平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

「白法隠没」について

― 浄土の経典だけはいつまでもとどめる ―

質問:

大集経の中に「白法隠没」があると聞いたのですが、釈尊自身が「末法に至っては、私の法も功力を失う。よって、使うな。」と、これに類似した事を言われたのでしょうか?

返答

 おっしゃる通り『大集経[だいじっきょう]』に「白法隠没[びゃくほうおんもつ]」という言葉があります。
 親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』の化身土文類六(本)・聖道釈・三時開遮において、最澄 著『末法灯明記[まっぽうとうみょうき]』を引かれる中でこの言葉を紹介されてみえます。

わが滅度ののち、初めの五百年には、もろもろの比丘等わが正法において解脱堅固ならん。初めに聖果を得るを名づけて解脱とす。次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん、白法隠没せん

▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
わたしが世を去った後、最初の五百年間は、多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めてさとりを得ることが確かであろう。(ここでは初果を得ることをさとりという) 次の五百年間は、禅定を修めることが盛んであろう。次の五百年間は、多くの教えを聞くことが盛んであろう。次の五百年間は、寺をつくることが盛んであろう。最後の五百年間は、争いが盛んになり、仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう。

 またこの経には同様の意味で「白法隠滞[びゃくほうおんたい]」という言葉もあります。
 親鸞聖人は道綽禅師[どうしゃくぜんじ]著『安楽集[あんらくしゅう]』の文を引かれる中でこの言葉を紹介されてみえます。

仏滅度ののちの第一の五百年には、わがもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固なることを得ん。第二の五百年には定を学ぶこと堅固なることを得ん。第三の五百年には多聞読誦を学ぶこと堅固なることを得ん。第四の五百年には塔寺を造立し、福を修し、懺悔すること堅固なることを得ん。第五の五百年には白法隠滞して多く諍訟あらん、微しき善法ありて堅固なることを得ん。

▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
仏が入滅された後の第一の五百年間は、多くの弟子たちは智慧を修めることが確かであろう。第二の五百年間は、禅定[ぜんじょう]を修めることが確かであろう。第三の五百年間は、多くの教えを聞いて経を読誦[どくじゅ]することが確かであろう。第四の五百年間は、塔や寺を建て、功徳を積み、懺悔[さんげ]して罪を除くことが確かであろう。第五の五百年間は、仏の教えは隠れて、多くの争いがおこり、わずかに残った正しい教えをたもつことだけが確かであろう。

 この他にも「白法尽滅[びゃくほうじんめつ]」という言葉もありますが、これらの言葉を引かれた真の意味を、親鸞聖人の導きに添って味わってみましょう。

 白法隠滞[びゃくほうおんたい]

『顕浄土真実教行証文類』では、「白法隠滞」が先に出ていますので、それに添うことにしましょう。

  【72】しかれば末代の道俗、よく四依を知りて法を修すべきなりと。

  【73】しかるに正真の教意によつて古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して正・像・末法の旨際を開示す。

【74】ここをもつて玄中寺の綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・下)、「しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退の位を証す。当今の凡夫は現に信想軽毛と名づく、また仮名といへり、また不定聚と名づく、また外の凡夫と名づく。いまだ火宅を出でず。なにをもつて知ることを得んと。『菩薩瓔珞経』によりて、つぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆゑに難行道と名づく」と。

【75】またいはく(同・上)、「教興の所由を明かして、時に約し機に被らしめて浄土に勧帰することあらば、もし機と教と時と乖けば、修しがたく入りがたし。『正法念経』にいはく、〈行者一心に道を求めんとき、つねにまさに時と方便とを観察すべし。もし時を得ざれば方便なし。これを名づけて失とす、利と名づけず。いかんとならば、湿へる木を攅りて、もつて火を求めんに、火得べからず、時にあらざるがゆゑに。もし乾れたる薪を折りて、もつて水を覓めんに、水得べからず、智なきがごときのゆゑに〉と。『大集の月蔵経』にのたまはく、〈仏滅度ののちの第一の五百年には、わがもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固なることを得ん。第二の五百年には定を学ぶこと堅固なることを得ん。第三の五百年には多聞読誦を学ぶこと堅固なることを得ん。第四の五百年には塔寺を造立し、福を修し、懺悔すること堅固なることを得ん。第五の五百年には白法隠滞して多く諍訟あらん、微しき善法ありて堅固なることを得ん〉と。今の時の衆生を計るに、すなはち仏、世を去りたまひてのちの第四の五百年に当れり。まさしくこれ懺悔し、福を修し、仏の名号を称すべき時のものなり。一念阿弥陀仏を称するに、すなはちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでにしかなり、いはんや常念に修するは、すなはちこれつねに懺悔する人なり」と。

【76】またいはく(安楽集・下)、「経の住滅を弁ぜば、いはく、釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住せんこと百年ならん」と。

【77】またいはく(安楽集・上)、「『大集経』にのたまはく、〈わが末法の時のなかの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。当今は末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」と。以上

