平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

経典結集の歴史

仏教発展の経緯と同調して編纂

質問:

 私は仕事の関係上(日本語教師)、今まで言語について勉強してきましたし、それについては今後も多岐にわたる知識が必要であります。
 そこで質問があるんですが、お経はもちろんお釈迦様によって説かれた内容を、釈尊滅後に後の僧侶達によって編纂され、莫大な数の経典が作られ、現在に至っているのですよね。(間違っていたら、指摘してください。)
 それで、お釈迦様は当時何語でお説法されていたのでしょうか?やはり、サンスクリット語やパーリー語ですか。
 また当時は口伝で教えを伝えられていたとお聞きしたことがあるのですが、事実ですか?
 また現在ある経典は、日本では音読みと訓読みがあるそうですが、他の国の言語に訳された経典はどれぐらい存在するのでしょうか。

返答

 ご質問を読みますと、単に日本語を教えるだけでなく、基本的な宗教文化も学び伝えようとされている姿勢が伺え、感服させられます。ぜひ多くの方々にお伝え下さい。

 さて最初の経典結集の経緯についてのご質問についてですが、こちらは少し複雑ですので、後半に詳しく述べさせていただくことにします。

◆ 釈尊の口伝

「お釈迦様は当時何語でお説法されていたのでしょうか?」というご質問ですが、結論から申しますと<マガダ国を中心とする東方方言>であったことがほぼ確実視されています。しかしこの方言を正確に伝える経典は現存しません。

 実はご質問にあります<パーリー語聖典>は(西暦)19世紀末、ヨーロッパの学者たちから注目を集め、「これこそが最も古い経典で、釈尊の教説を事実に近い形で伝えている」とする説が有力になりました。
 一時はその説に日本の仏教者たちも惑わされ、漢訳の経典をないがしろにする学者も多数出ましたが、研究が進むにつれ、パーリー語聖典はインド西北部の方言に近く、しかも現存する経典は比較的新しいもの(5世紀以後)であることが分ってきました。
 今では欧米の学者たちも、質・量・完成度ともに漢訳経典こそが第一で、古さの点でも漢訳は1世紀から始まっている上、内容的にもパーリー語経典と同様に釈尊在世当時の要素が含まれていることを認めています。

 <サンスクリット語聖典>については、敦煌やバーミヤン等の地で発見された断片も含め、古いものでも4世紀後半で、大部分は7世紀から10世紀に書写されたものです。またネパールには大乗仏教と関連の深いサンスクリット語の写本が数多く発見されていて、研究のためには非常に貴重な資料ですが、古いものでも11世紀後半で多くは17世紀以後のものです。

 なお、「当時は口伝で教えを伝えられていたとお聞きしたことがあるのですが、事実ですか?」というご質問ですが、これはまさに仏教の特徴で、当時も文字は存在していたのですが、宗教的な内容を文字で記すことはせず、口伝(もしくは以心伝心)による指導が中心でした。これは、<教えを文字で固定することを拒む何らかの宗教的習慣・文化が存在した>とも考えられますが、釈尊の行動範囲は広大であり、精力的な布教活動のさなか、教えをすぐ文字化することは物理的に困難だった、とも考えられます。そして釈尊滅後、経典を結集する際も、その慣わしに従い数百年間文字化することを避けていました。

◆ 他国の言語に訳された経典

 次に「現在ある経典は、日本では音読みと訓読みがあるそうですが、他の国の言語に訳された経典はどれぐらい存在するのでしょうか」というご質問について――

 歴史的にみますと、『パーリー語』『サンスクリット語』などインドの標準言語で書かれた経典や、『アパブランシャ語』『古ベンガル語』などのインド方言で書かれた経典、新疆の古代死語(コータン、クッチャー、ウイーグル、西夏など)で書かれた経典も発見されていますが、前述のように質量ともに『漢訳』の大蔵経が圧倒していて、続いて『チベット語訳』は量としては漢訳に匹敵しています。

 日本の状況としては、漢訳の音読み(ただし呉音と漢音がある)が主として法要に用いられ、訓読み経典は教学として活用されてきました([訓読みのお経について] 参照)。また現代語訳も盛んに行なわれていますが、全宗旨宗派で統一した訳というものは作られておりません。ただ大正14年、木津無庵氏が中心となって編集した『新訳仏教聖典』は、縮訳ながら宗旨宗派を超えて好評を得、この訳を下地として『仏教聖典』(仏教伝道協会)が作られ、一般にも普及するようになりました。

 次に『英訳』ですが、サンスクリット語やパーリ語からの英訳は数多く出版されていますが、漢訳からの英訳は充分ではありませんでした。
 当「浄土真宗本願寺派」でも昭和53年になってからようやく本格的に英訳を推進し、『英文浄土真宗聖典』を完成させました。
 おそらく、各宗旨宗派によって所依の経典が各国語に翻訳されているのではないでしょうか。

