平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

「いのち」を「命」と表記しない理由

― 教えに育てられた感覚が漢字を選択してゆく ―

質問:

仏教の法話集や、お坊さんの書いた文章を読むと、宗派に限らず、百人が百人とも(誇張ではなく)「命」という言葉を「いのち」と平仮名で表記されているようです。
貴HPでも、「生命」という表記はありましたが、単独で「命」という漢字は使われていないようです。
何か、決まりとか、タブーのようなものでもあるのでしょうか。

たとえば、「風にそよぐ葦」などという文の場合、「そよぐ」を漢字で書くと「戦ぐ」になってしまって、イメージが悪いでしょうから判ります。

では「命」という漢字、仏教的に問題があるのでしょうか。
平仮名で書く方が多い、というのであれば、ハヤリの可能性もあると思いますが、もう、ほぼ100%「いのち」ですから、少々、不気味でもあるのです。

私自身は、平仮名だと、少々物足りない印象があるのですが。
ずいぶん前から疑問でした。
宜しくお願いいたします。合掌九拝

返答

 確かに近年の仏教書では、「いのち」を単独で「命」とだけ表記しないことが、いわば習いとなっています。これが無自覚な倣いであれば、おっしゃる通り「不気味でもある」でしょうし、現実にはそうした面があるのかも知れません。
 しかし、先哲が「命」とだけ表記することに違和感を覚えたある種の感覚は、仏法に学びお育ていただいた者としては充分共感できるものです。ですから、明確な論証で述べることはできませんし、すべきではありませんが、「命」の記述を避ける感覚についてお話しし、返答とさせていただきます。

 日本語の「いのち」の意味

 以前、「公開講座・同朋の集い(東海仏青連盟主催)」において、佐々木恵雲先生(僧侶で内科・糖尿病の専門医)にご登壇いただき、『いのちと生命と先端医療[クローン]』というテーマで講演していただきました。
 この中で、質問に関連する内容を話してみえますので、少し長いですがご紹介します。

 まず「いのち」というのは、「いのち」とひらがな・和言葉で書く場合と、「生命」と書いて「いのち」と呼ばせている場合があります。「いのち」という和言葉はどういう語源があるか調べてみますと、色々な説はありますが、「息の道」、あるいは「息の内」という言葉から来ているらしいです。何が言いたいかといいますと、日本人というのは、生きているということを「息してる」と考えている。仏教が伝来する以前からかも知れませんが、日本人の心象といいますか、心象の中に「息をしてるということが生きていることだ」と。これは例えば、私は医者ですので病院なんかで沢山の患者さんが亡くなっていくのに出遭わせていただいてきたわけですけれど、亡くなられる時に医者は「ご臨終です」とか「息を引き取られました」という言い方をしますね。

 この「引き取る」という言葉は中々含蓄が深い言葉でして、「息が止まる」という意味だけではないんですね。私が経験した中で、末期癌の患者さんの方で、ずっと入院されてみえて、家族の方々に「残念ながら手の尽くしようがない」という話をしていました。「苦しむのは見ていられないので、無理なことはしないでほしい」という要望でしたので、「分かりました」と了解しておりました。
 ところが、客観的に見てもう2時間くらいしか持たないな、という時でした。ご家族が集まってみえたんですが、突然ご長男の方が、「先生すみません、あと3時間もたしてくれ」と言うんです。「え、なぜですか?」と聞いたら、「実は、東京に父の弟がいて新幹線に乗って来るから、その弟が来るまでもたしてくれ」と。
<中略>
 ようやく弟さんに来ていただいて、枕もとに来て「来たよ!」と呼びかけられたのですが、亡くなられる人の息を引き取っていくんですね。「来たよ!」と言って、残された人が、その人の息を引き取っていくんです。そこで「息を引き取る」と言うのでしょう。これは、僕は日本人の素晴らしさだと思います、いのちを伝えていくという。
<中略>
最近はお医者さんでも、医学部に入るまで人が亡くなるのを見たことがない。そういう意味では、昔から日本人が伝えてきた「息を引き取る」という、それを親から子へ伝えていく、という素晴らしい習慣、この伝統の持つ素晴らしさが断絶してきてるのかもわかりません。

 ですから、和言葉の「いのち」というのは、消滅するものでも断絶するものでもなく、元あるところに戻って、それがまた後々の世に引き継いでいく、という意味で使われていたのが本来の意味でしょう。「生命」と書きますと、何となく個として閉じられた生命が亡くなる、というような意味で使っていくことが多い。厳密な意味ではありませんけれども。