  【78】しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。

『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 聖道釈 三時開遮 より

意訳▼(現代語版 より)
  【72】このようなわけであるから、末法の時代の出家のものも在家のものもこの四つの依りどころをよく知って仏法を修めなければならない。

  【73】そこでいま、如来が示された真実の教えにもとづき、昔の高僧方が伝え説かれた教えによって、聖道門と浄土門の真実と方便を明らかにし、また仏教以外の誤ったよこしまな考えを戒[いまし]めるのである。

【74】これについて、道綽禅師[どうしゃくぜんじ]が『安楽集[あんらくしゅう]』にいわれている。 「ところで、仏道を修めるものは、一万劫[ごう]もの長い間絶えることなく修め続けて、はじめて不退転の位に至るのである。しかし今日の凡夫は、現に吹けば飛ぶような軽い毛ほどの信心しかないといわれ、また名ばかりの菩薩ともいわれ、また不定聚[ふじょうじゅ]ともいわれ、また外の凡夫ともいわれる。いまだに迷いの世界を離れることができないのである。どうしてこのように知ることができるかというと、『菩薩瓔珞経[ぼさつようらくきょう]』にさとりに至るまでの修行の段階が詳しく説かれているのによれば、菩薩の位を一段一段とのぼり続けていかなければならないからであり、これを難行道[なんぎょうどう]というのである」

【75】また次のように言われている。(安楽集) 「浄土の教えがおこった理由を明らかにし、時代と衆生の資質[ししつ]について示して、浄土の教えを勧めるというのは、もし衆生の資質と教えと時代とがあっていなければ、修行することは難しく、さとりに入ることも難しいということである。
 『正法念経[しょうぼうねんぎょう]』には、<行者が一心にさとりを求める場合には、いつも時と方法とを考えなければならない。もし時を得なければ方法も失われる。これではさとりを求めることはできず、成果は得られない。どのようなことかというと、たとえば湿[しめ]った木を擦[こす]り合せて火を出そうとしても火を得ることはできないが、それは時を得ていないからである。また、たとえば乾いた薪[まき]を折って水を出そうとしても水を得ることはできないが、それは智慧がないからである>と説かれている。
 『大集経[だいじっきょう]』の<月蔵分[かつぞうぶん]>には、<仏が入滅された後の第一の五百年間は、多くの弟子たちは智慧を修めることが確かであろう。第二の五百年間は、禅定[ぜんじょう]を修めることが確かであろう。第三の五百年間は、多くの教えを聞いて経を読誦[どくじゅ]することが確かであろう。第四の五百年間は、塔や寺を建て、功徳を積み、懺悔[さんげ]して罪を除くことが確かであろう。第五の五百年間は、仏の教えは隠れて、多くの争いがおこり、わずかに残った正しい教えをたもつことだけが確かであろう>と説かれている。
 今日の衆生を考えてみると、仏が世を去られた後の第四の五百年にあたっており、これはまさしく懺悔して罪を除き、功徳を積み、仏の名号[みょごう]を称[となえ]えるべき時代の人々である。一声[ひとこえ]阿弥陀仏の名号を称えたなら、八十億劫[こう]の迷いの罪を除くことができる。一声の念仏でもこのように罪を除くことがでいるのであり、ましていつも念仏するなら、そのものは常に懺悔して罪を除く人なのである」

【76】また次のようにいわれている。(安楽集) 「仏の教えの存続と消滅についていうと、釈尊在世の時代、正法[しょうぼう]の五百年、像法[ぞうほう]の千年、末法[まっぽう]の一万年を経て、修行するものもいなくなり、仏の教えもことごとくなくなってしまうが、釈尊はそのとき苦しみ悩む衆生を哀[あわ]れんで、とくに浄土の教えだけをいつまでもとどめておかれるのである。

【77】また次のようにいわれている。(安楽集) 「『大集経』に、<末法の時代には、どれほど多くの衆生が仏道修行に励んだとしても、一人としてさとりを得るものはいないであろう>と説かれている。今は末法の時代であり、五濁[ごじょく]の世である。ただ浄土の教えだけがさとりに至ることのできる道なのである」

  【78】このようなわけであるから、煩悩に汚れた五濁の世の人々は、末法の時代にあって末法のことを知らずに、出家のものの振舞[ふるま]いを謗[そし]っているのであるが、今日の出家のものも在家のものも、自分自身のことをよく考えなければならない。

 【72】と【73】は親鸞聖人の説明です。
「末代の道俗」とは今の私たちのこと、「四依」とは、「法(教え)」・「義(教えの内容)」・「智(真実の智慧)」・「了義経(真実を完全に説き示した経典)」を依[よ]りどころとして、「人(説く人)」・「語(言葉)」・識(人間の分別)」・「不了義(仏のおこころが十分に説き示されていない経典)」を依りどころとしてはならない、ということです。この四つの依りどころを基本に置き、今の時代の仏教者の為[な]すべきことを明らかにする、ということが述べられています。

