平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

先祖供養や厄払いの祈祷に意味はあるのか

― 真の供養と偽の供養の違い ―

質問:

密教と仏教の違いはどんな点でしょうか?
また、先祖供養、永代供養とか、水子の霊障を静める供養とか、因縁というものは、本当に必要で、意味があり霊障は、存在し、現世に暮らす私たちに影響を与えている物なのでしょうか?

霊魂というものが、この世に残って災いを起こすいうことが、お祓いなので本当に解消できるものなのでしょうか?
厄払いなども、意味があるのでしょうか?祈願なども意味ないのですか?
お布施などを包んで、祈祷してもらうことに、効果や意味はあるのでしょうか?
宜しくおねがいします。

返答

 仏事や習俗の疑問点について様々書いていただきましたが、ご質問を整理してお応えさせていただくため、正しい法を先に示し、続いて世間で行なわれている間違った習俗について批判し、最後に密教と仏教の違いについて言及いたします。

 正しい供養は尊敬心の発露

 仏教は、その始まりが古いので、思想的にも古いものだと思われがちですが、実はどの時代においても、もちろん現代においても、これを上回る新しい思想はありません。なぜなら、今、今、今と無限に思想を創造せしむる覚りの精神(菩提心)が中心にあるからです。覚りは虚空のごとく澄み切っていますので、時代や地域の障りを超えて常に正しい道を示します。供養も、この精神に添って自己の内面に語りかけられる清浄の声を聞きながら行なっていくのであれば、功徳が多大であることは道理であり、それは実証されてもいることです。ただ、過去に現われ出た言葉や自意識にとらわれると、菩提心を失ってしまう可能性がありますので、常に仏心に耳を傾けるのです。

 具体的に申しますと、供養とは「尊敬心を形に表わす」ということです。うやまい奉仕することです。例えば仏壇に仏飯をお供えする時も、如来への敬いの心で行なうなら、それは覚りの精神にかなった供飯であり、正しい供養といえます。
 この供養が最も力を発揮するのは、生活において「諸仏を見たてまつる」ということです。これによって周りの状況が一変するのです。仏法を聞いていない時は気が付かなかったけれど、いざ如来の声を聞いてみると、完全ではありませんが心の眼が開き、周りに実に多くの仏がいて下さることに気づくのです。憎んでいた相手を尊敬すべき友と見ることができるのです。([供養諸仏の願] 参照)

 互いに理解し敬いあうところに展開する世界が浄土であり、逆に、互いに無視し軽蔑しあうところに陥る世界が地獄です。如来はこの地獄的現実世界を打ち破るために浄土を建立する誓願を立て、菩薩となって私たちの心身に入り満ち、共に苦難を乗り越える修行を成就された――こうした譬え話によって、いのちの真実のはたらきや歴史を示したのが大乗経典で、その究極が『大無量寿経』です。

 現代においても、人と人、国と国が互いに理解せず、無視しあっているところには地獄的世界が現出しています。これを、互いに理解し尊敬しあう世界に変えていくことが求められていますが、これが供養の心なのです。
 真に憎むべき相手は、相手ではなく憎む心にありましょう。しかし刀が刀自身を斬ることができないように、憎む心を憎んでいくということも実際にはできないのです。刀は鞘[さや]におさめておけばよく、憎む心は供養によって力を失っていきます。
 そして真に尊敬すべき相手は、相手でもありますが、尊敬に導いてくださったはたらきでありましょう。相手は尊敬すべき姿を見せることもありますが、憎しみを深くした姿を見せることもあります。相手を敬うためには、敬う心を育む因縁が整わなければ適わないのです。

 この因縁をもたらすために様々な道が用意されていますが、結果としていえば、如来の誓願とその成就を聞き開きながら生活することで、おのずと供養の心を育む――という道が最もすぐれているといえるでしょう。なぜなら全ての人が行じることができ、効果も大きいからです。

 なお、供養は供養に留まっていてはいけない、ということも経典に示されています。あくまで覚りを求める心(菩提心)が中心であり、供養はその導入と展開の姿なのです。

たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 讃仏偈 より

意訳▼(現代語版 より)
たとえ多くの仏がたがおいでになり、その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳はさらにまさるであろう。

 間違った供養

 供養の反対を「殺生」といいます。殺生は、相手の生命を奪うことはもちろん、相手を無視したり軽蔑したり嫉妬することも含めていいます。仏教では身体と心を別々に見ず、必ずそこに因果と一体の関係を見ているのです。そしてこの見方が正しいことは、経験を重ねよくよく思惟していけば解ってくることです。例えば、殺意が殺人を犯させるのであり、殺人の結果がさらに心に影響を与えます。ただし、まずは心が主体ですから、殺生の問題も心が先に問われます。

 さてここで、質問していただいた内容をもう一度整理してみましょう。


〉 また、先祖供養、永代供養とか、水子の霊障を静める供養とか、因縁というものは、本当に必要で、意味があり霊障は、存在し、現世に暮らす私たちに影響を与えている物なのでしょうか?

〉 霊魂というものが、この世に残って災いを起こすいうことが、お祓いなので本当に解消できるものなのでしょうか?
〉 厄払いなども、意味があるのでしょうか?祈願なども意味ないのですか?
〉 お布施などを包んで、祈祷してもらうことに、効果や意味はあるのでしょうか?

