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「阿弥陀仏」は誰か

人類普遍の願いに報いた身

【十界モニター】

結局「阿弥陀如来」って誰でしょう。「浄土」はどこにあるのでしょう。


 浄土の教えは歴史的にアジア各地に多大な影響を与え、日本でも浄土宗や浄土真宗各派の大教団を複数生み、今も多くの信徒・僧侶が様々に教えを説かれてみえます。また宗旨宗派を超えて念仏の功徳はほめ称えられています。
 それはそれぞれが自らの体験をふまえ、法を中心とした素晴らしいお話と感動できるものであるのですが、結局「阿弥陀如来とは何か」、「浄土とはどこか」、という肝心かなめのところが明らかになっていないと、どれだけ話を聞いてももやもやとした不信感が晴れてきません。
 そこで以下、「本願」と「本願成就」の関係を示す中で、「阿弥陀仏」と「浄土」が神話的な迷信でなく、確かな世界なんだということについてお話しようと思います。
 ただし、仏の真意は「はかり難い」ものですから、以下の話は参考・踏み台として、皆様は自身の領解を深めていって下さい。

 阿弥陀仏の本願

 まず、「阿弥陀仏」と名のられた仏は、その本体は「いのちの本来的なはたらきを発揮する」という「いのちの悲願」が根源の力であり、これを『仏説無量寿経』の「四十八願」で顕しています。これは本来的なものですから「必ず成就しなければならない願い」なのですが、同時に「絶対に完全には成就できない願い」でもあります。

 人間は人間であるゆえに「真の人間でありたい」と願うものです。しかし同時に、この願いは完全に成就し切れるものではありません。本来の願いであるため退学できず、願いの内容からいけば卒業もできません。この願いよって、如来としての「いのち」が現実に無限に展開され得るのです。そしてその出発点ともいえるのが「一切衆生悉有仏性」の見抜きであり、見抜き見抜かれた仏どうしの想念が念仏であり、念仏あるところ全てが浄土となります。

 何か雲をつかむような話になってしまいますので、もう少し具体的な例を用いてから話を進めてみましょう。

 例えば、「核兵器廃絶は被爆者の悲願です」と、聞かれたことがあるでしょう。
 現場を体験した人々の願いは「絶対にこのような悲劇は繰り返してはならない」ということに尽きるのではないでしょうか。しかし悲痛な叫びを自分の身で感じようとしない人にとっては、他人事でしかありません。それでも「聞いてください」と、叫び続けてくださるのは、「現場の悲劇を何とか伝えよう」「このような悲劇を招く核兵器は廃絶して下さい」と何度も叫びながら無視され続けてきたいのちの声そのものです。そこには「いつか分かってくれる」、「話を聞いてくれさえすれば必ず分かってもらえる」という信頼の心があるからこそ、訴えを続けてみえるのでしょう。ここには、既に亡くなられた方々の声も同時にはっきりと聞くことができるはずです。私たちも心を開いて耳を澄ませば聞こえてくるはずです。

 さて、被爆者の願いは、核兵器が全て廃絶されれば達成されるのでしょうか。戦争は今も各地で行なわれ、多くの尊いいのちを殺傷し、大量の難民を生み出しています。すると、そのような「戦争そのものを無くしたい」と願うのは、戦争の悲惨さを知る人々全ての願いであるはずです。しかし「殺されたら殺し返せ」と、さらに戦争を激化させていく人々もまた多くいます。

 また、戦争だけではありません、平和なはずの日本でも、差別や他人のいのちをないがしろにする風潮が広がり、いじめがさらなる憎しみを生み、恩を平然と仇で返したり、組織を守るため平気で嘘をつき顧客をだます。時として親子の間で殺人が行なわれたりします。そしてそこでは被害者も加害者も共に傷つき、誰もが孤独に嘆かざるを得ない現実の悲痛な声が生れてきます。

 また時には、楽しいことが沢山あって、友達との遊びやイベントに興じる事もあるでしょうが、楽しければ楽しい程、それが終わりを迎えるときは激しい虚無感に襲われるものです。朝昼は日の光を一杯に浴び、友や同僚と気合を入れて勉学や仕事に励み、高揚感に酔えますが、友と別れ、夕日の中でただ一人たたずむ時、組織を離れたらこの自分というものは一体何なのか。一時の幸福に酔っていただけで、結局、私の事を本当に理解している者は誰もいないのではないのか。「祭りの後の寂しさ」という言い方がありますが、まして人生そのものの終了が間近に迫った時の虚しさは言い尽くせないものがあるでしょう。