 【74】から【77】は道綽禅師著『安楽集』からの引用です。
 まず【74】には、仏道において不退転の位(必ず仏となることが決定した菩薩)に至る難しさと、今の仏教徒の資質の劣悪さ・信心の浅さが述べられています。
 次に【75】には、人々の資質と教えと時代が合っていないと結局成果があがらないこと、そして今はどんな時代かを説きます。道綽禅師の時代はまだ「第四の五百年」ですが、懺悔して罪を除き「八十億劫の生死の罪を除却」する念仏の功徳によって覚りに至る時代であることが述べられます。親鸞聖人の時代はさらに後の「白法隠滞して多く諍訟あらん」という「第五の五百年」という厳しい時代であり、わずかに残った正しい教え(つまり浄土三部経典)のみが有効な教えであり、堅固に行なわれる、と述べられます。
 続いて【76】においては、末法の時代の一万年を過ぎると仏の教えは全て無くなってしまうが、浄土の経典だけはいつまでもとどめること([念仏の止住] 参照)、そして【77】では、今は末法・五濁悪世の時代であり、浄土の教えのみが覚りに至る道であることが述べられています。
 最後の【78】はふたたび親鸞聖人のお言葉ですが、五濁悪世・末法の時代の人々は時代と自分自身をのことをよく知るべきで、古い時代を引き合いに出して浄土真宗の僧侶の振舞いを謗[そし]るような当時の仏教界のあり方を批判しています。

 白法隠没[びゃくほうおんもつ]

「白法隠没」の言葉は、最澄著『末法灯明記』に随って『大集経』を引用する中であらわれます。

【80】『末法灯明記』 最澄の製作 を披閲するにいはく、「それ一如に範衛してもつて化を流すものは法王、四海に光宅してもつて風を垂るるものは仁王なり。しかればすなはち仁王・法王、たがひに顕れて物を開し、真諦・俗諦たがひによりて教を弘む。このゆゑに玄籍宇内に盈ち、嘉猷天下に溢てり。ここに愚僧等率して天網に容り、俯して厳科を仰ぐ。いまだ寧処に遑あらず。しかるに法に三時あり、人また三品なり。化制の旨、時によりて興替す。毀讃の文、人に逐つて取捨す。それ三古の運、減衰同じからず。後五の機、慧悟また異なり。あに一途によつて済はんや、一理について整さんや。ゆゑに正・像・末の旨際を詳らかにして、試みに破持僧の事を彰さん。なかにおいて三あり。初めには正・像・末を決す。次に破持僧の事を定む。後に教を挙げて比例す。
 初めに正・像・末を決するに、諸説を出すこと同じからず。しばらく一説を述せん。大乗基、『賢劫経』を引きていはく、〈仏涅槃ののち、正法五百年、像法一千年ならん。この千五百年ののち、釈迦の法滅尽せん〉と。末法をいはず。余の所説に准ふるに、尼、八敬に順はずして懈怠なるがゆゑに、法更増せず。ゆゑに彼によらず。また『涅槃経』に、〈末法のなかにおいて十二万の大菩薩衆ましまして、法を持ちて滅せず〉と。これは上位によるがゆゑにまた同じからず。

 問ふ。もししからば千五百年のうちの行事いかんぞや。
 答ふ。『大術経』によるに、〈仏涅槃ののちの初めの五百年には、大迦葉等の七賢聖僧、次第に正法を持ちて滅せず、五百年ののち正法滅尽せんと。六百年に至りてのち、九十五種の外道競ひ起らん。馬鳴世に出でてもろもろの外道を伏せん。七百年のうちに、龍樹世に出でて邪見の幡を摧かん。八百年において、比丘縦逸にして、わづかに一二道果を得るものあらん。九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年のうちに、不浄観を聞かん、瞋恚して欲せじ。千一百年に、僧尼嫁娶せん、僧毘尼を毀謗せん。千二百年に、諸僧尼等ともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、四部の弟子みな猟師のごとし、三宝物を売らん。ここにいはく、千五百年に拘セン弥国にふたりの僧ありて、たがひに是非を起してつひに殺害せん、よつて教法竜宮に蔵まるなり〉と。『涅槃』の十八および『仁王』等にまたこの文あり。これらの経文に準ふるに、千五百年ののち戒・定・慧あることなきなり。ゆゑに『大集経』の五十一にいはく、〈わが滅度ののち、初めの五百年には、もろもろの比丘等わが正法において解脱堅固ならん。初めに聖果を得るを名づけて解脱とす。次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん、白法隠没せん〉と、云々。この意、初めの三分の五百年は、次いでのごとく戒・定・慧の三法、堅固に住することを得ん。すなはち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。造寺以後は、ならびにこれ末法なり。ゆゑに基の『般若会の釈』にいはく、〈正法五百年、像法一千年、この千五百年ののち正法滅尽せん〉と。ゆゑに知んぬ、以後はこれ末法に属す。

 問ふ。もししからば、いまの世は、まさしくいづれの時にか当れるや。
 答ふ。滅後の年代多説ありといへども、しばらく両説を挙ぐ。一つには法上師等『周異』の説によりていはく、〈仏、第五の主、穆王満五十三年壬申に当りて入滅したまふ〉と。もしこの説によらば、その壬申よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。二つには費長房等、魯の『春秋』によらば、仏、周の第二十一の主、匡王班四年壬子に当りて入滅したまふ。もしこの説によらば、その壬子よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。ゆゑに今の時のごときは、これ像法最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破せんによりてか破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。ゆゑに『大集』にいはく、〈仏涅槃ののち無戒州に満たん〉と、云々。

