです。過去一切の行為は、一人一人の身心と社会の奥底に消滅せずに残っています。これを「宿業」といいます。宿業は、究極としていえば世界の歴史全てを含んでいます。さらに言えば、人類にまで進化したいのちや宇宙の歴史までも含んでいますが、特に地域的に長年続いた習慣は、私たちの生活に色濃く影響を与えているのです。
こうした事実を、「学問にして隠してる」ような状態では、生きた仏法は展開されません。学問は大切ですが、現実の私や社会を活かす学問かどうか、また学問を活かす智慧をもっているか、が問われるでしょう。
釈尊や親鸞聖人は、迷信を批判し、幾度も精神の脱皮を繰り返して、ひたすら一切衆生が覚りに至る道を求められた。人類の歴史としてそういう事実も厳然としてあります。しかし、その成果である「上澄み液」の部分だけを学んでも、私の中にある迷信性が克服されたわけではありません。先人たちはどのようにして迷信性を脱却されたのか、示された方法を実行しなければ、身心の奥にある火は消えません。理論として迷信を否定しても、縁が整えば形を変えて自分自身を猛火で焼くこともあるでしょう。
ですから、「無意識のどこかでシャーマニズムを信じる思考」は、仏教を学んでも決して消えることはありません。日本は島国であり、単一民族国家としての体裁が長く続いた分、シャーマニズムが力を失わず今でも色濃く影響が残っている、ということは確かでしょう。現実的な議論より、声高な扇動者に乗せられてしまう傾向があるのは、政治の世界でも見受けられるところです。また、権威に従属的な人が多い、という傾向も否めないところです。
ただ、このことで「日本は宗教的に劣っている」とは言い切れません。西洋では宗教戦争や異端審問・奴隷制度などの宿業が色濃く残り、今もこの影響を引きずっているのです。歴史的に繰り返された身口意の業は、脱却するための業が転じられなければ解決しないのです。
このことを意識した上で、真剣に法を学び、法を説く必要があるのでしょう。「私もあなたも、まだ迷信性を脱却していない状態である」と認めてから共に仏法を学び、必ず行を勧めるのです。ちなみに、覚りに至る行のうち、一切衆生に可能な勝れた行は称名念仏であり、その核となる「信」を開発することが肝心なのです。「信」は本願のいわれ(生起本末)を聞き、自分の人生と重ねて味わうことで如来の側から開発されてくる心です。
これによって、迷信性を持ったまま、そのことが覚りを求める心(菩提心)に転じられていくのです。ところが、迷信性をいきなり否定してしまうと、菩提心の根が浮いてしまい開発できなくなってしまうのです。そのことによって人々の心が僧侶や仏法から離れてしまい、逆により迷信性の高い宗教に頼ることになってしまいます。
これは特に僧侶は気をつけなくてはならないのですが、結論は言ってもいいのですが、強要してはならないのです。法の浸透は必ず如来の業に任せる。そして自分の無明性を見出したところから法を説くことが重要で、またその宗教経験は幾度も脱皮していく必要があるのです。
「法」として語られるのは唯だ一つの真実の法であっても、私の身に法が満ちていくのは時間と段階を要します。また、迷信性を打破するには多くの人の縁も必要とします。自分の本音を打ち明けつつ、多くの人の心根を聞いて、ようやく真実の生き方を求める心が、真実の側から開発されてくるのです。いわば「足元からの照らし」という経験です。
ですから、「シャーマニズムと浄土真宗もすごく関係が深いけれど、それを隠そうとしている部分がある」と日本文化論の先生が言うのも、かつては容易に否定できたのですが、「自分の迷信性を吐き出す場を失いつつある」という現状が進めば、次第に認めざるを得ない状態になる可能性もあります。
仏法を学ぶ人の輪が弘まることを念じつつ、日々励ませていただきたいですね。
一番最初も申しましたように、今日の私たちは、迷信はつまらぬと、かんたんに言ってのけますけれども、大昔の先祖は、今日迷信とされている、日柄がよいとか悪いとか、方角が良いとか悪いとか、墓相がどうの、姓名がどうの、あるいは先祖がたたるとか、神さまが雨を降らすとか、こういうものをみな通って来たのでありますから、それをむげにつまらぬと、けなすのでなく、われわれも一辺そこを通って来たのだという心をもって、歴史を見、社会を見てゆく。そういうことが、親鸞聖人の態度でありましょう。「総序」に「これすなわち権化の仁」とおっしゃっていることは、今日までの歴史が、たと表面はどうあろうと、和気の清麿もご苦労さん、僧の道鏡もご苦労さん、楠正成も足利尊氏も、過去の人々はみなご苦労さんといえることでしょう。一切のご先祖さま有難うございました。すべてが今日只今の私一人のためでございましたといえる。これが親鸞聖人の歴史観であろうと思います。