 皆、国や会社など組織に中でしか生きられないのに、そうした集合体に無視されたり拒絶されたり、距離を置かざるを得ない立場や、攻撃を受ける立場になることもあります。その上、この世界そのものも私を拒み、私を死に追いやるではないか、と悩むのです。孤独を愛するといっても、それは孤独の厳しさを知る裏返しの感情です。

 ところが、そうした私の中のうめき声・叫び声は、つぶさに聞くと、はるかな過去からも聞こえてきます。また、私の周りからも、日本中、世界中からも聞こえてきます。一人孤独な自分に気付いたために、逆に一切衆生に宿る「悲願」が聞こえてくるのです。「本当はこんな虚しい生き方をする私ではなかったはずだ」との声は、悲歎ではありますが、「悲歎する心こそが尊い本来の自分である」という歓喜の声でもあります。

 こうした声をつぶさに聞くところから、個人を超えたいのちそのものに宿る慈悲が芽生えてゆきます。そしてその叫び声を暴発させるのではなく、あらゆる方法を駆使して人々を救い摂ろうと、尽きることのない熱意で智慧を発揮させてゆく――如来の本願力は、そうしたいのちの本来的な創造力が人々を突き動かしてゆくはたらきなのです。

 このはたらきを阿弥陀如来の智慧と徳として開いて味わうことで私たちにも明らかに知ることができ、それをさらに母性と父性として味わうため、阿弥陀如来脇侍の二菩薩(観世音菩薩・大勢至菩薩)を置き、それぞれの名前にも願いを込められています。つまり、「観世音」とは、世の音(いのちの声)を観ずる(つぶさに聞く)菩薩であり、「大勢至」とは、大いなる勢い(熱意)が至るのですから、尽きることのない熱意のかたまりである菩薩、ということです。これは「慈悲と智慧」という言い方もできますし、「母性と父性」という表現もできるでしょう。

 こうした本来的ないのちの発揮が、阿弥陀如来の本願としてさらに四十八願に開かれ、実際に人々を救うビジョンが示されていきます。私たちはこの願いを聞くことで、私たちにはるか昔から呼びかけはたらき続けられている「いのちの声」を目の当たりにすることができ、さらにその声を常にないがしろにしてきた私自身の生き様を現実に見ることができるのです。信心の眼で観れば、目の前の現実は娑婆・堪忍土でありながら、同時に浄土そのものなのです。あらゆる業が私たちを苦しめる原因なのですが、同時に真心のこもった仏のはたらき場そのものでもあるのです。
 釈尊も、この世は苦の多い場所でありながら、「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」と述べられています。この世に存在するもの全ては矛盾的な在り方をしているのです。

 こうした心について親鸞聖人は――

仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈

【意訳】(現代語版/本願寺より)
如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、
全ての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。
 そこで阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。
 如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。
 如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。

 この至心は如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体(本質・本体)とするのである。

と、述べられています。

 覚りに至る道だけでなく、無明・煩悩をおこすにも法則があり、その法則をつぶさに観察していけば、私たちは現実の無明を破壊する法則・光明が見えてきます。そのためには偽らず正直に自分を見つめ、本当の生き方を求める心「菩提心」が必要で、その心の第一の段階を「至心」とか「直心」と言います。
 しかし、無明・我執の中に浸りつづけている衆生には、無明を無明と見抜けず、我執を我執と覚りえません。ですから、一切の無明・我執の底深さを照らす如来の願力を知る必要があるのです。

 本願成就の浄土から

 さて、先に阿弥陀如来の本願と書きましたが、この願いをおこされたのは阿弥陀如来が法蔵菩薩と名のられ、全てのいのちの済度(成仏)を目指された時のもので、「完全に成就しなければ私は如来にならない」という誓いも同時に立てられているのです。今現在の世界は、とてもその願いが成就しているとは申せません。ならば法蔵菩薩はまだ如来になってみえないのでしょうか。
 実は経典には驚くべきことが記されています。

仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 十劫成道

【意訳】(浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語版より)

 釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という」
 阿難がさらにお尋ねした。
「その仏がさとりを開かれてからどれくらいの時が経っているのでしょうか」
 釈尊が仰せになる。
「さとりを開かれてから、おほよそ十劫が経っている。・・・」

「劫」というのは永遠に近いほどの長時間で、「劫」は満数ですから、はるか昔から既に浄土は成就した、ということになっています。どう見ても成就していない現実世界と、成就している浄土。これは一体どういうことなのでしょう。
 これについては、曇鸞大師は以下のように述べられています。