 問ふ。諸経律のなかに、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なくして、みづからもつて傷まんや。
 答ふ。この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗たれか披諷せざらん。あに自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし、いま論ずるところの末法には、ただ名字の比丘のみあらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとひ末法のなかに持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これたれか信ずべきや。

 問ふ。正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、聖典に出でたりや。
 答ふ。『大集』の第九にいはく、〈たとへば真金を無価の宝とするがごとし。もし真金なくは銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅・鉄・白錫・鉛を無価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども仏法無価なり。もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆もつて無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫もつて無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもつて無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもつて無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字の比丘を無上の宝とす。余の九十五種の異道に比するに、もつとも第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。なにをもつてのゆゑに、よく身を破る衆生、怖畏するところなるがゆゑに。護持養育して、この人を安置することあらんは、久しからずして忍地を得ん〉と。以上経文
<中略>
 『大悲経』にのたまはく、〈仏、阿難に告げたまはく、《将来世において法滅尽せんと欲せんとき、まさに比丘・比丘尼ありて、わが法のなかにおいて出家を得たらんもの、おのれが手に児の臂を牽きて、ともに遊行してかの酒家より酒家に至らん。わが法のなかにおいて非梵行をなさん。かれら酒の因縁たりといへども、この賢劫のなかにおいて、まさに千仏ましまして興出したまはんに、わが弟子となるべし。次に、後に弥勒まさにわが処を補ぐべし。乃至最後盧至如来まで、かくのごとき次第に、なんぢまさに知るべし。阿難わが法のなかにおいて、ただ性のみこれ沙門にして、沙門の行を汚し、みづから沙門と称せん、かたちは沙門に似て、ひさしく袈裟を被着することあらしめんは、賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。なにをもつてのゆゑに。かくのごとき一切沙門のなかに、乃至ひとたび仏の名を称し、ひとたび信を生ぜんもの、所作の功徳つひに虚設ならじ。われ仏智をもつて法界を測知するがゆゑなり》〉と、云々。乃至 これらの諸経に、みな年代を指して将来末世の名字の比丘を世の尊師とす。もし正法の時の制文をもつて、末法世の名字の僧を制せんは、教・機あひ乖き、人・法合せず。これによりて『律』にいはく、〈非制を制するは、すなはち三明を断ず。記説するところこれ罪あり〉と。この上に経を引きて配当しをはんぬ。
 後に教を挙げて比例せば、末法法爾として正法毀壊し、三業記なし。四儀乖くことあらん。しばらく『像法決疑経』にのたまふがごとし。乃至 また『遺教経』にのたまはく、乃至 また『法行経』にのたまはく、乃至 『鹿子母経』にのたまはく、乃至 また『仁王経』にのたまはく。乃至」以上略抄

『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 聖道釈 三時開遮 より

意訳▼(現代語版 より)
【80】最澄の『末法灯明記[まっぽうとうみょうき]』をひらいてみると、次のようにいっている。
「さて、唯一絶対の真実にもとづき、人々を教え導くものは法王であり、広く世界を治め、徳をもって人々を導くものは仁王[にんのう]である。したがって、仁王と法王とはそれぞれに世に現れて人々を導き、仏教の真理と世間の道理とはお互いに助けあって教えを広めるのである。これによって奥深い教えが世に広まり、正しい道が天下に行きわたる。
 ここにいま、わたしたち愚かな僧侶はみな国の法律に縛られ、そのきびしい罰を恐れて身も心も安まる時がない。しかしながら仏法には三つの時代があり、人にも三種の資質の違いがある。教えや戒律は時代に応じて移り変り、謗[そし]る言葉やほめる言葉も人に応じてそれぞれに異なる。古代の中国における賢者も、移り変わって衰退していった。釈尊が入滅された後の仏の教えも五つの段階を経て衰え、人々の智慧やさとりは異なっていく。このように時代も資質も異なった人々を、どうして一つの方法で救い、一つの道理でおさめることができようか。このようなわけであるから、正法[しょうぼう]と像法[ぞうぼう]と末法[まっぽう]の時代の区別を詳しく述べ、戒律を破る僧侶とたもつ僧侶とについて明らかにしてみよう。このことを三つに分けて述べる。はじめに正法・像法・末法の時代を定め、次に戒律を破る僧侶とたもつ僧侶とについて明らかにし、最後に経典に説かれた教えと末法の時代のありさまとをくらべることにする。
 はじめに正法・像法・末法の時代を定めるにあたり、これにはさまざまな説があるが、とりあえず一つの説をあげてみよう。窺基[きき]は『賢劫経[げんごうぎょう]』を引いて、<釈尊が入滅された後、正法の時代は五百年、像法の時代は千年である。この千五百年の後には、釈迦の教えはなくなってしまう>といっており、末法の時代については触れていない。他に正法の五百年を千年とする説もあるが、その場合は比丘尼[びくに]が八敬法[はっきょうほう]にしたがっていなければならないが、実際にはそうではなく怠惰であるため、正法の時代は五百年より増えることはない。だからその説にはよらない。また『涅槃経[ねはんぎょう]』に、<末法の時代にも十二万のすぐれた菩薩がたが教えをたもっていて、仏の教えがなくなることはない>と説かれているが、これは上位の菩薩についていったものであるから、この説も用いない。

