還浄された御門徒様の学び跡 |
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるときすなはち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
山折哲雄先生は著書「悪と往生」にこのように言われている。
第二集ではこのことをテーマに聴聞したい。親鸞は教行信証の中で何を主張しようとしたのか、そこの凝縮されている主題は何か。
私のみるところ、この作品に展開されている重大なテーマはただ一つ、《父殺しの罪を犯した悪人は果して宗教的に救われるのか》、というクリティカルな主題だったと思う。「五逆と謗法のものを除く」というこの除外規定ははたして真か僞か。親鸞はその問いに向かってさらに思索を重ねていく。阿弥陀如来の救済力は有限なのか無限なのか。人間の根元悪は、阿弥陀如来への信によってはたして乗り越えられるのか、超えられないのか、……親鸞が直面した大きな問いである。その問いと四つに取り組んだ葛藤のあとが教行信証という作品を生んだ。
と誓われています。
「わずか十回でも念仏して若しわたしの国に生まれないようならわたしは決してさとりを開きません」と誓われた法蔵菩薩は、更につづけて、「ただし五逆の者と正法を謗った者は除く」と誓われています。山折先生の言われる「阿弥陀仏の誓の除外規定」である。
阿弥陀仏は、因位の誓を世自在王仏をはじめ、多くの大菩薩の前で「十方衆生をひとしく、すべて救いとらなければ、わたしは正覚(さとり)を開かない」と誓われ、いまその誓の通り成就されたのになぜ除外規定があるのか。いや、まさしくこれは除外規定なのか。このことについて聴聞を重ねたい。
名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほ(潮)に一味なり
『高僧和讃』 曇鸞讃(41)
『顕浄土真実教行証文類序』(総序)を拝読すると、
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多のこと)、闍世(阿闍世のこと)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提(韋提希夫人のこと)をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
<以下略>
意訳▼(現代語版 より)
わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。
ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆婆羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや佛の教えを謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。
よって、あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、得がたい金剛の信心は、疑いを除いてさとりを得さしてくださるまことの道であると知ることができる。
と示されています。
山折先生の言われる「教行信証のクリティカルテーマ」がここに示されていることである。
浄土真宗は悪人正機・信心正因・現生正定聚・称名報恩であります。悪凡夫こそめあて、その救いがたい悪人である五逆十悪のもの、また仏法なきが故に犯される悪業のもの、正法を誹謗する無仏・無仏法のものが弥陀の光に照らされて回心し救われてゆくことこそ、阿弥陀至徳の名号の功徳であり、佛恩に称名報恩させていただくことのできるわが身のありがたさなのである。
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし
親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』(信文類三(末) 逆謗摂取釈【114】)以降に逆謗の救済について詳細に論述されている。以下引用する。
*「仏さまは治しがたい病のものについて『涅槃経』に次のように書かれている。
世の中に治しがたい三種類の病のものがいる。
@ 大乗の法をそし謗るもの
A 五逆罪を犯すもの
B 一闡提[いっせんだい] (icchantika)」
(註:闡提とは、世俗的な快楽を追求するのみで正法を信じず、さとりをも求める心がなく成仏することができない衆生)
「このような三種類の人の病は、この世で最も重く、これらはみな声聞や縁覚や菩薩などの教えでは治すことができるものではない。
これを治すには仏・菩薩にしたがって、すべてのものをさとりに至らせる尊い法を聞いてその病が治り、無上菩提心を起こす」と。
すなはち佛と佛法があってはじめて救われることを示しています。
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