無上菩提心とは、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなわち度衆生心なり。度衆生心とは、すなわち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。
(中略)
「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみずから成仏す。たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもってのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いわく一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなわちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

『往生論注』 巻下・解義分・善巧摂化章・菩提心釈

【意訳】(聖典意訳 七祖聖教 上 より)
 無上の大信心は自分が仏になろうと願う心であり、この自分が仏になろうと願う心は、そのまま衆生を済度しようとする心である。衆生を済度しようとする心とは、衆生を摂めて仏のまします浄土に生れさせる心である。こういうわけであるから、かの安楽浄土の往生を願う人は、からなす無上菩提心すなわち信心をおこさねばならぬ。
(中略)
「巧方便」というのは、菩薩が自分の智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。たとえば木の火ばしをもって、草木を焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便と名づける。  いまここに方便というのは、すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。それはかの仏国はすなわち、ついに仏になるところの道であり、最もすぐれた方法だからである。

と、あります

「自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏する」ということですから、理性だけでとらえ得る世界ではありません。普通は原因があって結果が現れるのですが、原因の中に既に結果が現れ出されてくるという訳です。浄土は「はるか先の理想世界」ととらえていたら、はるか過去に成就していたのです。成仏の原因である信心に、すでに結果が内包されている。これは「未完成の完成」ともいいます。また、「願いの中に成就がある」という言い方もできるでしょう。

 このあたり、釈尊の「仏道の完成」の経緯にも現れていて、釈尊の教説を聞き、皆が修行に励んでいる様子を、弟子が「このような皆の熱心な修行の有様は既に仏道として半分位は完成しているのではないでしょうか」と質問しますと、釈尊は「それは間違いだ。半分ではない、これこそは仏道の完成・全てである」と答えられたといいます。未完成のまま完成している。つまり「完成した」と歩みを停めることが完成なのではなく、いのちの方向性が定まり、完成に向かって歩むことが重要なのであり、その実際の歩みこそ願いが完成した姿なのでしょう。願いが完成すれば、後は現実も自然に成就に向って歩むことになるのですが、どこまでいっても現実の成就は叶いません。それで良いのです。「叶った」と言った時点で願いは抜けがらになってしまいます。実現しようと不断の願いがかけられて勤めることが全てなのです。

 阿弥陀如来の願いは「過去のある時点で完成した」という常識の時間上にはありません。「どれほどはるか過去の、どの時点をとっても、それ以前からの呼びかけがある」という意味で阿弥陀如来は「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり」と顕され、どれほどはるか未来の、どの時点をとっても、浄土は私の行き先を示す、という意味で「いますでに成仏して、現に西方にまします」と示されるのです。

 大木の種は小さいけれど、すでに大木の根や幹や葉の一切が宿っています。
 私のこの身心は情けないほど「仏の性根なし」でありますが、この悲しみの中に仏の一切が宿っています。悲願はこの血この肉の身全てに入り満ちているのです。

 「第十八願」の様々な領解

 そうした不可思議な浄土を生んだ願いとは実際にどのようなものでしょうか。

 阿弥陀如来の願いは『仏説無量寿経』に詳しく記されていますが、その四十八願を述べる中の「第十八願」が往相回向・真実信心の要めであり、この願以後は真実信心の展開(還相回向)を顕しています。

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 四十八願(18)

【意訳】(浄土三部経 現代語版/本願寺より)
 わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

 ここでの訳は「心から信じて、わたしの国に生れたいと願い」となっていますが、原文にあります「至心」「信楽」「欲生」というい三心については、親鸞聖人が一語一語に詳細な解釈を述べてみえます。また「乃至十念せん」の訳は「わずか十回でも念仏して」となっていますが、「信心の一生の相続」という解釈の方が他の願とのつながりが明確ですし、現実の問題として考えれば説得力があります。
また「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」ということに関しても、様々な解釈があります。