 問うていう。もしその通りなら、正法と像法の千五百年の間、僧侶はどのように振舞[ふるま]うのであろうか。
 答えていう。『摩訶摩耶経[まかまやきょう]』によれば、<仏の入滅後、はじめの五百年は、摩訶迦葉[まかかしょう]などの七人の聖者が次々に仏の教えをたもち、失われることはないが、五百年の後には、正しい仏の教えがなくなってしまうであろう。六百年になると、仏教以外の九十五種の教えがはびこるが、馬鳴菩薩[めみょうぼさつ]が世に現れて、それらの誤った教えを打ち破るであろう。七百年には、龍樹菩薩[りゅうじゅぼさつ]が世に現れてよこしまな考えを打ち砕くであろう。八百年には、比丘[びく]がほしいままに振る舞い、わずかに一人二人しかさとりを得るものがいなくなるであろう。九百年には、比丘や比丘尼を召使[めしつか]いのように見て軽んじるであろう。千年には、不浄観[ふじょうかん]が説かれると、怒って聞こうとしないであろう。千百年には、僧侶も妻や夫を持ち、戒律を謗[そし]るであろう。千二百年には、僧侶の多くは子供を持つであろう。千三百年には、僧侶の袈裟[けさ]が在家のものの衣服のように白くなるであろう。千四百年には、出家のものも在家のものも、仏弟子でありながら殺生をするようになり、三宝の財物さえ売り払うであろう。千五百年には、拘セン弥国[くせんみこく]にいる二人の僧が互いの是非を争い、ついには殺し合うであろう。このため仏の教えはこの世から消え去り、竜宮[りゅうぐう]の宮殿に隠れてしまうのである>と説かれている。
 これらによれば、千五百年の後には戒律も禅定[ぜんじょう]も智慧[ちえ]もなくなってしまっているのである。だから『大集経[だいじっきょう]』の第五十一巻に<わたしが世を去った後、最初の五百年間は、多くの比丘たちはわたしが説いたままに行を修めてさとりを得ることが確かであろう。(ここでは初果を得ることをさとりという) 次の五百年間は、禅定を修めることが盛んであろう。次の五百年間は、多くの教えを聞くことが盛んであろう。次の五百年間は、寺をつくることが盛んであろう。最後の五百年間は、争いが盛んになり、仏の教えはこの世から姿を消してしまうであろう>と説かれているのである。これは、はじめの三つの五百年間は、時の経過にしたがいながら、戒律と禅定と智慧の三つが確かにたもたれるということである。すなわちさきに引いた説の、正法五百年、像法千年という二つの時代にあたる。次の、寺をつくることが盛んな時代から後は、すべて末法である。だから窺基[きき]の『金剛般若会釈[こんごうはんにゃえしゃく]』に<正法の時代は五百年間、像法の時代は千年であって、この千五百年の後には仏の教えはなくなってしまう>といっているのである。これにより、釈尊の入滅から千五百年を経た後は、末法の時代であることがわかる。

 問うていう。そうであれば、今はどの時代にあたるか。
 答えていう。釈尊の入滅された年代には多くの説があるけれども、とりあえず二つの説をあげる。一つには法上師[ほうじょうし]などの説であるり、『周書異記[しゅうしょいき]』によって、釈尊は周の第五代穆王満[ぼくおうまん]の五十三年に入滅されたとする。この説にしたがえば、その年からわが国の延暦[えんりゃく]二十年(※西暦801年)に至るまで千七百五十年を経ている。二つには費長房[ひちょうぼう]などの説であり、魯[ろ]の『春秋[しゅんじゅう]』によって、釈尊は周の第二十代匡王班[きょうおうはん]四年に入滅されたとする。この説にしたがえば、その年からわが国の延暦[えんりゃく]二十年に至るまで千四百十年を経ているから、今は像法の時代の最後にあたる。像法の最後の時の僧侶のあり方はすでに末法と同じである。すなわち末法の時代であれば、ただ仏の説かれた言葉が残っているだけで、行もなくさとりもない。もし戒律があるのならその戒律を破るということもあり得る。しかし末法の時代にはすでにたもつべき戒律がないのに、いったいどの戒律を破ることで戒律を破ったといえるものであろうか。戒律を破ることすらないのに、まして戒律をたもつことなどあるはずもない。だから『大集経[だいじっきょう]』には、<仏の入滅後、たもつべき戒律を持たない無戒のものが世の中に満ちあふれるであろう>と説かれているのである。

 問うていう。さまざまな経や律では、戒律を破るものをきびしく制し、教団に入ることを許していない。戒律を破るものでさえこの通りであり、まして無戒[むかい]のものはいうまでもないことである。ところが今あらためて末法の時代について論じ、末法には戒律がないという。しかし教団の中にもとより無戒のものはいないのだから、それについて論じるのは、傷もないのに傷ついているというようなものではないか。
 答えていう。そうではない。正法と像法と末法の時代における僧侶のあり方はすべて、さまざまな経典に説かれている。出家のものも在家のものもみなこれを読んでいるのであり、どうして自分のよこしまな生活をむさぼり求めて、国をたもる正しい教えを隠すことなどできようか。ただし、今論じているのは末法の時代であり、名ばかりの比丘[びく]しかいないのである。この名ばかりの比丘をこの世のまことの宝とする。そしてこれを福田[ふくでん]とするのである。もし末法の時代に戒律をたもつものがいるというなら、それこそおかしなことであって、町中に虎がいるようなものである。だれがこれを信じるであろうか。

