平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します

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仏教 Q & A

「供養」について


質問:

 兄の新しく作った墓石に〇〇家の【供養】という文字が刻まれていました。

 浄土真宗ではこの【供養】と言う文字は不適切と思われますがいかがでしょう。

 【供養】のために墓を作るのでしょうか?

 いかがでしょう。



返答

> 兄の新しく作った墓石に〇〇家の【供養】という文字が刻まれていました。
> 浄土真宗ではこの【供養】と言う文字は不適切と思われますが
> いかがでしょう。

 仏教では、相手の人格を無視したり見下すことを「殺生」と言います。逆に相手を敬い尊敬することを「供養」と言います。「殺生すれば地獄、供養すれば浄土」というのは単に死後の問題ではありません。
 現実に地獄を作り出していくのか、浄土のはたらきに随順していくのか、常に私たちに突きつけられている問いなのです。そして「地獄を見た者こそ地獄を作る業を離れ、浄土を求め、その清浄・荘厳のはたらきに参入して欲しい」という願いが阿弥陀如来の本願なのです。

 ですから、浄土真宗の教義として「供養」の文字が不適切ということは全くありません。 ただ、墓の正面には「南無阿弥陀仏」等の名号か、 「倶会一処」の文字を刻むことが宗派の決まりとなっています。

 もしそうした文字が刻んでない場合は、 参拝の時、名号や絵象を持参し、 墓の中央に置いて礼拝・読経して下さい。

> 【供養】のために墓を作るのでしょうか?

「供養」というのは、財と法の二種類があり、 飲食・衣服・臥具・湯薬の「四事供養」に代表される金品の供養と、 恭敬供養・讃歎供養・礼拝供養という精神的崇敬の供養ですが、 どちらも尊く大切な宗教儀礼ですので、 そのために墓を作るということは、決して間違いではありません。

 しかし、ここで問題にされているのは、 そうした「供養」が、目的ではなく手段に使われていることではないでしょうか。 つまり「追善供養」のように、供養することで何かを得る、 いわば「取引」になる懸念です。
 先日、仏教青年会での勉強で、 「宗教はあくまで目的であって、手段となってはいけない」 という事を聞かせていただいたのですが、 確かにこれは厳に慎まなければならないでしょう。

「念仏」でさえも、手段として称えれば、本来の信心や報恩から離れて 呪術の一種と化してしまいます。 そうした念仏を「自力の念仏」として廃し、 「他力の念仏」に帰さしめていくのが浄土真宗です。

「宗教は目的」ということは「そのこと自体が本質である」ということ、 つまり、供養も念仏も、その行為の後に何かを期待するのではなく、 供養すること自体に、念仏すること自体に、 いのちの尊さに目覚め、生きる喜びを見出していく。 生きる方向性を見出していくことが肝要と思われます。

「供養」や「他力」という言葉は、世間で誤解されて使われていますが、 そのことを歎くだけではなく、言葉のもっている本来の尊さを、 刻まれた文字を縁として、共に学んでいかれると良いでしょう。

なお、『供養』について『真宗新辞典/法蔵館』には、 以下のように記されていますので、ご参考になさって下さい。

供養: 食物や衣服を仏法僧の三宝や父母・師長に供給すること.
 「一切の仏ならびに真法と菩薩・声聞衆に供養したてまつる」〔事讃〕.
 四十八願には,(23)供養諸仏・(24)供養如意の2願があり〔大経〕,
化生の者は諸仏を供養し、胎生の者は諸仏を供養することができないという〔大経―化生・三往,→末讃〕.
 王宮に降臨した釈尊に対して,諸天は天華をふらして供養し〔観経〕,
三衣を売って求めた一鉢の飯を供養しようとした比丘に対して,釈尊は汝の父母に供養せよと教え〔序義〕,
善見太子は提婆の神通に心服して供養したという〔涅槃―信〕.
 一切衆生の供養を受ける資格のあるのは仏のみである。〔浄讃「大応供」左訓〕.
天親は離菩提障を明す中で,方便門により衆生を憐愍して,自身を供養し恭敬する心を遠離すると述べ〔論―論注―証〕,
善導は自利真実をあかす中に,真実心の身業に合掌礼敬して,飲食・衣服・臥具・湯薬の四事などをもって阿弥陀仏および依正二報を供養することを説き,また五正行の第5には一心に専ら讃歎供養することをあげる〔散義―化本〕,
過去の諸仏は念仏三昧をたもち,四事供養により成仏したという〔般舟三昧経→法門〕.
経典を受持する十種の法行のなかに供養がある〔選択〕.
阿弥陀如来の寿命無量の徳は,一切の凡聖に対して飲食医薬を供養した功力による〔西指〕.
本願のうち第22の環相廻向の願には,供養諸仏と開化衆生が誓われている〔大経―論注―証〕.
念仏三昧の法を聞くために斯琴王や梵摩達が師に対して飲食・衣服・臥具・湯薬の四事供養をしたといい,長阿含経には師長につかえる五事をあげて,その第2に礼敬供養を説く〔持名〕.
存覚は,仏前に不浄の肉味をそなえる非を論じ,三界穢土の供養は清浄でないけれども住持の三宝に対しては散華・焼香・燃灯・懸幡などの供養をすべきであるという〔顕正〕.

(参照:{供養諸仏の願}{供養如意の願}


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