 この阿弥陀如来の第十八願については、信心の要でありますから、近代から現代においても多くの人が様々な解釈・領解を述べてみえます。少し紹介させていただきますと――

 決して、如来は、何をしでかそうが、「よしよし」と許して救ってくださるのではないのです。許せないようなことばかりするものをほっておけないと、救いの手をさしのべてくださるのです。
 許して救うのではなく、許せないから、救わずにはおれないというところに、如来の変ることのない真実があります。
<中略>
 長年、阿弥陀如来の本願の真実を聞いても、この「自分」だけは信用できるという思いから抜け出すことは容易ではありません。ですから、阿弥陀如来の本願を聞きながら、いざとなると「自分が」という思いが頭をもたげてきます。そこに、どうしても阿弥陀如来の本願一つにまかすという「一心」になれず、本願をたよりにするが、自分もたよりにせずにはいられないという「二心」になってしまうのです。
 この最後まで残る「自分が」という思いが「自力の執心」なのです。本願を聞く求道者にとって、最後にして最大の難関がこの「自力の執心」であります。
<中略>
「深く信じて」とは、「信じた方が得だから信じる」・「よくわからないが信じた方が楽だから信じる」というようなうわついた「浅い信」ではないのです。どこまでいっても、「自分が」と自らをふりまわさずにはおれない私たちのことを見抜いた上で、「私にまかせよ」といってくださる阿弥陀如来の本願に、唯、専ら、まかす以外にないと決した相であります。
 それは疑えといっても疑いようのなくなったよろこびなのです。このような相・よろこびを「信楽」というのです。

『人となれ佛となれ』(3巻)/藤田徹文

 至心は真実心に違いありませんが、まだその内に不純なものをはらんでいて、その在り方は理想主義から抜けきれません。・・・・・ それは生き方に無理があるからです。仏教ではこれを自力というのです。しかし至心そのものは矛盾をはらんでいて不純ですが、この心は仏性の開発に重要な役割を持っているのです。そこでこの至心のことを引出仏性と呼んでいるのです。
<中略>
 理性は理想主義で前へ行こうと伸び上がるだけで、理性の足もとに我執が巣くうていることに気がつかないからです。
<中略>
 至心は自己の真実の在り方を求める心ですが、まだ即自的で、自己が何ものか、自己の置かれている場所が自覚されていません。それが信楽になりますと、自己が場所的に自覚されて、わしは人間である。先祖によって産み出され、先祖の歴史を背負い、人間として深い願いを血の中に宿している自分であると、自己が置かれている歴史的世界が見えてきます。また欲生心はさらに、全人類がそこに置かれている運命共同体としての世界が、自己の内に自覚され、世界が自己を呼びさますという形で、菩提心が働いてくるのです。
<中略>
 至心から信楽への脱皮は「二河白道のたとえ」にあるように、自己の内にあって、自己を裏切る煩悩とか、あるいは性格とかが問題となっています。自己が問題となって、自己の内にある自己に背くものが、脱皮の媒介となります。また信楽から欲生へは、また改めて客観的な相手とか環境社会が媒介となってです。・・・・・ 信楽の場合は、自己がそこに置かれている場所としてですから、どうしても自己を超え、社会を超えた立場、つまり浄土が生れてこなければ救われぬ道理です。・・・・・ もちろん努力せずに自然にそうなるのではないですよ。努力せねばなりませんが、努力したことによって直接進化するのでなく、それが縁となって、内から新しい心が生まれてくるのです。
<中略>
 この第十八願は、魂の地下水として、全人類を根底から動かしている如来選択の願心を自証するということ・・・・・ その成立根拠となっている歴史的現実をさとったということ
<中略>
 至心信楽欲生の菩提心が発こった人が、自己の中に自己を裏切り、自己に背く心を見出だした。それが逆謗闡提と現わされたのではないかと思います。…… 親からかけられている願いを踏みつけ、法を聞こうともしない、性根なし、それが親を殺し、法を謗って姿ではないですか。親鸞聖人は自己自身に対して「難治の三病、難化の三機」と泣かれたのでしょう。

『仏教開眼 四十八願』/島田幸昭

 真実誠満の心とは、当来の世に仏果を生みだす種子となる親さまのおまこと心。仏智のありだけが、私の心の中に入り満ちて下されたのが信心だというほどの意であります。
<中略>
 其の名号仏智が満入と私の心に入り満ちてをくれた時に、初めて信楽の心が出来ることを知らせられるお意で、信楽の心相、即ち信じぶりを表わされる句ではありません。・・・・・ 疑心自力の心がきれいになくなって、法体願力に一任した疑蓋無雑の心を以って、信楽の心相とするのであります。
<中略>
 親さまのお慈悲を聴聞している間に、なるほどと親さまのおまことが私の心に読めて取れた味わいが信心だとの意味であります。
<中略>
 世間でも信用出来ない銀行へは唯の一円のお金も預金するものはありませんが、あの銀行なら大丈夫と信用すればこそ財産の凡べてを預ける如く・・・・・ すべてを親さまにまかせてしまったのが、信心であります。・・・・・ 邪見とは仏法の正しい教えに背いて、因果はないものと思い、驕慢とは自分を善しと思い、他人を侮り見下げる心であります。こんな人は、自分を完全に仕上げて行こうとする理想、即ち菩提心もなく、仏法の教えを聞こうとする努力心もありませんから、底の知れない深さと、淵しなき広さを有ちませる如来の智慧を信受することは、到底不可能なことであります。