 問うていう。正法と像法と末法の僧侶のあり方は、すでに多くの経典に説かれている。末法の時代の名ばかりの比丘[びく]をこの世のまことの宝とするということは、経典に説かれていることなのか。
 答えていう。『大集経[だいじっきょう]』の第九巻に、次のように説かれている。<たとえば金を最上の宝とするようなものである。もし金がなければ銀を最上の宝とする。もし銀もなければ真鍮[しんちゅう]などのいつわりの宝を最上の宝とする。もしいつわりの宝もなければ赤銅[しゃくどう]・白銅[はくどう]・鉄・白蝋[はくろう]・鉛を最上の宝とする。このようなものを世間では宝というが、仏の教えこそ最も尊い宝なのである。もし仏がおらなければ、縁覚[えんがく]をもっとも尊いものとする。もし縁覚もいなければ、阿羅漢[あらかん]をもっとも尊いものとする。もし阿羅漢もいなければ、阿羅漢に達する前の聖者たちを最も尊いものとする。もしその聖者たちもいなければ、禅定を得た凡夫を最も尊いものとする。もし禅定を得た凡夫もいなければ、清らかに戒律をたもつ比丘を最も尊いものとする。もし清らかに戒律をたもつ比丘もいなければ、戒律を破る比丘をもっとも尊いものとする。もし戒律を破る比丘もいなければ、髪を剃[そ]って袈裟[けさ]を身に着けただけの名ばかりの比丘を最も尊い宝とする。この名ばかりの比丘は、仏教以外の九十五種のよこしまな教えを信じるものにくらべたなら、もっとも尊いものである。すなわち世間から供養を受けるべきものであり、世の人々にとって最初に福田になるものなのである。なぜなら、本当に恐れるべきことは何かを、人々に示すことができるからである。名ばかりの比丘であっても、その比丘を安らかに護り育てるものは、やがて無生法忍[むしょうぽうにん]のさとりを得るであろう>と。
<中略>
 『大悲経』に、<仏が阿難に仰せになる。≪将来末法の時代になり、仏の教えがなくなろうとするときには、わたしの教えを受けて出家した比丘や比丘尼が、子供の手を引いて、一緒に酒場から酒場へと遊び歩くであろう。そしてわたしの教えを受けながら、よくない行いをするであろう。このように酒という悪い因縁を持ったものたちであるといっても、この賢劫[けんごう]の時代には千の仏が世に出るのであり、みなその仏弟子となるであろう。わたしの次には、弥勒[みろく]が後を継いで仏となるであろう。そして最後の盧至如来[るしにょらい]まで、このように相次[あいつ]いで仏が世に出ることを、そなたはよく知るがよい。阿難よ、私の教えを受けて、身分は修行者となりながらその行を汚し、自ら修行者と名乗って見た目だけはそれらしく袈裟を身につけているようなものであっても、賢劫の時代、弥勒から盧至如来まで仏が次々と世に出る間に、これらの修行者は仏のもとで相次いでこの上ないさとりを得ることができ、一人として残るものはいない。なぜなら、このようなすべての修行者の中で、わずか一声でも仏の名号[みょうごう]を称[とな]え、ひとたび信を生じることがありさえすれば、その功徳は決してむなしいものとはならないからである。わたしは仏の智慧によって世界のすべてを知り尽くしているから、わかるのである≫>などと説かれている。(中略)
 これらの経典には、みな年代を示して、将来末法の時代には、名ばかりの比丘であっても世の人々を導く尊いものとすると説かれている。もし正法の時代について定められた戒律により、末法の時代の名ばかりの比丘を制するのであれば、教えの内容と人々の資質とが相反[あいはん]し、人と教えがあわないことになる。このようなわけで『四分律[しぶんりつ]』には、<制するべきでないものを制することは、仏の三明[さんみょう]を断じることになり、そのようなことは罪である>といわれている。
 以上、経文[きょうもん]を引用して正法・像法・末法のそれぞれの時代にふさわしい僧のあり方について述べおわった。
 最後に、釈尊在世の時代や正法の時代について説かれた教えを示し、末法の時代とくらべてみると、末法の時代には当然仏の教えが損なわれ、すべての行いは意味のないものとなり、生活も仏道に背くものとなるであろう。さしあたっては、『像法決疑経[ぞうぼうけつぎしょう]』に説かれ(中略)また『遺教経[ゆいきょうぎょう]』に説かれ(中略)また『法行経[ほうぎょうきょう]』に説かれ(中略)『鹿子母経[ろくしもきょう]』に説かれ(中略)また『仁王経[にんのうきょう]』に説かれている通りである(以上略)」

