平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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以前、テレビでO氏※が「除霊」をするなかで、縦横に数回ずつ手で空を切っておりました。
「あれ?これって陰陽道のじゃなかったっけ?」と思ったのですが、、
風水なども含めて、いずれも中国からの渡来だし、長年の間にどこかでごっちゃになってしまったのか、それともO氏の「パフォーマンス」だったのか、宗派によるのか、などと思ってしまったのですが(はたまた中国でごっちゃになってから日本にはいったとか、天竺で既にそうであったとか)、どなたかそのあたりのことをおしえてくださいませんでしょうか(阿部清明は絵で見る限り剃髪していませんしね)。
どうかよろしくお願い致します。
普段本当の仏教に親しんでいない人たちにとっては、TV等で出てくる僧侶(の格好をした人)が除霊する姿を見れば、<仏教はそういうことをする宗教なんだ>と思われてしまいます。実はこれははなはだ迷惑なことなのです。
仏教では「除霊」のような迷信を行うことを「外道」と言い、厳しく戒め禁じてきました。問題を外へ求め欲望を追求するのではなく、自らの迷いを問題にし、真実の法によって解決していく教えが仏教で、「外道」に対し「内道」とも言い称されてきたのです。(釈尊の時代については[六師外道の思想について]参照)
それなのに、よりによって僧侶が外道の真似をする、これは言語道断でしょう。O氏の所属する宗派の僧侶がたにも聞きましたが、TVに頻繁に登場するようになって皆さん本当に迷惑されているようです。それなのにどうして彼を破門しないのか分かりませんが、「坊主は天地の大極悪なり、所作なくして渡世す、大盗人なり」という至道無難の言葉が正に当てはまる行為でしょう。
とにかく、写真を見て「霊がついてる」などと嘘を言うことは誰でもできます。そして除霊というインチキを行なうことだって誰でもできます。私は専門家ではありませんので詳しい説明はできませんが、人への憑依と思われる現象も心理学でほとんど解明できるようです。
また千年以上前から、仏教心理学ともいえる学問「唯識論」が大乗仏教の基礎にあるのですが、この中に、縄を蛇と見間違う譬話がありまして、まさにO氏はこの迷いを世間に垂れ流していると言えるでしょう。
しかし普通の格好をした人が「霊がついてる」と言っても真実味がありません。僧侶の服装をすると本当らしく思われるのは、仏教の真実性を借りているからです。そしてそれを利用し裏切って迷信を行なっています。これほど罪深いことはありません。
五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
僧ぞ法師のその御名は
たふときこととききしかど
提婆五邪の法ににて
いやしきものになづけたり
外道・梵士・尼乾志に
こころはかはらぬものとして
如来の法衣をつねにきて
一切鬼神をあがむめり
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
親鸞聖人 著『正像末和讃』 悲歎述懐 100〜104
▼意訳(高木昭良著『三帖和讃の意訳と開設』より)五濁がしだいに増してゆく証拠として、この世の出家も在家もことごとく、外面は仏教を信じている姿をしていても、内心には外道を敬い信じている。
悲しいことに今日の出家や在家の人たちは、日時の善悪をえらんだり、天地の神祇をうやまったりして、占いごとや祈祷などにうきみをやつしている。
僧とか法師とかいう名は尊いものだと聞いているのに、このごろの僧徒がよこしまなふるまいをしているのは、まったく提婆の邪法にもにて、賤しいものに尊い名をつけたようなものである。
その心は外道の梵士や尼乾志と少しもかわるところがなく、外見は仏徒の袈裟を身につけているが、あらゆる鬼神を崇拝して現世を祈っているのである。
悲しいことにこんにち日本の僧俗たちは、表面は僧衣をまとって威儀をととのえているが、内心は天地の鬼神をうやまって現世の祈祷をつとめている。
浄土真宗の各教団は、歴史的に迷信を厳しく排除してきましたが、それは宗祖から上記のような明示がなされていたからということと、教団としてあくまで真実の法を中心にするという姿勢が貫かれていたからでしょう。浄土真宗でもしO氏のようなふざけた僧侶がTVに出れば大問題になります。もちろん長い歴史の中には問題点がなかったわけではありませんが、この伝統はずっと守っていきたいと思います。
「風水なども含めて、いずれも中国からの渡来だし、長年の間にどこかでごっちゃになってしまったのか」という推測ですが、当らずと言えども遠からずです。
仏教が日本に伝来した(公伝)のは西暦538年で、百済よりもたらされたのですが、当時は教理を理解できた人はほとんど居ず、「除災招福・慰霊鎮魂」が期待され、神仏混交のまま祖霊を崇め、現世利益の道具にされていました。
後に律令体制のもと寺院が各地に建立され、平安時代には比叡山を中心に教学の研鑚がなされますが、国家のためではなく、広く国民のもとに直に仏法が届けられ功徳が施されたたのは鎌倉時代を待たねばなりませんでした。
鎌倉時代の特徴は一言で言えば「行動主義」といえましょう。これは武士の台頭が影響していると思いますが、権威や神秘は意味を失い、<実際に私自身が成仏するにはどうしたらいいのか>という問いに対して、明確な答えが求められたのです。
この求めに応じることができたのが所謂新興の「鎌倉仏教」で、浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などが成仏の証を示します。各宗旨の詳細は略しますが、これによって仏教教団は外道を廃し、純粋に自律できるようになったのです。
実はご質問のO氏もこの中の宗旨のひとつなのですが、獅子身中の虫になってしまったのはどういう訳でしょう。個人的な事情は私にも分かりませんが、仏教伝来時から続いた神仏混交の歴史は、後世にも暗い影を落しているようです。
なお一見、迷信めいたことをしていると誤解される真言密教ですが、本来の加持は迷信とは一線を画したもののようです。
加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。
空海 著『即身成仏義』より
このように如来身口意の業が行者の身口意の業とあい照らしあうことを加持(三密加持)といいます。勿論この行をするには厳しい修行が必須のようですが、目指すところはやはり<仏の光の中に生かされている>という信心のようです。しかし、加持は容易に迷信的祈祷に堕する恐れは否めず、仏法に踏みとどまるためには行者の厳しい自制心が求められるところです。
浄土真宗の修行は、法蔵菩薩の五劫にわたる修行の功徳を称名念仏ひとつで身に受けることができますので、誰でも金剛の信心がいただけ、現実に仏が約束された正定聚の位を得ることができるのです。