『第十七願と十八願の話』/冷泉勝英

 それでこの本願の文は、卒爾にこれを見れば、いかにも衆生の心において至心信楽欲生の心をおこすべきものであって、そこには如来の至心信楽欲生というような意味がないように思われます。しかるに親鸞聖人では、この至心信楽欲生をもって如来の三心とされました。・・・・・ 至心をもって如来の真実心となし、信楽をもって如来の大悲心となし、欲生をもって如来の回向心とされてあります。・・・・・ 如来ご自身の真実大悲回向の心を表現されるのであります。
<中略>
 御身において光寿無量である如来は、十方衆生を見い出された。それは大悲の御胸において永遠に捨離することのできないものである。したがっていかようにもしてその衆生を救済しようということが、如来の願いとなったのであります。・・・・・ その衆生に対してのお言葉は、衆生に要求するという形で御自身の真実心を現わしておられるのであります。
<中略>
 この十八願には、何ら特別のものがないということであります。・・・・・ それはまことに衆生界一般に対しての願いであります。・・・・・ その真実報土とはすなわち光寿無量の世界であります。如来の悲願成就の世界であります。この世界は恢廓広大にして何人をも拒まない境地であります。・・・・・ この第十八願には何ら特殊の心行が要求されていないということが、もっておの心行ともに如来回向のものであるということを直感せしめるものでなければなりません。
<中略>
 もしこの抑止の文(ただ五逆と誹謗正法とをば除く)がなければ、われわれはともすれば、自分は如来の本願によって、浄土に往生する資格のある者と思うことでありましょう。・・・・・ そうすればその三心十念というのは、自然、凡夫自力の発起するものと思われることとなるのであります。これに反して真に自身の力をもって往生する資格のないことを知る者の胸には、三心十念の御言は、ただ切実なる大悲の声として響きくるのみであります。

『四十八願講義』/金子大榮

 浄土は身近な朋(とも)

 先の本願成就の問題について話をまとめさせていただきます。

 最初に「いのちの本来的なはたらきを発揮する」とか「いのちの悲願」という言い方をしましたが、人間個人を超えたはたらきも、現実の人間個人個人に満ちてゆかなければ、それは夢物語でしかなく、空想・作り話・神話でしかありません。
 つまり、どれほど正直に心を開き感情や理性に訴えても、皆が納得しあこがれるような理想社会を提示しても、理想は理想、それを根本から脅かすものの正体を明らかにしていかなければ、現実にはたらくことはできません。

 暴力を好み、戦争を好み、核兵器を使用したがる者の正体。それは理想を追求しようとする余り、理想に執着してしまう私自身の姿ではないでしょうか。それは理想を自慢し、理想に背く者をさげすみ、その苦悩を黙殺し、果ては自分自身まで破滅に追い込んでしまう心です。
 真実心が生じたと思っていたのに、その底にそれを裏切る心も一緒に生じてしまっていた。真実に出会いながら真実が徹底しない。無理に徹底しようとして固定化し真実を偽物にしてしまう。こうした外界との縁に性根の据わっていない私の姿こそ悲しく、また歴史的に見ても人類の作り出す理想は次々人類を裏切ってきました。そこにいのちの存在そのものの絶望を見ることになるのですが、実はその絶望の中から、慚愧、懺悔の心を通して、もっと深い心をみることになるのです。

 現実の絶望を通して、またそのはるか浄土の絶望的な距離を想う時、力みで一杯だった理想が崩されるのですが、その理想を崩すはたらきの中にこそ、新たに歴史現実の場から照らされ、育てられる本当の真実心・菩提心が生じてきます。

 浄土は、現実の理想が崩されても崩されても、新たな方向性を見出させるように仕向け、そこに決して壊れることのない金剛の心を打ち建ててまいります。その本当に信のおける世界に心を打ち立てるとき、浄土は既にはるか彼方の夢物語ではなく、如来の頼もしき声が聞こえる身近な朋(とも)となっているのです。何度も転びながら、仏地に根を張って、自らと相手と社会を浄じていく浄土のはたらきに乗じて歩みを進めることが、念仏の行者の勤めでありましょう。
 浄土の歴史は、過去一切の衆生において展開した仏性の歴史であり、現実の浄土のはたらき場は、今・この場・この立場の自分自身に他なりません。


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