 『末法灯明記[まっぽうとうみょうき]』は「最澄の製作」と書いてはありますが、特定はできていません。しかし様々な大乗経典を総合的に判断していますので、この仏教史観は当時の比叡山における公式見解的な意味をもっていたであろうと思われます。
 内容は、まず、仏法真理にもとづき人々を教え導くのは「法王」で、仁徳をもって人々を治めるものは「仁王」であり、「仏教の真理と世間の道理とはお互いに助けあって教えを広める」ということが説かれています。
 ここに「真諦・俗諦たがひによりて教を弘む」という「真俗二諦」という説がありますが、これは戦前まで教学の根幹をなすものでした。しかし現在は、この問題を避けるようにして教学を構築しているようですが、これによって過去の戦時教学の問題を棚上げにしたばかりか、戦後の浄土真宗教学が国家や世界に力を発揮できないものにしてしまいました。この壁を打ち破るためには、新たな真俗二諦の関係を提案し続けていかねばならないでしょう。(『真俗二諦』梯實圓 著/本願寺出版社(教学シリーズ No.2) 参照)

 次に、「仏法には三つの時代があり、人にも三種の資質の違いがある」ということが説かれます。既に最澄の時代にも国家から科せられた時代遅れの厳しい法律と罰が問題となっていて、僧侶は「いまだ寧処[ねいしょ]に遑[いとま]あらず」つまり心が安らかにならない、とあります。教えや戒律は時代に応じて移り変るものであり、時代も資質も異なった人々を以前の教えや戒律で縛ってもその甲斐[かい]がないばかりか心安らかになるのをさまたげてしまう、ということを述べているのです。
 そこで以下に、正法[しょうぼう]と像法[ぞうぼう]と末法[まっぽう]の時代の区別と、各時代の僧侶に与えられた戒律について詳しく述べる、とあります。

「初めに正[しょう]・像[ぞう]・末[まつ]を決するに、諸説を出すこと同じからず」とあります。正・像・末の三つの時代の区分については諸説ありますが、まず『賢劫経[げんごうぎょう]』を引いて「正法五百年、像法一千年」との説を採用し、「正法一千年」の説を退けます。続いて『大術経[だいじゅつきょう](摩訶摩耶経[まかまやきょう])』を引いて正・像の時代、特に「像法一千年」間の僧侶の有様を詳しく述べられ、像法最後の時代に仏の教えはこの世から消え去り、「教法[きょうほう]竜宮[りゅぐう]に蔵[おさ]まる」とあります。
 これらのことは『涅槃経[ねはんぎょう]』や『仁王経[じんのうきょう]』にも書かれていて、正法五百年、像法一千の二時には戒・定・慧の三法が堅固に保たれるが、これを過ぎて後には「白法隠没」してしまい、以後は末法の時代に属すことになります。

 では今はどの時代に当るのか、ということが問われますが、この「今」とは「わが延暦二十年辛巳」であり、つまりこの問いが発せられた時点は延暦[えんりゃく]二十年、西暦で言えば801年ということは確かめておかねばなりません。
『周書異記[しゅうしょいき]』によれば、釈尊入滅はこの「今」より「一千七百五十歳」と計算できます。西暦に直すと釈尊入滅は西暦前949年です。この説で正像1500年で計算すると、既にこの「今」の時点で末法に入っていることになります。
 また魯[ろ]の史官と孔子の加筆による『春秋[しゅんじゅう]』の説からは「一千四百十歳」と計算できます。西暦に直すと釈尊入滅は西暦前609年です。この説だとこの「今」より90年後の寛平三年辛亥(西暦891年)までが像法で、次の年から末法を迎えることになります。
 ちなみに、中世の日本仏教界においては、『周書異記[しゅうしょいき]』の説(釈尊入滅は西暦前949年)と「正法一千年・像法一千年」説を採用して、永承六年(西暦1051年)までが像法で、次の年から末法に入るという理解が一般的です。
 ところで、釈尊入滅の年を特定することは難しく、上記の『周書異記』の西暦前949年説は少し古すぎると思われますが、中村元説の西暦前383年説は少し新しすぎるとの批判もあり、衆聖点記説(西暦前486年)・分別説部諸伝(西暦前485年)も参考にした方が良いかも知れません。ただいずれにしても、私たちは末法の世に生きているということに変りはないようです。

 このように、末法の世には戒律を守る意味を失っているから、名ばかりの僧侶しかいない。だから無戒の末法の世においては、名ばかりの僧侶であっても、世を汚す九十五種のよこしまな教えを信じるものに比べれば「最も第一とす」と示されます。

 さらに末法の僧侶は、家族を持ち、「ともに遊行してかの酒家より酒家に至らん」とあります。家族そろって酒場を飲み歩いたあげく管を巻くような僧侶がいると、「世も末だなあー」という世の声が聞こえてきそうですが、まさに現代の僧侶の行状を言い当てているといえるでしょう。言い訳をするつもりはありませんが、現代の僧侶が結婚して酒場を渡り歩くということは、はるか昔の大乗経典に予見されていたことになります。

 そのような僧侶や信徒の方々も、「賢劫[げんごう]において弥勒[みろく]を首[しゅ]として乃至[ないし]盧至如来[るしにょらい]まで」諸仏の導きでみな成仏することができる。なぜなら「ひとたび仏の名を称し、ひとたび信を生ぜんもの 」は、仏の功徳は虚しく過ぎないからです。これは「仏智をもつて法界[ほうかい]を測知[しきち]するがゆゑ」とあり、大乗経典の予見は超能力のようなものではなく、如来の智慧によって全ての世界の深い因果道理を測り知る、ということでなされたわけです。

