還浄された御門徒様の学び跡 |
本願寺新報に大谷探検隊派遣百周年記念記事が連載されている。その将来品に正信偈の「焚焼仙経帰楽邦」との関連資料のあることが紹介されている。曇鸞大師は江南の仙人から仙経十巻を授けられたが、菩提流支の教えに出遇い忽ちにその仙経を焼き捨て浄土の教えに帰入されたと正信偈に讃嘆されている。その仙経とは陶弘景の神農本草経集注ではないかという.その写本が大谷探検隊により発見将来されているという。
大谷探検隊が主としてトルファンの仏教遺跡より採取した経典断片と第三次探検隊が敦煌で購入した敦煌経典約六百三十巻は、申国・旅順博物館に所蔵されていた。その内、敦煌経巻の六百二十一巻は後に、北京の国家図書館に移管されて現在に至っている。
龍谷大学が所蔵するものは、特に研究の必要あるものを「光寿会」が別置しており、それを京都に送り返していたものと思われる。その数は多くはないが、貴重な資料が含まれていた。中でも『比丘含注戒本』の約二十uに及ぶ写本は注目すべき優品である。
標題の『比丘含注戒本』の写本は敦煌蔵経洞から三十点以上見つかっており、唐末のチベット支配時代の敦煌でよく用いられた戒律の注釈書である。
ところが、この写本が有名なのはその表に写されている『比丘含注戒本』のせいではない。それを写すために貼り継いだ二種の文献のうちの一つが『本草集注』の写本であることによってである。この写本は首部を少しだけ欠くが、「本草集注第一序録 華陽陶隠居撰 開元六年(七一八年)九月十一日 尉遅盧麟 於都写本草一巻 辰時写了記」という著者、書写年時、書写人などを明記した識語をもって終わる。まぎれもなく陶隠居、すなわち陶弘景(四五六〜五三六)が著した『神農本草経集注』の第一巻(序録)に相当する世界最古の写本である。
中国では早くから生薬(いわゆる漢方薬)に関する知識を集めた本草書が行われていたが、それを大成したのがこの陶弘景である。ちなみに、わが国でも、明治になって西洋の医学が入ってくるまでは、そうした本草学が医学の主流であった。
ところで、浄土真宗の七高僧のひとり曇鷺大師(四七六〜五四二)が「長生不死の法」を求めて訪ねたのがこの陶弘景であったといい、『正信偈』によれば、大師は菩提流支三蔵から浄土教を授けられ、「仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき」とある。そうであるとすると、大師が焼かれたという「仙経」とは『本草集注』であった可能性がある。もっとも、この話は『続高僧伝』によると、曇鷺大師が『大集経』の注釈にとりかかっていたとき、病にかかった。大師はこの事業を完遂するためには長生こそが大事と考え、陶弘景を訪ねて健康法の教えを乞うたということである。
このことを知ってか知らずか、吉川小一郎隊員は敦煌でこの写本を入手した。僥倖というほかない。あまりにも薄い用紙に書かれているので、破損の恐れから現在では開閉をひかえているが、大谷探検隊将来品のなかでも重文級の貴重書である。
[←back] | [next→] |