平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

難解なお経を読む意義と作法について

形の中に誠実な心を込めていく

質問:

教えてください

  1. 本願を信じ、念仏を唱えることが大切だ、というのが親鸞の教えだと思うが、葬儀のときなどでお経をあげるのはなぜか?
  2. お経はなぜあんなに分かりにくいのでしょう?お経のオリジナリティーを大切にしているとすれば、読み方(発音)もオリジナリティーを守っているのでしょうか?
  3. 浄土真宗は「こだわり」や「決まりごと」にとらわれず、「本願を信じ、念仏をとなえること」を重視する、つまり、「こだわり」や「決まりごと」はいわば(極論すれば、ですが)「どうでもよい」ことだとする宗教だ、と捉えてもいいものでしょうか? 葬儀のときなどにもその捉えかたは当てはまりますか?

返答

◆ 葬儀等でお経をあげる訳

 よく勉強されてみえるようですね。「葬儀のときなどでお経をあげるのはなぜか?」というご質問は、おそらく――

信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
 (信心の定まるとき、浄土に生まれることも定まるのですから、お迎えの儀式を要しません)

と「平生業成」を『御消息』(1)等で説かれた親鸞聖人の教えに背くのではないか、という疑問から発せられているのではないかと推察します。

 確かに、葬儀に参加される人の中には「臨終往生」を願う方も多くみえると思いますし、それどころか「冥福を祈る」という言葉が一般化してしまいましたので、これでは<迷いの世界><冥い世界>への見送りになってしまいます。
 何とかこの事態を打破していこうと僧侶は努力しているのですが、迷信は中々根強いものがあり、成果が現われるのは一部に過ぎず、宗祖や諸師方に申し訳ないと思います。

 ところで、葬儀や法事は、亡き人の遺徳をしのぶよい機会ですね。
 親鸞聖人は道綽禅師の文を引いて――

『安楽集』にいはく(上)、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。

『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(末) 後序

【現代語版】―――――――――――――――
『安楽集』にいわれている。
「真実の言葉を集めて往生の助けにしよう。なぜなら、前に生れるものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。それは数限りない迷いの人々が残らず救われるためである」

 このように、先人の導きを尋ね、それを多くの人々に宣布するためには、往生された方の葬儀や法事など法要を行い、「如来の本願を信じ、念仏を称えることが大切」と、もう一度味わい尽くすことも大切になってくるのではないでしょうか。
<私は知ってるからいい>と、形を蔑ろにするのではなく、私に知らせて下さった方やその縁を作って下さった方々を敬う心を、しっかりと法要に込めていただきたいと思います。

◆ 漢文経典の優位性について

「お経はなぜあんなに分かりにくいのでしょう?」というご質問ですが、特に漢文の経典について言われているのだと思います。
 ある意味、「仏教はインド発生だから、サンスクリット語やパーリー語がオリジナルだ」という言い方もできるように思われますが、[経典結集の歴史] に書きましたように、今では「質・量・完成度ともに漢訳経典こそが第一で、古さの点でも漢訳は1世紀から始まっている上、内容的にもパーリー語経典と同様に釈尊在世当時の要素が含まれている」という結論が衆目の一致するところとなっています。

 さらに漢文第一の考えは中世までは絶対でしたので、日本の僧侶や学者も論文等を書く時は、正式には漢文で書いたのです(ちょうど医学はドイツ語、数学は英語が標準なのと同じ)。ですから親鸞聖人が『正信念仏偈』やその偈が含まれる『顕浄土真実教行証文類』を書かれた時も全て漢文で書かれました。
 この漢文は単なる和製ではなく、[海をこえて響くお念仏] にもありましたが、「肉体に沁み込むほどの感動を覚えました」と、中国人の張偉さんも味わってみえるように、きちんと通じる漢文です(和製英語が英語圏では通じないのとは対象的)。また今でも、正式な挨拶状などは全て漢文で書く宗旨もあります。

