還浄された御門徒様の学び跡 |
*凡夫の道は、どのように努めても、結局はさとりに至ることは出来ない。いつまでも迷いの世界をさまようから、これを凡夫の道というのである。
*初地の位にはいると、地獄や餓鬼、畜生の世界におもむく門戸をかたく閉じて、その法を獲得し、堅固な法に安住し心が動転することなく、ついには涅槃に至ることが出来る。そしてたとへ怠りなまけることがあっても二十九回も迷いの生を繰り返すことはない。
註*傍線部 (二十九回も…・・)
(人間界に七生、天上界に七生、それぞれの生の終わりから次の生までの中有の十四生の合計二十八生を終えると、さらに二十九回目の生を繰り返さずに完全な涅槃にはいるとされている。
二十九という数字は、なにか宿世の因縁を感ずるような気がしてならない。
お釈迦さまは二十九歳の折、感ずるところがあって俗世界とのつながりを断って出家され修行の道に入られた。
親鸞聖人は九歳のとき比叡の山に入り出家、修行をされたが、二十九才のとき比叡山を下り、「隠遁の志にひかれて、源空聖人の吉水の禅房をたずねまいりたまいき」と御伝鈔にはしるされている。ともに新しい出発の二十九歳である。これを二十九回目の生とみれば、過去の二十八生を到達点とせず新たな生を得るために何があるかわからぬが、新たな生を目指されたことであろうか。
そして、釈尊は仏陀となられ、親鸞聖人は「雑行を捨て本願に」帰命され、その生涯をかけて念仏の道を問いつづけられることになった。この第二十九生は去來現の仏が仏と仏の互いに念じあわれた生とおもわれてならない。)
十住毘婆沙論 易行品*問う。初地の菩薩は法に歓喜するのであるが、どのような法を得て歓喜するのであろうか。 答えていう。常に仏がたを念じ、仏がたの大いなる法を念ずることは、必定の位に入る稀有な行である。
* 仏がたを念じるとは、燃灯仏などの過去の仏がた、阿弥陀仏などの現在の仏がた、また弥勒などの将来の仏がたを念じることである。常にこのような過去現在未来の仏がたを念ずれば、現に行者の前におられるようにおまもりくださる。それゆえ歓喜が多い。
*必定の心とは、深く仏法を体得して、何ものにも動揺しない堅固な信心のことである。
(傍線部は正信偈に《顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽》と示されている)* 仏法には計り知れない多くの教えがある。
たとえば、世の中の道には、難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩んで行くのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。
* 偈に説かれているように
東方善徳仏 南栴檀徳仏 西無量明仏 北方相徳仏 東南無憂徳仏
西南宝施仏 西北華徳仏 東北三行仏 下方明徳仏 上方広衆徳仏
これらの諸々の仏・世尊・は今現在 十方におられる。
もし人が速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、あつく敬う心を持って仏の名号を信じ称えるがよい。
と龍樹菩薩は十方十仏の称名をすすめられ、さらに「宝月童子所聞経」を引いて十仏のおいわれを説いておられる。
*易行品ではつづいて、《この十方諸仏のみ名を称すべし》と、偈に説かれているが、偈頌の最後に、十方十仏に加えて、
「過去無数劫に、仏ましまして海徳と号す この諸々の現在の仏、みなかれに従いて願を発せり 寿命量りあることなし 光明照らして極まりなし 国土はなはだ清浄なり 御名を聞けばさだめて仏になる 今現に十方にましまして 十方を具足し成したまう このゆえに人天のなかの最尊を稽首したてまつる」
とあり、十仏を統一する存在として挙げられているが、その仏さまのお姿やはたらきはあたかも阿弥陀如来そのものである。
* 龍樹菩薩は、「十仏の名号を聞き、執持し心に置けば不退転の位に至るが、十仏以外の仏・菩薩はおられないのだろうか」との設問を置いて、これに次のように答えられている。
と百七の仏・如来のみ名を挙げられ、「阿弥陀等の仏及び諸々の大菩薩、御名を称し一心に念ずれば、また不退転を得。また阿弥陀等の諸仏ましまして、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。 いままさにつぶさに説くべし。無量寿仏、世自在王仏、………中略…… …・・宝相仏」
「この諸々の仏・世尊現に十方の清浄世界にまします。みな名(みな)を称し憶念すべし」と憶念称名を勧められている。
さらに、特に阿弥陀仏の本願を別出され、偈をもって阿弥陀仏を称えられ、阿弥陀仏を念じよと勧められている。
*すなはち、阿弥陀仏の本願には、《もし人が、私の名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位にはいり、この上ないさとりを得ることが出来る》と誓われている。だから常に阿弥陀仏を念ずるがよい。
*註 傍線部
原文 「若人念我称名 自帰即入必定 得阿耨多羅三藐三菩提 是故応憶念以偈称讃」
読み下し文「若し人我を念じ 名を称して 自ら帰すれば すなはち必定に入りて 阿耨多羅三藐三菩提を得 この故に常に憶念すべし 偈をもって称讃す」
意訳「若し人が、わたしの名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位に入り、この上ないさとりを得ることができる」
このように龍樹菩薩は易行品で十方諸仏をはじめ多くの仏・大菩薩の御名を称し、恭敬礼拝を勧められている。
親鸞聖人は先に挙げた諸仏・諸菩薩の憶念称名のくだりについて、阿弥陀一仏に百七仏・如来を統攝されつぎのように読みかえられた。
*教行信証 行文類
〈阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし〉と。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏 乃至その余の仏まします この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆゑにつねに憶念すべしと。
聖人は龍樹菩薩が易行品に説かれたのは「《諸仏・如来・大菩薩の憶念称名ではなく、阿弥陀仏を諸仏・如来・大菩薩がその御名をほめ称えられており、その阿弥陀仏のみな名を常に称名せよ》と勧めれた」のだと確信されたに違いない。
親鸞聖人は正信念仏偈 龍樹章で龍樹菩薩をつぎのように讃えられている。
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽 憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
現生正定聚 正定聚不退転をいただくことができるのは、ひとえに阿弥陀仏の本願力によるものである。
不退のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬の心に執持して
弥陀の名号称すべし
『高僧和讃』 龍樹讃6
(詳細:『十住毘婆沙論』と『往生論註』)
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