還浄された御門徒様の学び跡 |
「……今日の世の中を見ます時、他のいのちを傷つけ、結局自らのいのちを傷つけるという例が少なくありません。逆にいえば、自分のいのちの素晴らしさを感じることによって、他のいのちの素晴らしさを守っていく、そうありたいものであります。お念仏の喜びを感じることによって、そうした道が開かれていかねばならないのではないかと痛感する今日でございます。…」(平成十三年 第二六三回臨時宗会のご教辞から)「…・目に見える世界では、人間・動物・植物が同じいのちのつながりのなかに生きている、ということであります。そこにともにこのいのちを生きていくというつながり、よろこびを感じるとともに、その大きなつながりのなかに、もう一つ目に見えない限りないいのちのつながりを感じとれるかどうか、ということが大切ではないかと思います。…・・」
(平成二年・大谷本廟「朝の法座」ご法話)
* 〈一語一会ことばのこころ〉
「おおよそ大小聖人、一切善人。本願の嘉号をもっておのれが善根とするがゆえに、信を生ずるあたわず。仏智をさとらず…・・」(教行信証化身土文類)『人間は何もかも自分のものにしたがります。自分といえる知恵でひとり立ち始めると、いのちまでも自分のものにするのです。そして、自分のものが多ければ多いほど幸せであるかのように思いこみます
しかしいのちは決して自分のものではありません。人間の不安と孤独は、自 分のものではないいのちを自分のものにして、自ら自分のいのちの大地から切り離していることに原因があります。その迷いは行きつくところ、自他を殺してしまう孤独死にも至ることでしょう。
いのちを自分のものにして、さらにはお念仏を自分のものにしかねない自らの闇の深さを、仏さまに深く教えられ、信心の智慧を賜りたいと心から念じ ます。』高 史明 (本願寺新報 〈一語一会ことばのこころ〉から)
漢字の起源に見る「いのち」
「あらゆるものは生命の連続のなかに生きる。その連続の過程をどれだけ充たして行くことができるのか、そこに生きることの意味があるといえよう。
生とは自然的生である。細胞の活動に支えられるものには、すべて生がある。 それで『生』は。『草の生い茂る形』で示される。一つの時期を過ぎて結節点が加えられると『世』となる。人の世の横への広がりは「姓」である。姓とは血縁的集団である。
自然的生のなかでは、生きることの意味は問われない。その意味を問うものは『命』にほかならない。『命』ははじめ『令』とかかれた。礼冠をつけた人が跪いて、静かに神の啓示を受けている。おそらく聖職のものであろう。その啓示は、神がその人を通じて実現を求めるところの、神意であった。のちには『口』をそえるが、その祈りに対して与えられる神意が「命」である。生きることの意味は、このいのちを自覚することによって与えられる、いわゆる天命である。」白川静「漢字百話」(中公新書)より
(参照:{「いのち」を「命」と表記しない理由})
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