 ちなみに、釈尊の次に世に出る弥勒大士が説法する竜華三会のときには、やはり多くの人々がその導きによって仏となるのですが、念仏の衆生はそれを待たずして、人生の総仕上げとしてこのたび覚りを得ることができるのです。

【103】  まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 便同弥勒釈 より

意訳▼(現代語版 より)
  いま、まことに知ることができた。弥勒菩薩は等覚(第五十一位)の金剛心を得ているから、竜華三会[りゅげさんね]のときに、この上ないさとりを開くのである。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。だから、すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。そればかりでなく、他力の金剛心を得たものは、韋提希[いだいけ]と同じように、喜忍[きにん]・悟忍[ごにん]・信忍[しんにん]の三忍を得ることができる。これは往相回向の信心をいただいたからであり、阿弥陀仏の不可思議な本願によるからである。

五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし

『正像末和讃』 三時讃(二六) より

 五十六億七千万年後の弥勒出世まで待たなくても、阿弥陀如来の名号(つまり「南無阿弥陀仏」)を称える行者は、この人生が成就する時に覚りを開くことができる、とお示し下さっています。阿弥陀如来は諸仏の王であり、「賢劫」つまり現世界(宇宙)における本仏であるからです。釈尊がこの本仏である阿弥陀如来に成り切って法を説かれたのが『大無量寿経』でありますから、この経は弥陀直説[みだじきせつ]であり、それゆえに阿難もこの釈尊の姿を観て「姿色清浄[ししきしょうじょう]にして光顔巍巍[こうげんぎぎ]とまします」と驚いているわけです。

 以上から総合的に判断すると、自ずと「正法[しょうぼう]の時の制文[せいもん]をもつて、末法世の名字の僧を制せんは、教・機あひ乖[そむ]き、人・法合せず」という結論になります。時代に合わない戒律で末法の僧侶を制するのは、教えの内容と社会や人々の資質と合致しない。そのため「すなはち三明を断ず。記説するところこれ罪あり」となります。「三明」とは「宿命通・天眼通・漏尽通」のことです。(令識宿命の願令得天眼の願不貪計心の願 参照)

 親鸞聖人は『末法灯明記』を引いて、念仏弾圧を行なった当時の比叡山の態度(理由)を、最澄の著を用いて非難するとともに、同時に未来の「名ばかりの僧侶」に向けて、思い上がりをくじき如来の本願に帰すようメッセージを送られたのでしょう。在家・僧侶ともに心して読まなければならない文だと思います。

 聖典等資料

(二)
釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまふ
正像[しょうぞう]の二時はをはりにき
如来の遺弟[ゆいてい]悲泣[ひきゅう]せよ

(三)
末法五濁[まっぽうごじょく]の有情[うじょう]の
行・証かなはぬときなれば
釈迦の遺法[ゆいほう]ことごとく
竜宮[りゅうぐう]にいりたまひにき

(四)
正像末[しょうぞうまつ]の三時には
弥陀の本願ひろまれり
像季末法[ぞうきまっぽう]のこの世には
諸善竜宮にいりたまふ

(五)
『大集経[だいじっきょう]』にときたまふ
この世は第五の五百年
闘諍堅固[とうじょうけんご]なるゆゑに
白法隠滞[びゃくほうおんたい]したまへり

(九)
有情の邪見[じゃけん]熾盛[しじょう]にて
叢林棘刺[そうりんこくし]のごとくなり
念仏の信者を疑謗[ぎほう]して
破壊瞋毒[はえしんどく]さかりなり

(一二)
九十五種世をけがす
唯仏一道[ゆいぶついちどう]きよくます
菩提[ぼだい]に出到[しゅっとう]してのみぞ
火宅[かたく]の利益[りやく]は自然[じねん]なる

(一三)
五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそひて
念仏信ずるひとをみて
疑謗破滅[ぎほうはめつ]さかりなり

(一八)
像末五濁の世となりて
釈迦の遺教[ゆいきょう]かくれしむ
弥陀の悲願ひろまりて
念仏往生さかりなり

(一九)
超世無上[ちょうせむじょう]に摂取[せっしゅ]し
選択五劫思惟[せんじゃくごこうしゆい]して
光明・寿命の誓願を
大悲の本[ほん]としたまへり

(二〇)
浄土の大菩提心[だいぼだいしん]は
願作仏心[がんさぶっしん]をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心[どしゅじょうしん]となづけたり

(五六)
釈迦の教法[きょうほう]ましませど
修[しゅ]すべき有情[うじょう]のなきゆゑに
さとりうるもの末法に
一人もあらじとときたまふ

(五七)
三朝[さんちょう]浄土の大師等
哀愍摂受[あいみんしょうじゅ]したまひて
真実信心すすめしめ
定聚[じょうじゅ]のくらゐにいれしめよ

(五八)
他力の信心うるひとを
うやまひおほきによろこべば
すなはちわが親友[しんぬ]ぞと
教主世尊はほめたまふ

『正像末和讃』 三時讃 より



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