 ここに挙げられたように、和言葉の「いのち」は、「息の道」・「息の内」という意味や、この他に「息の根」・「息の緒」という意味が込められているようです。中国から漢字が入り、「いのち」に相当する言葉を文字として表わす時に、「命」や「寿」を当てはめたのですが、漢字の持つ意味と和言葉はニュアンスが微妙に異なっています。さらに、仏教の生命観と漢字の意味は完全に一致するものとは言えませんので、微妙な意味のずれを考慮して外国語の漢字を選択するのは、ある意味煩わしい作業でしょう。ですから、<『いのち』とストレートに日本語で表記した方がすっきりする>という感覚は共感できるのではないでしょうか。

 また、和言葉の「いのち」は仏教伝来以前からの言葉のようですが、だからといって仏教と違う見方であるとは断定できません。現代人より人の生死に直接触れている分、むしろ仏教的な敏感さがあるといえます。
 かつて釈尊は、「吐く息、吸う息がいのちである」と述べられましたが、「諸行無常」と一般化・抽象化された教理より、こちらの方が生活に根ざした現実感があります。仏教は形而上的な理論に執われることを廃し、足元の生を見つめることを重視していますので、「覚り」の表現も、和言葉の「いのち」という感覚を下地にした方が、より真意に近くなるかも知れません。
 そういう意味では、日本人も仏教伝来以前から既に優れた宗教的感覚を持っていたのではないでしょうか。そうした優れた感覚に、分析力や批判力や体系的な視点を与えてくれたのが仏教で、だからこそ日本で多くの聖者を輩出できたのでしょう。

「平仮名だと、少々物足りない印象がある」というのは、漢字を第一としてきた日本仏教の伝統が影響しているのかも知れません。しかし私としては、「そろそろ日本古来の感覚をもっと見直し、漢字より優れた使用例があれば、平仮名を積極的に使用すべきだ」とも思うのです。

 「生」・「命」・「寿」の文字の意味

 和言葉の「いのち」に相当する漢字は、主に「命」・「寿」の二つで、合わせて「寿命」となります。また「生」の字も重要で、「命」を組み合わせて「生命」ともなりますし、「衆生」・「群生」・「畜生」という言い方も「いのちあるもの」という意味です。また「一生」・「人生」と言えば、人のいのちの全体を指すことになりますし、「来生」「往生」と書けば、ある覚りの境地に到達することを表わします。
 ちなみに「生」の文字は、草木の芽が伸びて土から顔を出した形で、「いのち」が始動して同時に継続した状態を表わす象形文字です。

 比べて「命」は、「口」と「令」の意味を合わせた会意文字で、「口」は伝達を表わしますが、「令」もまた会意文字で「集」と「卩」(節) が合わさった形です。これは「天子が諸侯に授けた節(爵位の証)を集めるときの号令」を表わし、公文のおふれ・いいつけ・さしずをいいます。
 つまり「命」の中には、既に二重に「上からの命令」という意味が込められているのです。この「上」の存在が人間でなく天の存在ということを想定し、「天からの命令」・「天の命ずるところ」という意味で生きている状態を表わすことになります。

漢字の起源に見る「いのち」

31 生と命

 あらゆるものは生命の連続のなかに生きる。その連続の過程をどれだけ充たしてゆくことができるのか、そこに生きることの意味があるといえよう。
 生とは自然的生である。細胞の活動に支えられるものには、すべて生がある。それで生@は、 草の生い茂る形で示される。一つの時期を過ぎて結節点が加えられると、世Aとなる。 人の世の横への広がりは姓である。姓とは血縁的集団をいう。
 自然的生のなかでは、生きることの意味は問われていない。その意味を問うものは命[めい]にほかならない。命ははじめ令Bとかかれた。 礼冠を著けた人が跪[ひざまず]いて、しずかに神の啓示を受けている。おそらく聖職のものであろう。その啓示は、神がその人を通じて実現を求めるところの、神意であった。
 のちには口(※)をそえるが、その祈りに対して与えられる神意が命Cである。生きることの意味は、この命を自覚することによって与えられる。いわゆる天命である。『論語』に「命を知らずんば、以て君子たることなきなり」というのはその意である。当為として与えられたもの、それへの自覚と献身は、その字の形象のうちにすでに存するものであった。

