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【十界モニター】

お悔やみの言葉に傷つく

普段から相対的な価値観を翻して

 誰でも「きちんとした挨拶」というのは苦手なものだ。中でも「お葬式の時のお悔やみの言葉程難しいものはない」と言われる。
 しかし、本当は難しくも何ともない。素直に自分の感情をお伝えすれば良いのだ。しかし、その<自分の感情>というものが、普段<他人を踏み台にして自己満足している感情>であった場合、それが言葉の端々に出るため、つい相手を傷付ける表現となってしまう。いわば本音がためされる場面なのであろう。

 大往生だから良かった?

 葬式の時の遺族の心情は、過去に大切な人を見送った経験のない人には計り知れないものがある。それを物知り顔でべらべら喋られたり、「元気出して下さいね」などと言われると、「わざわざ遠いところからおこし頂き・・・」と御礼を言いながらも、<元気なんか出せるか!>と怒れてきてしまう。 イメージ

 お悔やみは、受ける立場になってみると、余りに残酷な言葉が多いことに気付く。何しろ、その人の死をさして悲しんでいない人たちが、高みに立って、悲しみのどん底に沈んでいる人に「余裕の言葉」を述べるのだから、素直に感情が交わることはほとんどない。遺族は悲しみをこらえて煩雑な応対に追われ、感情の整理がつかないまま葬儀を終え、がらんどうになった部屋でようやく鳴咽の涙とともに亡き人との対話を始めることになる。

 先日、やはり遺族の方で「お悔やみの言葉に傷ついた」とおっしゃる人がみえた。享年が90才を超えていたため、皆から「大往生だったから良かったじゃない」とか、「これだけのお年の葬式は本当はお祝いなんですよ」などと言われ、そうした世間的な「よろこび」に反論したくても、胸が潰されそうに悲しく、ただ黙って聞くしかなかったのである。

 いくら高齢でも別れはつらいに決まっている。家族は文字通り身を引き裂かれる思いで最期を看取り、「何故もっと親孝行しておかなかったのだろう」という懺悔の思いがこみ上げてきているのだ。ところが、「この年齢まで生きれたんだから喜ばなきゃ」という非常識な常識。世間の余りに冷たい常套句に吹きさらされるのだから余計に辛い。これではお悔やみによって孤独感が増してくるだけである。そして「世間のつきあいというものが、これほど浅いものであったのか」と愕然とするのもこの時である。

 本当の往生とは

 一般的に喜・怒・哀・楽の感情は、誰かと比べたり、何かと比較して語られることが多い。しかし時として、そうした相対的な価値観を超える悲苦と遭遇せざるを得ないのが人生であろう。中でも死別は、誰もが経験しなくてはならないものでありながら、どんな慰めも全く通用しない次元にある。「比べてみれば」と言われても、人のつながりは他の何ものにも変えがたいものなのだ。「今生の別れ」を経験すると、そのことがはっきりしてくる。もっと言うと、つらい別れに出遭わないと、中々見えてこないものなのだ。

 往生とは、そうした具体的な「比較できないいのち」を自他に見出すことに他ならない。

 だからこそ、かつて(平安時代まで)往生は臨終においてのみ語られていた。人間の常識がひるがえるのはそうした特別の時だけで、阿弥陀如来の来迎図はその象徴であった。
 親鸞聖人は、「比較できないいのち」の関わりが、平生においても如来の本願力によって「一子地」として成就されており、信心を得さしめるはたらきの中に顕れていることを説かれた。相対的で、上下の差別をつけて見ていた世界をひるがえすため、如来は「摂取してすてざれば」というはたらきから「阿弥陀」、「無限の光・いのち」と名のり、日々のお念仏の中に本願力を展開し、人を人として育てる。

 そうした往生が「死に方」や「年齢」などの条件と無関係であることは当然だが、一方では「高齢だったから良かったじゃない」と安易に語られる中には見出せないことは注意すべきだ。ただ、仏法を聞かせてもらっている私としては、こうした安易さを逆縁として頂き、「悲苦を共感し、包み込み、私と成り切る如来のはたらき」に共々照らされていること、それこそを「よろこび」として人生を歩んでいきたいと願っている。

[Shinsui]

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