 おそらく既に、一般でいう「供養」の意味が本来の内容と違っていることに気付かれたことでしょう。特に、「水子の霊障を静める供養」とか「厄払い」という言葉自体が、問題を自分の外に押し付け逃げている姿勢を表わしたものであり、しかも尊敬の念とはかけ離れたもので、下手をすると供養どころか殺生の気持ちで為されている、ということに気付かれたと思います。「水子や先祖の霊が私たちに災いをもたらす」という考えには、供養の気持ちは一つも入っていません。むしろいまわしき殺生の心でしょう。先人たちを蔑みながら恐れているとしか思えない場合もあります。

 また「霊障」というのは、本来的な意味としていえば精神衛生的な問題やノイローゼのことをいいます。仏教は伝統的にカウンセリング的な機能も果たしていて、子どもを堕ろした人や、無念のうちに亡くなられた人の家族などの悩みを聞き、その解決に乗り出していました。
 ただ、悩みの解決に、正しい方法と間違った方法がある、ということは注意しなくてはならないでしょう。

 間違った方法というのは――水子や先祖の霊魂が残存していて、その憎しみや苦悩の影響によって私たちに災いをもたらすのだから、残された家族が布施をしたりお経を読んでもらったりすることによって、霊が心残りなく往生して、結果として障りがなくなる、というような方法です。
 冷静になって考えてみれば、そんな証拠の無い作り話は信じるに値しません。仏教は本来、こうした邪説を批判してできた教えなのです。
 しかし、マスコミなどで、「霊がついている」などと脅すような嘘の番組を、視聴率かせぎのために放映しているため、こうした悩みを持つ人は後を絶ちません。また実際、こうしたことが宗教だと思われているふしもあり、実に嘆かわしい限りです。「霊能者」と称する偽宗教者が、人々を騙して金品を巻き上げる犯罪行為も横行しています。これでは、「宗教は民衆のアヘンである」というマルクスの決め付けが正しい批判になってしまいます。
 ちなみに憑依霊などは、妄念や過去の記憶の作用であることはほとんど疑う余地はなく、それは仏教の中でもはるか過去に解決の出た問題です。正しい仏教では、霊魂などという考えは妄想で、亀の甲羅についた藻を亀の毛と見間違えたようなものだ、と諭し、「衆生は畢竟無生にして虚空のごとし」と説きます。([往生論註「願生」について2 (#まとめ)]参照)
 しかし一方、「霊障など無いなら、殺人をしても捕まらなければいい。殺し得、殺され損じゃないか」という理屈も困ります。おそらく、こうした暴力を防ぐために、人類は宗教を創ったのでしょう。

 では、正しい解決方法というのは、どのようなものでしょう。
 これは、カウンセリングが相手の悩みに合わせて行われるように、仏教も方法を一つに絞ることはできません。しかし、例えば『観無量寿経』では、我が子によって幽閉されたイダイケ夫人に、如来の願いの成就した世界を見せることによって、懺悔とともに生きる力を取り戻させます。またこの続きの物語が『涅槃経』に示されています。
 ここでは父王を殺したアジャセが、その罪の大きさに気付き、悩み、様々な宗教の教えを聞くのですが、最後は釈尊の導きを受け入れて、深い慚愧の心を持ったことで救われていきます。さらにアジャセは利他の心を起こして国を治め、人々に無上菩提心を起こさせたため、罪も軽くなっていった、ということです。ここにおいてアジャセは父王を、災いをもたらす障りではなく、覚りに導く仏として尊敬することができたのです。これもやはり、供養の心によって地獄的世界を転じることができた一例といえるでしょう。(六師外道 以降参照)

 このように見ると、「先祖供養」や「永代供養」というのは、尊崇の念から行なわれるのであればとても重要です。先祖を尊敬するということは、今ここに恵まれているいのちを、深い歴史に感謝して引き受けるということです。また、永代に渡ってその功徳を伝えることは、今現在が未来に広がっていく起点となり、永遠の時間を内容として生きることになるのです。ご先祖さま方々のご苦労と、子孫に語り示すべき道をもって、今を精一杯生きてこそ、過去も未来も全て救われるということであります。
 さらに、厄というのは、仏心を尊ばず道理を無視して欲望を願うわが心でありましょう。祈願ということも、自分の欲望の充足を願うのではなく、一切衆生を済度する(覚りに導く)如来の願いをわが願いとすることが真の祈願なのです。

 密教と仏教の違い

 さて、最初の――
〉 密教と仏教の違いはどんな点でしょうか?

というご質問ですが、密教はとりあえず仏教の一部と理解してください。ただし、インドでは西暦9世紀になりますと、密教は完全にヒンドゥー教と合体してしまいますので、たとえ釈尊の名はあっても後期の密教を仏教の範疇に入れることには賛成できません。

 経典成立の過程においても、密教は大乗仏教の流れとは少し別の発展を遂げます。上座部系の諸派に批判的な大乗仏教グループの中で、密教経典を生み出すグループはごく初期の段階で分かれ、インドの土着文化を積極的に取り入れていきます。ですから、般若経や涅槃経・華厳経・浄土経典のように、互いに共通の内容を持って切磋琢磨して作られた経典と違い、独自の記述が目立つわけです。ちなみに、密教に対し、般若経や浄土経典などの教えは顕教と呼ばれています。([経典結集の歴史] 参照)

 密教では、自らの教えは真如そのものの説かれた教えであるから、奥が深いために密であり、顕教は応身である釈尊の言葉であり内容が浅いから顕である、としているようですが、こうした主張に対して顕教側もきちんとした反論はしてきました。ここでわざわざ論争をする必要はありませんのであえて省略させていただきますが、科学が地道に道理を公開して発展してきた経緯を見れば、仏教もかくあるべしと思います。

 なお、日本に入ってきた密教は、天台密教(台密)と真言密教(東密)の違いがありますが、最澄・空海の活躍されていた時代は、密教に関しては東密が情報量で圧倒的優位に立っていました。しかし後に台密はこの差を縮め、やがて立場を逆転することになります。


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