還浄された御門徒様の学び跡 |
教行信証(信文類三(末) 逆謗摂取釈【115】)には、さらに、涅槃経を引いて、耆婆という医者の勧めが説かれている。
阿闍世[あじゃせ]王:
「わたしは今重い病にかかっている。正しく国を治めていた父王を非道にも殺してしまったのだ。どのような名医も良薬も呪術も行き届いた看病も、この病を治すことはできない。
わたしの父王は正しく国を治めており、まったく罪はないのに非道にも殺してしまったからだ。わたしは昔、智慧のある人からこのように聞いた。
『身・口・意の三業が清浄でないなら、この人は必ず地獄におちる』と。
わたしもまたそうなるのである」
耆婆[ぎば]:
「善いことを仰せになりました。王さまは罪をつくりましたが、深く後悔して慙愧[ざんぎ]の心をいだいておられます。王さま、仏がたは常に次のように説いておられます。二つの清らかな法があって衆生を救うことができます。その法とは一には慙[ざん]であり、二つには愧[ぎ]であります。
慙とは自分が二度と罪をつくらないことであり、愧とは人に罪をつくらせないことであります。
また慙とは心に自らの罪を恥じること、愧とは人に自らの罪を告白して恥じること。また慙とは人に対して恥じること、愧とは天に対して恥じることであります。
これを慙愧といい、慙愧なきものは人とは呼ばず畜生と呼びます。
慙愧があるから父母や師や年長の者を敬い、慙愧があるから父や母、兄弟姉妹の関係も保たれます。いま、王が十分に慙愧の心をいだいておられるのは実に善いことです」
「カビラ城に浄飯王[じょうぼんのう]の王子で姓は瞿曇[クドン]、名は悉達多[シッダッタ]といわれる方がいます(註:釈尊、ゴータマ・シッダールタのこと)。師につかずに、おのずからこの上ないさとりを開かれました。この方は仏・世尊であります。金剛の智慧をそなえられ、衆生のすべての罪悪を破ることができます。
王さまの病を治せないという道理はありません。これまでに聞かれた六人の師などとは違います」
このとき天から父王の声が聞こえ『そなたの悪い行いの罪は決して免れる事はできないと知れ。速やかに仏のみもとに行け。ほとけのほかはだれも救うことができない』と釈尊のもとに行くことを勧めたのである。
(以下、信文類三(末)逆謗摂取釈【116】より)
釈尊:
「善良な者よ、わたしは阿闍世のために涅槃に入らない。このことの深い意味をそなたはまだ理解できないであろう。
わたしが《ために》というのは、すべての凡夫のためにということである。
また《ために》とは迷えるすべての衆生のためにということである。
また、仏性を悟っていない衆生のためにということである。
また、《ために》とは、仏性のことである。
《阿闍世》とはひろくすべての五逆罪を犯すもののことである。
また、《阿闍世》とはあらゆる煩悩をそなえたもののこと。
また、《阿闍世》とは、仏性を悟っていない衆生のことである」
涅槃経の「阿闍世の為に無量億劫涅槃に入らず」という釈尊の大慈悲心は、釈迦入涅槃の場に「阿闍世并城邑、部落人民を除く。唯阿闍世王の夫人を除く」とある逆謗のものの救済にこそあることを示しています。
涅槃経は続く。
「また、《阿闍世》とは、まだ無上菩提心[むじょうぼだいしん]をおこさないすべてのもののことである。
わたしは迷いを離れて真理をさとったもののためにこの世にとどまっているのではない。
なぜなら、真理をさとったものはもはや衆生ではないからである。
また、わたしは仏性をさとったもののためにこの世にとどまるのではない。なぜななら、仏性をさとったものはもはや衆生ではないからである。
《阿闍》とは不生[ふしょう]のことである。
《世》とは怨[おん]のことである。仏性を生じないから煩悩の怨が生じ、煩悩の怨が生じるから仏性を知らないのである。
あるいは、煩悩の怨を生じないから仏性をさとり、仏性をさとるから無上涅槃に安住することができる。このことを不生という。
これが《阿闍世のため》にということである。
「不生」とは《涅槃》のことである。《世》とは世間のことである。《ために》とは汚されないということである。
仏はさまざまな世間のことがらに汚されないから、はかりしれない長い間涅槃に入らない。そこでわたしは《阿闍世の為にはかりしれない長い間涅槃に入らない》というのである。
善良なものよ、如来の奥深い言葉は不可思議である。仏・法・僧の三宝もまた不可思議である。菩薩もまた不可思議である」
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