<中略>
分別することが悪いのではない。識の分別はいけないが、智の分別は大切である。仏教では「転識得智」といって、識を転じて智を得ることを説く。その識を転じて智を得るための転徹手の役をするものが慧であります。慧のことを根本智といっています。根本の慧が開かなかったら、識を転じて智を得ることができない。信仰には分別は要らぬ、学問は要らぬといいますが、そういう宗教もある。そういう信仰もある。けれども真実の宗教はそうではない。ご利益をもらう宗教や、またたんなる救済の宗教や、出家の宗教には、分別や学問は要らぬでしょうが、本当に人間が救われるためには、分別も要る学問も要ります。もっとも一口に学問といっても、いろいろあります。机の上だけでの死んだ学問がいけない。というのは、本当のことがわからずに、唯だ机の上で勉強して、ああじゃこうじゃと、小理屈をいうことがいけないので、本当の学問、活きた学問は要ります。昔の分別はいらぬ学問はいらぬというその場合、分別に対する反省、学問そのものに対する真実性の追究が忘れられている。分別は要らぬ、学問は要らぬ、名誉も要らぬ、地位も要らぬといいますが、智慧が開けて来れば、要らぬものは一つとしてない。学問をすれば学問が活きて来る。財産があれば財産が活きて来る。問題は、生きる材料ではなく、それを活かして使う主体的な智慧である。親鸞聖人の宗教は、智と慧の二つが大事な、智、慧の宗教であります。ですから、難思ということは、分別の否定ではなく、分別を尽くして分別を超える、もっと言うなら純粋な分別だと、私は思っています。
『教行信証開眼』難度海の道 より
仏教は智慧の宗教といって、他の宗教とは特別扱いされていた。神の宗教はご恩とか感謝という感情が主であり、バラモンのように難行苦行に堪える意志の宗教とは違うからです。今日では、神の宗教と変らぬ救済の宗教や、修験道や回峰行のような意志の宗教に変化したものがたくさんあります。
問題はそれらが私たち人間を本当に救うか、また正しい人生観に立った真実の宗教であるかです。そのことを厳しく批判精神をもって追及したのは、仏教だけでしょう。その最たる人が親鸞です。その迷信邪教の批判は腸を断つようです。
今日は仏教や釈迦の名を騙った怪しげな宗教が「雨後の筍」のように横行していますが、それに信教の自由という法律の為か、他の宗教を批判すれば罰が当るとでも思ってか。それとも信者の仕返しを恐れてか、政府も教団も、宗教学者も社会評論家も、「触らぬ神に祟りなし」と決め込んでいる。哀れなものは目隠しされた一般庶民でござる。
釈迦は「天に我を救う神もなく、傍らに我を助ける仏もおらぬ。まして地に呪うたりたたったりする悪魔がおるはずがない。自業自得は天下の道理である」と教えている。自灯明法灯明の教えは、さらにそれの内容を明らかにしたもの。
「自らを灯とせよ」とは、頼りになるものは、自分だけだということ。その自分が頼みにならぬ。それは人生図もなく羅針盤も持たぬからです。その生きる指導原理となるものを「法を灯とせよ」というのです。昔は戦さをするには、剣道と兵法が要り、碁打ちは打つ人の棋風(個性)と定石(碁の原則)が条件となります。
二つの灯を車でいえばハンドルとエンジン、船では舵と帆ですが、それらは道具で、それを操るものは運転者です。車や船の運転には、地図や海図が要るが、人生行路には地図も道もない。「自分の前には道はない。歩いた跡が道になる」。
一般には目的と方法とか、理想と現実といっていますが、仏教では本来 目的とか理想という考え方を嫌って、願いといっています。それは理性の文化と智慧の文化の違いからです。第一、目的も理想も眼が向こうに着いた考えですが、願いは「道は近きに在り」で、自分自身の内からの止むに止まれぬ、自己実現の足元の第一歩に重きを置いているのです。
第二に、よく「花は折り度し、梢は高し」とか、「言うは易く行うは難し」ということを聞きますが、その心根には、色んな先入観が禍いしています。その人は、理想と事相を混同し、事実と現実を履き違えています。事相は欲しいものが手に入る可能性のある願い。例、家を建てたいとか、先生になりたいという願い。理想は完成する可能性のない願い。例、親が親らしい本当の親になりたいとか、先生になったら人が先生らしい本当の先生になりたい。これは一生懸けても、卒業はありません。また事実はものの結果ですから、どうにもなりません。現実は事実を背負うて起ち上がる心ですから、成るか成らぬかではない。願うことがその人の命です。「願う、故に我あり」。
「言うは易く云々」は、行いに執われた古代中国の思想で、それはわが子が早くピアノを叩くことを急いで、大事な音感教育を忘れた「教育ママ」と同じです。
八葉通信3・心の依り処(2) より