還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第二集 6

逆謗救済

【浄土真宗の教え】
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 逆謗摂取釈【120】/『往生論註』巻上 総説分 八番問答 逆謗摂取【43】/『安楽集』巻上 第二大門 広施問答【22】/『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈【21】他より

 逆謗救済[ぎゃくほうきゅうさい]

親鸞聖人は、涅槃経を引いて逆謗の者の救われて行くすがた、環境条件をこのように説いておられる。しかし「唯除五逆 誹謗正法」とある誓願の除外文については、経文に直接的な救済文は記されていないようである。
このことについて、聖人は次のように説きおこされている。

*「往生論註」にいわれている。(七祖篇九四頁 『往生論註』巻上 八番問答 逆謗除取)

「問うていう。『無量寿経』には《浄土の往生を願うものは、みな往生することができる。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる》と説かれている。
『観無量寿経』には《五逆・十悪など多くの善くない行いをして来たものも往生できる》と説かれている。この二つの経の意をどのように解釈すべきであろうか」

「答えて言う。 『無量寿経』では、二種の重罪を両方ともそなえているから《除く》と説かれたのである。二種の重罪とは、一つには五逆の罪を犯すこと、二つには正しい法を謗ることである。この二種の罪があるから往生することができないのである。
『観無量寿経』では、ただ十悪・五逆の罪を犯すことをあげ、正しい法を謗ることはあげていない。正法を謗らないから往生することができるというのである」

「では、正しい法を謗るだけで、五逆の罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか」

「ただ正法を謗るだけで、ほかに罪は何一つなくても、決して浄土に往生することはできない。
なぜなら、無量寿経には《五逆の罪を犯したものは無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗ったものは、無間地獄におちて、一劫が尽きると、また続いて無間地獄におちる。このようにして次々と数多くの無間地獄をめぐるのである。》と説かれていて、仏はこの人がいつ無間地獄から出ることができるのか明かにされていない。それは正法を謗る罪がもっとも重いからである。
また正しい法というのは、すなはち仏法である。
この愚かなものは、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏様の浄土に往生を願うはずがあろうか。
たとえ浄土は安楽なところだから生まれたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである」

「正しい法を謗るとはどのようなことをいうのであろうか」

「仏もなく、仏の教えもなく、菩薩もなく、菩薩の教えもない(※原文「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」)というような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである」
「謗法は自分にだけかかわることである。他の人に対してどのような苦しみを与えることで、五逆の重罪より重い罪であるというのであろうか」

「もし世の中のことや仏法について、善い教えを説いて人々を導く仏や菩薩がたがおられなかったなら、どうして仁・義・礼・智・信という人の道があると知ることができようか。そうなると世の中のすべての善も断たれてしまい、仏道を歩むすべての尊い方々もいなくなってしまうであろう。あなたはただ、五逆の罪が重いと知っているだけで、五逆の罪は正法がないことからおこるということを知らないのである。このようなわけで正法を謗ることは罪がもっとも重いのである」

原文には謗法のものが無間地獄におちるくだりを次のように示している。

誹謗正法人 堕阿鼻大地獄中 此劫若尽復転他方阿鼻大地獄中 如是展転径百千阿鼻大地獄中 仏不記得出時節 正法者即是仏法 此愚癡人既生誹謗

無間地獄も阿鼻大地獄も同じで、《avici》の原語を漢訳または音写したものである。八大地獄の一つであるが、もっとも大地獄であり、他の地獄の苦しみの一千倍もの苦を受くとある。
如是展転径百千阿鼻大地獄中 仏不記得出時節の経言、まことに謗法のその罪の重さを示してあまりあるように思えることである。

観無量寿経に「五逆・十悪のものが、その命を終わろうとするとき、善知識に出会い《南無阿弥陀仏と称えよ》と教えられ、まことの心でたとえば十声念仏しつづけるなら浄土に往生する身に定まり、ただちに大乗の正定聚にはいって、もはやそのくらいから退くことはない」
と説かれている。
「この十声の念仏は、善知識がさまざまの手だてによって心を安らかにさせて、真実そのものの教えを聞かせることによって生じるのである。そしてその十声の念仏は、阿弥陀仏の真実の慈悲の心より成就した清らかな尊い名号によって生じたものである」

道綽大師『安楽集』巻上 第二大門 広施問答(七祖編二二九頁)には、
「また問いていわく、上にいうところのごとく、生は無生なりと知るは、正に上品生のものなるべし。もししからば下品生の人の十念に乗じて往生するは、あに実の生をとるにあらずや。
もし実の生ならばすなはち二疑に堕す。一にはおそらく往生を得ず。二にいわく、この相善(有相の善根)、無生のために因となることあたわず。
釈するに三番あり。一にはたとえ浄摩尼珠、此れを濁水に置けば、珠の威力を持って水すなはち澄清なるがごとし。若し人無量生死の罪悪ありといえども、もし阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて此れを濁心に投ずれば、念々のうちに罪滅し心浄くして即便往生す。云々」
とあります。