 また[仏教伝道協会]では、『英訳大蔵経』の完成を目指し翻訳作業が進められていて、また多くの経典を凝縮して短く一冊にまとめた『仏教聖典』は、日本語や英語、また和英対照・中国語(簡体字)・中国語(繁体字)・ノルウェー語・ミャンマー語・ヒンディー語・ウルドゥー語・フランス語・フィンランド語・オランダ語・モンゴル語・ポルトガル語・ルーマニア語・トルコ語・スペイン語・ポーランド語・タイ語・インドネシア語・ペルシア語・ロシア語・ネパール語・ベトナム語・チベット語・ドイツ語・スウェーデン語・カンボジア語・イタリア語・タガログ語・シンハラ語・韓国語・デンマーク語・アラビア語・エスペラント語・セルボクロアチア語・ギリシア語に訳されたものが刊行され、マレー語・スワヒリ語・キルギス語・ゾンカ語も近刊されるそうです。

◆ 経典結集の歴史

 最後に「お経はもちろんお釈迦様によって説かれた内容を、釈尊滅後に後の僧侶達によって編纂され、莫大な数の経典が作られ、現在に至っているのですよね」という初めのご質問にお応えしますが、この問題はとても複雑で長い仏教の歴史を見定めて述べなければなりませんが、ごく短くまとめてみます。

 経典の結集状況は学者によっても説が分かれ、方程式のように答えは出せません。しかしひとまず歴史的事実として以下のことが言えると思います。

 こうしたことを踏まえ、ごく一般的な説として結集の様子を以下のように伝えています。

釈尊在世中は直接釈尊に確かめられたが、没後は記憶を成文化する必要にせまられた。教えの散佚を防ぎ、教権を確立するために、仏弟子が集まって口から口へと伝えられた教えを整理する編集会議が行なわれたのである。
(一)第一回結集(五百結集)。マハーカーシャパ(摩訶迦葉)が会議を招集し、五百人の有能な比丘がラージャグリハ(王舎城)郊外の七葉窟で、ウパーリ(優婆離)が律の、アーナンダ(阿難)が経の主任となり、読誦する本文を検討し、教団の名において編集決定された。これが現存のパーリ聖典であると南方仏教では信じているが、この伝説に対して種々の異論や批判がある。
(二)第二回結集(七百結集)。釈尊滅後100年のころ、戒律について異論が生じたので、ヴァイシャーリー(毘舎離)でヤシャス(耶舎)が主任となり、七百人が集まって律蔵が編集されたと伝えられている。
(三)第三回結集(千人結集)。釈尊滅後200年のころ、アショーカ王のもとで、首都パータリプトラ(華氏城)において、モッガリプッタ・ティッサが主任となり、千人の比丘が集まって、経・律・論蔵全部を集成したという。第一・二回は北方・南方の両仏教に伝えるが、第三回は南方仏教にのみ伝えている。
(四)第四回結集。二世紀のころ、カニシュカ王のもとで、パールシュヴァ(脇尊者)・ヴァスミトラ(世友)が中心となってカシュミール国の比丘五百人が集まって、三蔵に解釈を付し、それが『大毘婆沙論』となったというが、南方の仏教徒はこれを信じない。

『佛教語大辞典』(中村元著)「結集」より

 では、『第一回結集』においてまとめられた経典を最も正確に伝えている経典は、現存する経典の中でどれなのか? もし複数存在するのであれば、どの経典のどの部分とどの部分をつなげればより事実に近づけるのか? 後世の記述であるという特定はどこでするのか? ・・・等々の疑問が出ます。
 19世紀末の欧米や日本の研究者たちは、<論証を積み重ねていけば釈尊の説かれた教説の真実にせまることができる>という信念のもと、果敢にこの命題に取り組んでいきますが、結果としてその全てが失敗に終りました。これについて、<基本的な仏教教団の成り立ちが、現在我々が考えている組織とは随分隔たりがあるのではないか?>という視点から、以下のような説も出されています。

