平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

訓読みのお経について

教学と布教の重要な手段

質問:

先日親戚の法事に行った際にお坊さんが訓読みでお経を唱えていました。私はお経といえば漢文体とばかり思っていたので驚きました。訓読みでお経が読まれるようになったのはいつ頃ですか?

返答1

 訓読みのお経についてですが、これは日本の仏教にとって、 ひいては仏教発展の歴史に非常に重要な役割を果たしてきました。 といいますのも、仏教は釈尊の言動が核になっていますが、 経典や教学は教線の拡大に伴って発展し、 更に多くの経典が編纂され、人々の苦悩に直に試されてきました。 この教学の発展が一応の大成をみるのは日本の鎌倉時代で、 その際に重要であったのが、経典等の訓読みによる理解でした。

「訓読みのお経」は、厳密に言うと、仏説の「経」を書き下したもの、と言うことになりますが、 他にも例えば浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)は 漢文で書かれていて、訓点を付けて経典等を引用されています。 そこで古来よりこの書を礼拝に用いる時は、 漢文だけではなく、訓で読むことも致します。 他宗旨でも、法会などで行われる「論議」という、教学問答 (例えば、奈良・薬師寺、興福寺などで行われる)も、 「訓読みのお経」に聞こえるかもしれませんね。 他にも、これに類するものはたくさんあると思います。 これらを、訓読みのお経と言うならば、 それぞれの宗派の歴史とともに読まれてきたことになるでしょう。

 さて、ついでですから、もう少し詳しく訓読みの重要性を述べてみましょう。
 訓読みは一応日本語訳ですから、日本人が直接理解することが可能で、 仏教を民衆の救いとしてに弘めようとしていた僧侶は、 その第一歩として、自身が経典を理解するため、 勉学には訓読みを用いていました。
 ただ、この漢文の訓読み方法には、一応の決まりはあるのですが、 絶対的な法則ではなく、 教学理解が既成の範疇を超えてより深まると、 訓点を改めることが可能になってきます。 つまり訓点をどう付けるかは、教学の要にもなってくるのです。

 訓み変えで特に有名なのが『大無量寿経』中の『本願成就文』で、 「至心回向」→「至心に回向して」を 親鸞聖人によって「至心に回向したまえり」と訓点を改められた部分です。

 回向というのは、大乗仏教になって出てきた菩薩の利他行をいうのですが、 「至心回向」を「至心に回向したまえり」と訓みかえられたために、 従来の「誰かの回向があって初めて願が成就する」という意味から、 「回向の方が先手のはたらきとして私に成就してくる」という普遍的な意味になり、 仏の願いが自然法爾として明確に顕されることになりました。 これは仏教の歴史、ひいては人類の歴史が、 阿弥陀如来の本願展開の歴史として教学が確立されるキーポイントで、 この一点がなければ、浄土は現実の救いとして明らかにはならなかったでしょう。

 訓み変えは、漢文に訓点を付ける日本の文化から出てきた教学発展の方法ですが、 「経典を訓み変えるとはけしからん」という意見も一方にはあります。 しかし実は中国ではサンスクリット語経典を理解する際に、 相当苦労して漢訳を施してきましたので、多くの異訳があり、 また定まっている漢訳を、別の漢文に書き換えて表現することもありました。 (例えば善導大師の『観無量寿経疏』にある本願文読み変え)

 このように、仏教の歴史は如来のはたらきを明らかにし、 人々に実際の功徳を施す歴史なのですが、 経典の編纂は長年にわたって継続、発展してきました。 そうした上で、教学をより多くの人々、地域に浸透させることが必須で、 日本における勉学も、また礼拝時の読経も、より身近なものが求められ、 その流れの中で訓読み経典が用いられてきました。

 近年ではさらに「現代語訳」の経典も勉学のため数多く出版されていますし、 浄土真宗本願寺派では昭和23年より『意訳勤行』も編纂され、礼拝時の読経も現代語訳を使うことができるようになりました。


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