@ 生A 世B 令C 命
生 世 令 命

『漢字百話』白川静 著/中公新書(72頁)より

  ※註:本では象形文字で表示されている。

 こうした「いのちが天の使命を帯びて存在している」という見方ですが、これを無批判に仏教で使用することには問題がある、と感じたのが近年の仏教者たちでしょう。
「老病死は自分の思いのままにならない」という面は否定できませんが、「天上天下唯我独尊」と自覚的な道を示された釈尊の教えからいえばやや消極的で、受身の姿勢が先立った文字ですので、やはり「命」は単独で用いるには仏教者としては少し違和感が生じることも分かるように思いますが、いかがでしょうか。(「南無」を「帰命」と訳した時の「命」は、あくまで「本願が報いたはたらき」という主体的な信心の問題で、外側から命令される状態を指してはいるのではない)

壽(寿)  また「壽」(寿)は、「老」(図では朱の部分)の意をもととした形成文字で、「長いき」・「久しい」というように存在の長さを喜ぶ文字です。如来のいのちを表わす時は主にこちらの文字を使います。
 例えば、梵語の「アミターユス(阿弥陀仏)」は「無量寿仏」と漢訳し、「無量寿仏は寿命長久にして称計すべからず」とあるように、如来や菩薩のいのちは「寿」とか「寿量」で表わします。つまり「人類の歴史を貫き通すいのち」とか、「先祖代々受け継がれてゆく血となり肉と報いた尊いいのち」という意味のいのちが「寿」なのです。

 このように、「いのちある存在」や「いのちある状態」をどのように見るか、という問いを、仏法と経験に聞き重ねていって、その中で漢字を選択するのですから、仏教書でも「命」の文字を単独で使用してしかるべき箇所もあるはずですが、その場合の使用は一般の書に比べると限定された用法になるのかも知れません。
 特に現代社会は、脳死問題やクローン技術研究が問題とされ、「いのちとは何か」という問題についても、きちんと論じざるを得ない状況になってきました。以前は仏教書でも一般使用されている漢字を便宜的に用いてきましたが、今後はいよいよ峻別を図らねばならない時代になってきたといえるでしょう。

 具体的に言いますと、「いのちは本当に尊いのか」という問いが発せられることがあります。例えば「いのちは利己主義的なDNAの乗り物に過ぎない」とする考えもあり、また「神の使命によって与えられたもの」という考えも依然あります。仏教においても、「煩悩具足の凡夫」という言い方もありますし、個人的には「とにかく死にたくはない」という気持ちもあるでしょう。

 しかし、如来の本意は「一切衆生悉有仏性」であり、いのちの尊さを最大に見開かれた方こそ釈尊をはじめとする仏がたでありましょう。私たちは如来の智慧によって見抜かれた仏性のありさまを聞いて信じる(聞見)、もしくは自他の仏性に目覚める(眼見)。これによって、一切衆生のいのちの尊さに目覚め、社会に浄土の徳を展開する最前線に立つことができるのです。ですから、いのちが尊いかどうかを、何かによって定義したり比較論証するのではなく、存在そのものの尊さを見抜く眼を持つことが如来のお勧めなのです。
(参照:{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか? }

 この阿弥陀如来によって真に見抜かれた「尊いいのち」ですが、漢字としてこれに最も相応しいのが「寿命」でありましょう。「寿」は「無量寿」であり「阿弥陀」で、「命」は「帰命」であり「南無」で、寿と命が一体となって「南無阿弥陀仏」となります。ですから本当は、「寿命」と書いて「いのち」と読みたいところですが、やはりこれは「じゅみょう」と読み、「寿」は一字では「ことぶき」になってしまいます。先の「生」も「うまれ」に軸足がありますし、「生寿」という熟語もありません。また「生死」と上下に合わせて書いて「いのち」と読ませよう、という意見もあるようですが、荘厳のはたらき(創造性)は表せませんし、一般の支持を得るほどの動きではありません。

 こうなるとやはり、<「いのち」は「いのち」の表示が一番落ち着く>という感覚も肯けるのではないでしょうか。もちろん、<使用範囲が広くて便利だ>という安易な感覚で使用するのは問題ですが、漢字の選定を厳密にした上で和言葉を用いるのは有意義なことではないでしょうか。今後当サイトでも、そのように心がけていこうと思います。


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 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
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