還浄された御門徒様の学び跡 |
* 無量寿経第十七願
「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨磋 称我名者 不取正覚」
現代語訳(わたしが仏になったとき、すべての世界の数限りない仏がたが、こ とごとく私の名号をほめ称えないようなら、わたしは決してさとりをひらかな い。)
岩波文庫版梵文和訳では、《無量諸仏》は《無量・無数の世尊・目ざめた人たち》とあり、《称我名者》は、《私の名を称えたり、ほめ讃えたりせず、称賛もせず、ほめことばを宣揚したり弘めたりもしないようであったら》とされていて、もっと《咨磋称我名者》の意が強く広く訳出されているように思う。無量にしても無数にしても、またいろいろな仏典に漢訳されている数の概念は、私たちの生活体験の中で矮小化して受け止めてしまう危険があるように思う。仏の世界は人間の思惟の限界を超えたところにあるのではないか。
*無量寿経 上 重誓偈
我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚
為衆開法蔵 広施功徳宝 常於大衆中 説法獅子吼
現代語訳(わたしが仏のさとりを得たとき、私の名号を広く世界にひびかせよう。もしきこえないところがあるなら誓って仏にはならない。
人々のためにすべての教えを説き明かし、広く功徳の宝をあたえよう。常に人々の中にあって獅子が吼えるように教えを説こう。)
* 無量寿経 下 第十七願成就文
十方恒沙 諸仏如来 皆共讃嘆 無量寿仏 威神功徳 不可思議
現代語訳(すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめ称えておいでになる。)
*無量寿経 下 往観偈 (偈前文)
無量寿仏 威神無極 十方世界 無量無辺 不可思議 諸仏如来 莫不称賛 於彼東方 …・爾時世尊 而説頌曰。 現代語訳(無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。
*無量寿経 下 往観偈
其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転
現代語訳(その仏の本願のはたらきにより、名号のいわれを聞いて往生を願うものは、残らず皆その国に往生し、自ずから不退転の位に至る)
*註* 梵文和訳では、この偈文にあたるものとして《わたしのこのみごとな誓願は成就した。生けるものどもは多くの世界から私のもとにやって来る。かれらは速やかに私のもとに来て、ここで、一生の間だけ〈ここにつながれているもの〉として、退かない者となる。》と訳されている。 ここで〈退かない者〉とは、〈もとの穢れた劣った状態には戻らない者〉の意味とのことであるし、また、〈一生の間だけここにつながれているもの〉 とは〈まだ解脱を得ていない者であって、まだ一つの生涯をここにつながれている〉とのことを意味している。極楽浄土で聖者に導かれて解脱に至る。したがって「浄土往生即涅槃」の意味は日本において発展された解釈といえるようである。
極楽浄土で聖者に導かれて解脱に至る。したがって「浄土往生即涅槃」の意味は日本において発展された解釈といえるようである。
という指摘は重要でしょう。ただしこれを「発展された解釈」と言えるかどうかは疑問です。
理由を言いますと、まず涅槃は{浄土理解の相違点}に書きましたように、本来は煩悩に勝った(煩悩が働かなくなった)という意味であり、浄土に往生(願往生)する目的は涅槃(の状態)を得るためではありません。あくまで菩薩自身の国を成就し、菩薩自身の成仏を目的として安楽浄土に集うのです。
往覲偈には、「その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのようにありたいと願う」と不退転の菩薩の願いを表し、それに対して阿弥陀仏は「菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに必ず仏になることができる」と言われます。
また、もし真如や空を悟ったとしても、その人は浄土の功徳を知ることはできません。これも往覲偈に――「たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない」とある通りです。阿弥陀仏の浄土は真如や空とは比較できない勝れた世界であり、長い歴史を背負い続けたはたらきなのです。いわば一切衆生の奥底に伏流している仏性の報いでできた社会の根本精神をいうのでしょう。
さらに言えば、「浄土に往生すればすぐに成仏できる」などとは、どの経典にも書かれていません。聞名見仏の願には、「この三昧に住して成仏に至るまで、つねに無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん」とあり、『仏説無量寿経』28(巻下 正宗分 衆生往生果)には「またかの菩薩、乃至、成仏まで悪趣に更らず」とあり、浄土往生は即成仏ではありません。浄土に願生すれば、無量寿仏はじめ諸仏を供養しつつ、自らの道を求めていかねばなりません。讃仏偈にある「固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む」という如来の初心が、私の初心と成ってはたらくのです。
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