また天親菩薩は『浄土論』で仏の荘厳功徳成就を観ずる八種の方法をを説き、曇鸞大師は『往生論註』の中で「荘厳身業功徳成就・荘厳口業功徳成就・荘厳心業功徳成就」について次のように註釈しておられる。

「凡夫の衆生は身口意の三業に罪をつくるをもって三界に輪転し窮まりやむことがない。
このゆえに諸仏・菩薩は、身口意の三業を荘厳して、衆生のうそ、いつわりの三業を治して下さる。衆生は自己を実体視する間違った見解を持ち、そのためにさまざまな苦を受ける。
また衆生は驕慢の心を持ち、そのために正法を誹謗し、尊いすぐれた聖者を謗り尊ぶべき君・父・師や有徳の人を疎んじいやしめる罪を犯す。
だから無間の大地獄を転々と経巡る苦しみを受けるのである。
これらのもの達は阿弥陀如来の相好光明のおすがたを見、阿弥陀如来の至徳の名号、説法の音声を聞くことを得、阿弥陀如来の平等の光照に遇い、たちまち身の繋縛を解かれ平等の身業を得、分別の心を生じ平等の口業、平等の意業を得ることができる」
と。

教行信証 信文類(二一要旨)
「如来は、如来の成就されたこの至心、すなはち、まことの心を、煩悩にまみれた悪業やあやまったはからいしかないすべての衆生に施しあたえられた。この至心は如来の真実心をあらわし、だからそこに疑いのまじることはない。
この至心はこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである」
と、ご開山聖人は仰せになっている。

[釈勝榮/門徒推進委員]

 編集註

「身口意の三業」につきましては、上の記述のみでは理解しにくいと思いますので、両聖典の総説分と解義分のつながりを見ていただこうと思います。

無量大宝王の微妙の浄華台あり。
相好の光一尋にして、色像群生に超えたまへり。
如来の微妙の声、梵響十方に聞ゆ。
地・水・火・風・虚空に同じて分別なし。

天・人不動の衆、清浄の智海より生ず。
〔如来は〕須弥山王のごとく、勝妙にして過ぎたるものなし。
天・人・丈夫の衆、恭敬して繞りて瞻仰したてまつる。
仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。
よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。

『浄土論』総説分【四】


いかんが仏の荘厳功徳成就を観ずる。仏の荘厳功徳成就を観ずとは、八種の相あり、知るべし。なんらか八種。一には荘厳座功徳成就、二には荘厳身業功徳成就、三には荘厳口業功徳成就、四には荘厳心業功徳成就、五には荘厳大衆功徳成就、六には荘厳上首功徳成就、七には荘厳主功徳成就、八には荘厳不虚作住持功徳成就なり。
 なんとなれば荘厳座功徳成就とは、偈に「無量大宝王 微妙浄華台」といへるがゆゑなり。なんとなれば荘厳身業功徳成就とは、偈に「相好光一尋 色像超群生」といへるがゆゑなり。なんとなれば荘厳口業功徳成就とは、偈に「如来微妙声 梵響聞十方」といへるがゆゑなり。なんとなれば荘厳心業功徳成就とは、偈に「同地水火風 虚空無分別」といへるがゆゑなり。「無分別」とは分別の心なきがゆゑなり。なんとなれば荘厳大衆功徳成就とは、偈に「天人不動衆 清浄智海生」といへるがゆゑなり。なんとなれば荘厳上首功徳成就とは、偈に「如須弥山王 勝妙無過者」といへるがゆゑなり。なんとなれば荘厳主功徳成就とは、偈に「天人丈夫衆 恭敬繞瞻仰」といへるがゆゑなり。なんとなれば荘厳不虚作住持功徳成就とは、偈に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を証することを得て、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆゑなり。