 こうした最上の「漢文経典」に比べると、「訓読み経典」はある一定の成果をあげたものの([読みのお経について] 参照)読経の中心とはなっていません。
 これはおそらく、聞いている方は勉強していなければ漢文と同じように難解で、<どうせ解らないのなら漢文の方がお経らしい>という想いが強かったせいではないでしょうか。
 また、篤信者は漢文でも充分味わうことができますので、「訓読み経典」は主に教学を問う時に用いられることとなりました。

 さらに「現代語訳の経典」は、なかなか礼拝になじまず、勉強の助けとしてのみ用いられてきました。
 しかし本願寺派では、『意訳勤行』【=現代語でおつとめができるように、昭和二十三年に蓮如上人四百五十回忌の記念行事として訳されたものです。『しんじんのうた一・二』(原典:正信念仏偈)、『さんだんのうた』(原典:讃仏偈)、『ちかいのうた』(原典:重誓偈)、『らいはいのうた』(原典:十二礼):[浄土真宗の簡単なお経] 参照 】を作成しましたので、漢文以外にも機会を見つけてこれを読むように指導しています。これら意訳の経典は韻を踏んでいますので、礼拝に適しているのです。

 また、「お経のオリジナリティーを大切にしているとすれば、読み方(発音)もオリジナリティーを守っているのでしょうか?」という質問ですが、漢文経典の作成は当然中国ですので、日本ではオリジナルの発音では読みません。
 ただ、[全国アホ・バカ分布図]にも書きましたが、経典の発音も「呉音」や「漢音」があって、例えば「仏説阿弥陀経」も呉音では「ぶっせつあみだきょう」ですが、漢音だと「ふっせっあびたけい」と読みます。こうした例に見られますように、日本の中でいえば発音を整理して受け継いできている歴史があります。

◆ 「こだわり」や「決まりごと」の意味

 最後の<浄土真宗は「こだわり」や「決まりごと」にとらわれず、「本願を信じ、念仏をとなえること」を重視する 云々>についてですが、「こだわり」が「我見や習俗・迷信」ということでしたら、確かに「とらわれず」と言えると思います。しかし「決まりごと」については少し考えなければなりません。

 どうしてかと言いますと、「本願を信じ、念仏をとなえること」が「かなめ」となって「決まりごと」を作っているからです。扇子にしても「かなめがしっかりしていれば後はどうでもいい」という訳にはいきません。「かなめ」は大切ですが、それが形として広がらなければ、その大切さが埋もれてしまいます。

 如来の本願は衆生の救済にありますが、救済とは人生を成就・荘厳することなのです。信心の縦糸に私の人生が絡みあい、裏打ちされ、人間としての花を咲かせることが主目的なのです。生き甲斐のある、死んで悔いの残らない人生を成就し、死して後までもその展開の止まない生き方をすることが救済なのです。
「信心獲得すれば、正定聚・不退転の位を得る」と言いますが、これはそうした生き方を示しています。

 そのためには、人間社会ですから「決まりごと」が必須となってきます。勿論この「決まりごと」は時代や国の違いによって変化することはありますが、「形に示していこう」とする誠意がなければ、信心は個人の内に朽ちてしまいます。また寺や仏壇の荘厳が大切なのは、形に心が現われ、そして形を荘厳することが心を深めていくからです。

 実際、仏壇の荘厳や読経が、最近おろそかになったため、どれほどの仏宝が光を失ったことでしょう。僧侶が「形なんてどうでもいいや」とばかりに大急ぎで経を読み、終って「さあ、これから法話をしますから聞きなさい」と言っても、誰が耳を傾けるでしょう。
 真実信心は、人を緊張させたりはしませんが、人を真摯にします。真摯な心は真摯な態度となって現われます。心は外に現われた形で知られるのです。形は変化はしますが、その中にも誠実な想いが込められていますので、ないがしろにはできないのです。


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浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)