 ある時期にはぜんぶで二十ほどの部派があったといわれる。パーリー語、漢文、チベット語などのさまざまの文献で、それらの部派の発生の歴史を述べている。ところが発生の順序や系統や名称は書物によってかなりの差異がある。これらの文献に共通するところによると、仏陀の入滅後ある時期(およそ百年のあいだ)を経てのち、大衆部と上座部との分裂がおこり、それから内部の分裂をくりかえして、このように多数部派ができたという。
 こういう文献にもとづき、近代の研究者たちも、仏陀の残した教えはその入滅後ある時期まで(百年ほど)は統一ある形で伝えられていた、と推定することが多かった。原始仏教とか根本仏教とかいう区分はこの推定を根拠とする。
<中略>
 こういうふうに多くの学者は考えてきた。そしてこれらの部派がいわゆる小乗仏教(または部派仏教)であり、その後しばらくして、おそらく紀元後になってから、これらとは別に、大乗仏教という新しい運動がおこった、とこう言う。
 しかしこれらの点には問題がある。問題点を要約すると次のようになるであろう。
 第一に、仏陀の入滅後百年ほどのあいだ統一見解が仏教教団ぜんたいを支配したということは疑わしい。仏陀の在世当時ですら、教理の統制は実際に強制されていなかったし、入滅後の第一回の会議の結果もすべての仏教者によって無条件に承認されたのではなかった。
 第二に、部派の区別は仏陀の入滅後百年たってから始めて現れたのではない。仏陀の在世当時から地域別、または中心人物に別によって事実上の支部が存在していた。布教の地域が拡大するにしたがって、この傾向もいっそう盛んになった。
 第三に、大乗は小乗よりも新しいと一概に断定することはできない。大乗が教団組織として固定し、その聖典を編集したのはかなり後であるが、大乗的傾向の活動はずっと以前からあった。その具体的な証拠は、紀元前二〜三世紀までさかのぼるサーンチー、バールハトその他に残る美術品からも推定される。また“説一切有部”や“経量部”などの小乗部派の教理はきわめて複雑なものであって、これらが大乗の興起以前にすでに成立していたと推定できる根拠はない。
 第四に、前に紹介した部派の分裂の歴史は必ずしも客観的な記述ではないことも注意すべきであろう。書物によって記述が異なることからみても、このことは明らかであるが、これらはみなそれぞれの部派が事実上成立してからあとでおのおの自分の部派を権威づけるために作られた系図である。自分の部派が仏陀の真説にもっとも近いことを証明する意図によって書かれたものである。
 このように考察してくると、やはり仏教聖典には最初からいくつかの傾向が併存していたと見るべきであろう。これを図示すると次のようになるであろう。

『お経のはなし』(渡辺照宏著/岩波新書)「お経の成立」より

共存・分化・合流・加上

 渡辺照宏氏の説は一例に過ぎないとはいえ、かなり説得力をもっていますので少し詳しく紹介しましたが、「仏説の経典は全て釈尊一代の忠実な記録」であり、広範で経典相互に矛盾する内容の説明を「対機説法、応病与薬」(相手に応じて説法を説いたため)と、「象喩」(多くの盲人が象の身体をなでて種々の解釈をするように、聞き手の解釈力の違いが原因)という古来の見解は、現在ではほとんど意味を持ちません。この誤解は主に中国においてなされました。
 しかし、「ある時期まで直説が残っていたが、現在の経典はほとんど後世の作り話」という極論は避けなければならないでしょう。多くの経典が、それ以前に編集された経典を受け継ぎ、かつそれを発展整理して編纂した、という歴史をかいま見ることができるからです。

 一例をあげますと、『大無量寿経』において、法蔵菩薩が師の世自在王仏に「願はくは仏、わがために広く経法を宣べたまへ」と頼み、それに応じて――ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。ときにかの比丘、仏の所説を聞きて、厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり――と記されているように、「阿弥陀如来の誓願」として顕されているのは、小乗・大乗全ての経典を総合的にふまえた上で、なおかつ<遥かな過去から叫び続けられている生命の根源>を<これ以上ない願い>として成文化させた、という経緯がしのばれるわけです。

私と今とここの三つの重なる所に立っておらねば、人生も見えず、経典も読める道理がありません。どんなに今日の仏教が、時代から置き去りにされているか、まことに悲しい限りです。仏教にこういう五濁動乱の世を救う経典がないのなら致し方もありませんが、ちゃんと三部経はそれを説いているのです。
 それに仏教学者は、三部経を迷信位に思っているのでしょう。自分の読書力の足らんことに気づかず。  金子先生は亡くなられる二、三年前から、お訪ねする度びに遺言のように、「外の人には言わんでよいのだが、あんた達には知っておいて貰いたいことがある。それは今日の仏教学者はみな、原始仏教が本当の仏教で、あとから出てきた大乗仏教や浄土経は、すべて俗信仰が雑りこんだものであるといって、そういうことが学界の定説のようになっているが、大将はあとから出て来ることもある。あとから出て来た『大無量寿経』こそ、真実の仏教を伝えたものです」といっておられました。

『仏教開眼四十八願』島田幸昭著 より

 このように、経典結集の歴史は仏教発展の経緯と同調していて、多くの人々・地域・時代に試されてきた実績も含まれ、特に大乗仏教には広範な内容を詰め込みながら整理・発展を繰り返した跡が残っているのです。ですから後世に編纂された経典ほど普遍的な内容になり、現代人にとっても生活に密着したところまで踏み込んだ表現となっています。

 結論としていいますと、「釈尊一人が全ての経典を説いた」というのは完全な誤解なのです。おそらく後期の大乗経典などは、ゴータマ・シッダルタとして語られる釈尊では、とても説くことはできなかったでしょう。なぜならあの時代には無い様々な思想を包括して説いてあるからです。
 しかしもし釈尊に『華厳経』や『仏説無量寿経』を御覧いただく機会があれば、おそらく釈尊は「まさに、これこそ私の真意である」と感動されることでしょう。そうした感動を呼ぶ経典こそ真実の経典なのです。


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