還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第三集 4

諸仏浄土因を覩見する

【浄土真宗の教え】

 諸仏浄土因を覩見する

 無量寿経には「世自在王如来が法蔵菩薩の志願が実に尊く、深く広大なるをうけとめられ、法蔵菩薩のためにひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と国土の優劣を説き示され、目の当たりにお示しになった」と説かれている。

 経典に出てくる数字は現代人の感覚で受け止めると間違いをきたすところがある。 不可称・不可説・不可思議の世界である。しかしわたしは、この《二百十億》という数について、「思議を超える数字というより、境界を認識できる数だな…・・」という思いがあった。漢訳した人・時代(たとえば曹魏の康僧鎧)における数字の感覚がわからないからである。しかし梵文和訳を読んだとき、その疑問というか、いまひとつ分りにくかったところが氷解したように思えた。

「…・・そのときに、アーナンダよ、かの敬わるべき人・正しく目覚めた人ローケーシヴァラ・ラージャ如来は、かの修行僧の意向を知り、(世の人々の)利益を願い、利益をもとめ、あわれみの心ある如来であるから、あわれみの心によって、仏のみちすじが絶えないように生けるものどもに対する大悲の心を生じて、億年に満つるあいだ、百壱千億・百万の八十一倍もある仏たちの仏国土のみごとな特徴や装飾や配置の完全なすがたについて、はっきりかたちを示したり、略して説明したりしながら説き示されたのである。」
 傍線部、原語では《八十一百千倶胝尼由他》(倶胝[コーティ]=千万または億または京とされ、那由他[なゆた]・尼由他[にゆた]は百万とも千億ともいう)となっており、その時代折々の理解で訳本の表現が異なっている。しかしその真意は涯[はて]のない全宇宙を網羅し表現するものなのである。今はそのように思っている。

 無量寿経には、「即為広説 二百一十億 諸仏刹土 天人之善悪 国土之麁妙[そみょう]応其志願 悉現与之」(現代語訳ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべて目のあたりにお見せになったのである。)とあり、世自在王如来が法蔵菩薩にあらゆる仏国土を目の当たりにお示しになったことを説いている。

 そして法蔵菩薩は「かの修行僧は、それよりもさらに広大であり、さらに絶妙であり、無量である仏国土のすがたをとりいれて具現すべく、かの如来のましますところに近づき、世尊の両足を頭にいただいて、敬礼して右繞して如来の前から退いた。」(岩波文庫浄土三部経上巻三二頁)

「それからさらに五劫の間、十方における一切の世間にかってあらわれたことのない、さらに広大であり、さらに絶妙である仏国土の見事な特徴や装飾や配置の完成をおさめとった。そしてこういった…・・《尊いお方さま。私は仏国土のみごとな特徴や装飾や配置の完全なすがたを、わが国土に(具現するために)とり入れました》」(岩波文庫浄土三部経上巻三二頁)と梵文には記されている。
「具足五劫 思惟摂取 荘厳仏国 清浄之行…・」(無量寿経)
「五劫思惟之攝受…・・」(正信偈)

 法蔵菩薩は世自在王仏如来の教えをうけて、示された仏国土をさらにグレードアップした仏国土を実現すべく五劫もの永きにわたり思惟を重ね、その国土を荘厳する清浄行を攝取されたのである。
 それゆえに世自在王仏は「如今可説」(いまこそ説くべし)と比丘法蔵をはげまされ、ここに法蔵菩薩の四十八の誓願が説き出だされたのである。
 このように法蔵菩薩は誓願を説かれ、さらに重ねて誓の偈頌を説かれた。

 無量寿経には「爾時 法蔵比丘 説此願巳 而説頌曰」とあるが、梵文には「かの修行僧ダルマカーラはこのような特別の願を説き終わって、そのときに仏の威力によって次の詩句を説いた。」とある。それが「重誓偈」である。
 「我建超世願 ……我至成仏道 名声超十方…・・」
 正信偈では「重誓名声聞十方」とある。《わが名を十方に聞こえしめん》その名とは仏名、すなはち《南無阿弥陀仏》なのである。

 第十七願諸仏称名の願において「もしわれ仏をえたらんに、十方無量の諸仏ことごとく咨嗟してわが名を称せずば正覚をとらじ」と誓われ、また、すでにその願は成就している。
 このように、法蔵菩薩ははかりしれない長い年月をかけて修行にはげみ菩薩の功徳を積み、またその功徳と智慧のもとに修行をし、多くの人々に功徳を施し、六波羅密を修行し、人々にも修行をさせるなど自利・利他の行を完成された。

 ここに法蔵菩薩は四十八の誓願をみごとに完成成就され十万億の国々を過ぎたところに安楽国土を建立し、無量寿仏となって今現に西方においでになる。無量寿仏はさとりを開かれてすでに十劫をすぎている。…と大経には説かれている。

註「五劫思惟」について

*五劫―― 一劫の五倍、非常に長い時間をいう。浄土教では、法蔵菩薩が発願して衆生救済と浄土建設のために長年月を要した修行を「五劫思惟」と呼ぶ。五劫の語は「呉訳」と「漢訳」にだけない。五劫の年月をかけた思惟とは、最もすぐれた諸条件を具備した浄土の建設とそれの方法をえらびとることであり、そのために法蔵菩薩は「一の静処に往きて独坐し、功徳を修習し、仏刹を荘厳せんことを思惟して、大誓願を発し」(「宋訳」)たのである。「唐訳」は「思惟し修習せり」とする。従って、五劫の思惟とは独坐の思惟(宴坐ともいう)を内容とする。これは、原始仏教いらいブツダをはじめ仏弟子たちが修した基本的瞑想法である。真宗では五劫を発願に至るまでの思惟とみ、修行とはみない。
(岩波文庫浄土三部経上巻三〇一頁漢文書き下し註より抜粋)

(※編集註:「二百一十億」と「五劫」については『仏説無量寿経』6b 参照のこと)

[←back] [next→]
[釈勝榮/門徒推進委員]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)