『浄土論』解義分 観察体相【一三】


【三〇】  相好光一尋 色像超群生
 この二句は荘厳身業功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞかくのごとき身業を荘厳したまへる。ある仏身を見そなはすに、一丈の光明を受けたり。人の身光においてはなはだしくは超絶せず。転輪王の相のごとし。そもそもまた大きに提婆達多に同じ。減ずるところ唯一なれば、阿闍世王をして、ここをもつて乱を懐かしむることを致す。刪闍耶等あへて蟷螂のごとくするも、あるいはかくのごとき類なり。このゆゑにかくのごとき身業を荘厳したまへり。この間(中国)の詁訓を案ずるに、六尺を尋といふ。『観無量寿経』(意)にのたまへるがごとし。「阿弥陀如来の身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり。仏の円光は百億の三千大千世界のごとし」と。訳者(菩提流支)、尋をもつてしていへり。なんぞそれ晦きや。里舎の間の人、縦横長短を簡ばず、ことごとく横に両手の臂を舒べて尋となすといへり。もし訳者、あるいはこの類を取りて用ゐて、阿弥陀如来の臂を舒べたまふに准じて言をなす。ゆゑに一尋と称せば、円光また径六十万億那由他恒河沙由旬なるべし。このゆゑに「相好光一尋 色像超群生」といへり。
 問ひていはく、『観無量寿経』にのたまはく、「諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入る。このゆゑになんぢら心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ三十二相・八十随形好なり。この心作仏す。この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず」と。この義いかん。答へていはく、「身」を集成と名づく。「界」を事別と名づく。眼界のごときは根・色・空・明・作意の五の因縁によりて生ずるを名づけて眼界となす。これ眼ただみづからおのが縁を行じて他縁を行ぜず。事別なるをもつてのゆゑなり。耳・鼻等の界もまたかくのごとし。「諸仏如来はこれ法界身なり」といふは、「法界」はこれ衆生の心法なり。心よく世間・出世間の一切諸法を生ずるをもつてのゆゑに、心を名づけて法界となす。法界よくもろもろの如来の相好の身を生ず。また色等のよく眼識を生ずるがごとし。このゆゑに仏身を法界身と名づく。この身、他の縁を行ぜず。このゆゑに「一切衆生の心想のうちに入る」となり。「心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ三十二相・八十随形好なり」といふは、衆生の心に仏を想ふ時に当りて、仏身の相好、衆生の心中に顕現するなり。たとへば水清ければすなはち色像現ず、水と像と一ならず異ならざるがごとし。ゆゑに仏の相好の身すなはちこれ心想とのたまへるなり。「この心作仏す」といふは、心よく仏を作るといふなり。「この心これ仏」といふは、心のほかに仏ましまさず。たとへば火は木より出でて、火、木を離るることを得ず。木を離れざるをもつてのゆゑにすなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごとし。「諸仏正遍知海は心想より生ず」といふは、「正遍知」とは真正に法界のごとくにして知るなり。法界無相なるがゆゑに諸仏は無知なり。無知をもつてのゆゑに知らざるはなし。無知にして知るはこれ正遍知なり。この知、深広にして測量すべからず。ゆゑに海に譬ふ。
【三一】  如来微妙声 梵響聞十方
 この二句は荘厳口業功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる。ある如来を見そなはすに、名の尊からざるに似る。外道人をジョウ 車を推す して、瞿曇姓と称するがごとし。道を成ずる日、声はただ梵天に徹る。このゆゑに願じてのたまはく、「われ成仏せんに、妙声はるかに布きて、聞くものをして忍を悟らしめん」と。このゆゑに「如来微妙声 梵響聞十方」といへり。
【三二】  同地水火風 虚空無分別
 この二句は荘厳心業功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる。ある如来を見そなはすに、法を説くに、これは黒、これは白、これは不黒・不白、下法・中法・上法・上上法とのたまふ。かくのごとき等の無量差別の品あり。分別あるに似たり。このゆゑに願じてのたまはく、「われ成仏せんに、地の荷負するに軽重の殊なきがごとく、水の潤長するにショウ 悪草 カツ 瑞草なり の異なきがごとく、火の成就するに芳臭の別なきがごとく、風の起発するに眠悟の差なきがごとく、空の苞受するに開塞の念なきがごとくならしめん」と。これを内に得て、物を外に安んず。虚しく往きて実ちて帰り、ここにおいて息む。このゆゑに「同地水火風 虚空無分別」といへり。

『往生論註』巻上 総説分 観察門 衆生世間 仏 心業功徳


なんとなれば荘厳身業功徳成就とは、偈に「相好光一尋 色像超群生」といへるがゆゑなり。

 もし仏身を観ぜんと欲せば、まさに『観無量寿経』によるべし。

なんとなれば荘厳口業功徳成就とは、偈に「如来微妙声 梵響聞十方」といへるがゆゑなり。
なんとなれば荘厳心業功徳成就とは、偈に「同地水火風 虚空無分別」といへるがゆゑなり。「無分別」とは分別の心なきがゆゑなり。

 凡夫の衆生は身口意の三業に罪を造るをもつて、三界に輪転して窮まり巳むことあることなからん。このゆゑに諸仏・菩薩は、身口意の三業を荘厳して、もつて衆生の虚誑の三業を治するなり。いかんがもつて治す。衆生は身見をもつてのゆゑに三塗の身・卑賤の身・醜陋の身・八難の身・流転の身を受く。かくのごとき等の衆生、阿弥陀如来の相好光明の身を見たてまつれば、上のごとき種種の身業の繋縛、みな解脱を得て、如来の家に入りて畢竟じて平等の身業を得。

『往生論註』巻下 解義分 観察体相章 衆生世間 仏【八七】より

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